~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

『儒教と中国ー「二千年の正統思想」の起源』読んだー㊦ー

 ・〈魏の正統性と鄭玄〉

新たに出現した「名士」たち。貧しい出身であっても人物が評価されれば「名士」になれ、その評価を基に行く行くは貴族にもなれるという道が開けた。それは当然、社会に流動性を生み出す。豪族たちは経済力ではなく、学問を修めさまざな文化を身に着けようとした。

 党錮の禁によって、出世から遠ざけられた人々が見出した人物評価という新たな価値基準によって形成された「名士」。彼らはまた、混乱した時勢の中で政策を論じる人々でもあった。

 後漢末から三国時代に、頭角を現した曹操は名士である荀彧や彼の出身母体である潁川の名士たちを自分の軍団に引き入れ、勢力の拡大を図り、官渡の戦いに勝利して華北を制圧した。当初曹操は名士たちと共同歩調をとっていた。しかし、漢を倒し自らの王朝を建てようと野望した時、この名士たちが君主権力の拡大の障害になった。「儒教的価値の優越性を梃子に文化的諸価値を専有する名士に対抗するためには、新たな文化的価値を創出し、名士のそれを相対化するか、すべての価値を君主権力に収斂する必要があった。」

 曹操が見出した新たな価値とは何か?    それは《文学》だったのである!!

そして曹操は文学を基準に人事を行うことにする。文才さえあれば、不道徳な人物でも登用するというものであり、明らかに漢時代の儒教的な発想から意図的に離れようとするものであった。あわてて軍人たちも慣れない詩を作ったりもした。この時代の儒教の呪縛から解き放たれた文学を建安文学と呼び、曹一族の曹操曹丕曹植の三人と孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀ら七人をあわせて建安の三曹七子と総称する。

 曹操の長子・曹丕は、後漢献帝から禅譲を受けて皇帝になった。ついでに先走っていうと、魏の後の西晋への交替も曹奐から司馬炎への禅譲という形をとる。この禅譲というやり方にも儒教の考え方がしみ込んでいる。いにしえの聖王である「堯」は自分の息子ではない「舜」に位を譲った。また舜も子供でない「禹」禅譲した。自分の子供ではなく、自分よりも徳のある者に位を譲ること天下を公と為す)が理想であり、それを「大同の世」と呼んで尊んだ。しかし禹の後、息子の「啓」が跡を継いだ夏王朝以降は「小康の世」と呼ばれる世の中になる。子供への世襲は「天下を家と為す」とされ、大同の世からの後退とされた。このような考えから禅譲が理想とされたので、行われたのであろうが、実際は体の良い王朝簒奪のアリバイ作りとして利用されたに過ぎなかった。

 魏王朝も当初は「文学」を支配のイデオロギーに据えていたが、政権が安定してくると次第に儒教へと回帰していった。曹魏は、後漢末の儒学者〈鄭玄〉の思想に基づいて国制を定めた。時は三国時代である(実際は遼東地方の公孫氏をいれると四国時代)。

呉には孫氏が、蜀には劉氏がいて、それぞれ王を名乗った。それに対して魏が優位に立つ点があった。魏には、天を祭る「圜丘(えんきゆう)」と「南郊」の両方があったのだ。鄭玄の六天説によると、圜丘は最高神昊天(こうてん)上帝」を祭り、南郊は下位神「五天帝」を祭る場所・施設であった。前者は魏にしか存在せず魏の皇帝の正統性付与に貢献した。

 また鄭玄は、天と天子の間に父子関係を設け、「孝」によってそれらを直接結びつけようとした。漢時代に実際に行われていた天の祭祀は「昊天上帝」を祭るだけで天と天子の間には君臣の「忠」という関係しかなかった。そこでかれは五天帝を導入し、それと受命者・感生帝(漢ならば劉邦)との間に父子関係を設定した。漢の歴代の天子は劉邦と父子関係にあるので「天」「受命者」「天子」がそれぞれ「孝」で結び付けられるようにしたのである。よって「昊天上帝」と「五天帝」をあわせて六天説というのである。この2種類の「天」を設けることで、王朝の変転(五天帝の入れ替わり)とそれでも不変である天の絶対性(昊天上帝)の両方を説明できるようにしたのである。

 

・〈晋の正統性と王粛〉

 魏もまた、臣下の司馬氏によって王朝を乗っ取られてしまう。乗っ取りの正当化に使われた理由がなんと「親不孝」なのである。司馬氏は魏の第3代皇帝・曹芳が嘘をついたり、部屋に俳優を引っ張り込んだり、女官とみだらな行為をしているなどと皇太后に上奏した。後漢時代の白虎観会議で確立された至孝の皇太后権によって、皇帝は廃位されたのである。司馬氏は「孝」を政治的に利用することをおぼえた。次の第4代皇帝・曹髦にいたっては司馬昭に殺されてしまう。主君殺しである。ここでも殺害の理由は「不孝」なのである!

 「不孝」を理由として王権を奪った晋王朝の正当化をやったのが、王粛杜預である。王粛は、まず鄭玄の感生帝という神秘的な存在を否定する。そこに讖緯思想的なものを認めないという合理的な態度が見られる。そして五天帝は天ではなく人帝であり、天は昊天上帝ただ一つだという。この思想に基づいて、晋の時代に、南郊と圜丘は一つに併せられた。

 次に王粛は、あの孔子ですら少正卯を殺したのであるから、不孝をはたらく皇帝を司馬師が殺すのは当然だ、という論理で「主君殺し」を正当化する。

 司馬氏の切り札的存在だった杜預は、『春秋』という書と孔子の繋がりを変更した。漢の儒学者何休は、孔子を「素王」と崇め、その孔子が後の「漢王朝」の成立を予想して、漢に与えるために書いたのが『春秋』だという説を表した。何休にとって「漢」は《聖漢》であった。それを杜預は否定したのである。孔子は王などではなく、単なる魯の歴史記録官にすぎず、『春秋』も漢のために書かれたものではない、としたのだった。

・〈竹林の七賢

 司馬氏による君主殺し、そしてその正当化に力を貸す儒学者たち。このような風潮を批判したのが竹林の七賢といわれた人たちであった。中でも嵆康は、その批判の苛烈さで際立っている。彼は儒教の聖人である孔子と周公を、彼等は世襲王朝を認めたとして批判する。世襲によって小康の世になるどころか、臣下が政権を簒奪する世の中になったと。嵆康は又何晏が創始した「玄学」荘子を加えることによって深化させた。

 儒教を批判する嵆康は結局、彼にかつての天敵・諸葛亮の姿をみた司馬氏によって処刑されてしまった。

 嵆康が子の嵆紹に与えた言葉「人は志がなければ人ではなく、言語により表現することが志を示すための唯一の方法である」は、文を書く全ての人に憶えいてほしい言葉だと思う。竹林の七賢というとのんきに人里離れた田舎で酒を飲んだくれて好きなことを言い合ってるというようなイメージを連想すかもしれないが、実はこんなにも厳しい状況で考え、行動していた人たちなのである。

 この後、晋は異民族の侵入を受けて衰退していく。南北朝時代の始まりである。異民族が支配した北朝では、仏教を尊崇するようになる。儒教では、民族問題を解決できなかったのだ。

 

・まとめ

法家思想⇒黄老思想⇒春秋公羊伝⇒春秋穀梁伝⇒春秋左伝⇒讖緯思想(王莽)⇒讖緯思想(劉秀)⇒儒教の国教化(白虎観会議)⇒外戚の横暴⇒宦官の横暴⇒党錮の禁⇒名士の登場⇒文学⇒鄭玄説⇒王粛説⇒玄学⇒仏教