~戯語感覚~

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『戦争の日本古代史』読んだ。ーヘイトの淵源ー㊤

 

講談社現代新書『戦争の日本古代史』(著・倉本一宏)読みました。

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昨今、日本で問題となっているヘイトスピーチ

差別は以前から確実に存在した。ただそれは一応潜在的なもので、人前で公然と顔を晒して大声でやる者はいなかった。それがここ10年位で風向きが激変した。

これまで自他共に認めるアジアナンバーワンの座に君臨してきた日本だが、その座が危うくなって(或は転落して)、礼節を顧みる余裕がなくなり、露悪趣味丸出しの本音共同体のなかで互いの傷をなめ合って小さくまとまろうとしているのだろうか?

 

なぜ日本は、日本人(の一部)はこんなゲスになってしまったのか?

それを知りたくて、この本を読んだ。

問題は近代だけにあるのではない!その根はもっと深い。

ヘイトの淵源を、滔々と流れる朝鮮蔑視という大河の最初の一滴目を確認したかった!!    (少々オーバーか?)

 

この本は、前半の三分の二が白村江の戦に至る古代の対外戦争について書かれて、残りの三分の一が中世・近世の対外戦争について触れられているのだが、このブログでは白村江の戦までについてまとめていきたい。

 

 1.〈七支刀と広開土王の碑文〉

奈良県天理市にある石上神宮「七支刀」というものがある。

この変わった形の剣は百済から倭に贈られたものと言われている。この剣には文字が象嵌されており、そこに刻まれた年号こそ日本最古の絶対年代を示すものなのだという。著者は「泰和四年」説を採っており、それは西暦になおすと369年となる。四世紀の半ばである。

では、一体なぜこれが贈られてきたのか?

  当時、百済は南下してくる高句麗と激しい戦闘を繰り広げていた。七支刀を日本に贈ったとされる近肖古王の在位中、百済は最盛期を迎え、最大の領土を持つようになる。しかし近肖古王亡き後、百済は後退を強いられることになってしまう。そんな中391年、高句麗好太王(広開土王)が即位する。百済に奪われた失地を回復するため高句麗は再び南下し始める。一方、新羅は人質を差しだし高句麗に従属する。高句麗新羅に挟まれた百済が目をつけたのが「倭国」である。百済倭国に軍事支援を求める。その証が372年に贈られた七支刀なのだと著者は言う。また外交などと言ううものを全く知らない倭国は簡単に東アジアの揉め事のなかに首を突っ込んでしまうことになる。

 倭国は391年海を渡り新羅に攻め込む。攻め込まれた新羅高句麗に援助を要請する。要請に応えて高句麗は軍を派遣、ついに倭国は本格的な対外戦争へと踏み出してしまう。かの有名な広開土王の碑文によると、400年新羅伽耶戦線で、404年帯方界戦線でいづれも倭国が大敗したと伝えている。

 高句麗に負けた倭国。それもそのはずで倭国の人々はその戦いで初めて騎兵というものを見たのだという。騎兵は強力で一騎で歩兵数十人に相当する戦力になるらしい。倭国の内戦では歩兵同士の戦いであった、それに当時の日本に人が乗る用の馬は存在しなかった。騎兵に衝撃を受けた倭人たちは「馬」の事を「駒」と呼ぶようになった。もちろんその「駒」とは「高麗(高句麗)」からきている。

 しかしこの高句麗との戦争が、現在まで続く朝鮮観を作らせてしまった。例え負けたとしても百済(そして伽耶)と軍事協定を結び、一時的であれ新羅の首都を攻め朝鮮半島の南部に軍事的影響力を持ったという事が、この後も半島における倭国の支配権を執拗に主張する根拠となった、と著者は言う。またこの戦争によって、負かされた高句麗よりも、態度が曖昧だった新羅により強い敵国意識を持つようになった。

 このあたりの反応は、高句麗が強すぎるので、弱い新羅に八つ当たりして自尊心を保とうとしているようにみえてしまう。倭国ちっさいなぁ、とも思うが、それだけではないような気がする。最初の正史『日本書紀』が書かれたのは8世紀の始めごろ。つまりその時には百済高句麗伽耶も存在しない。滅亡した百済の遺民たちが日本に沢山亡命してきており、その一部の人々が日本の朝廷で活躍していた。日本書紀の編纂に関わった百済人もいたであろう。その亡国の元百済人たちが〈歴史書〉という形で自分たちの怨嗟を晴らそうとしたのかもしれない、と思ったりもする。

 

2.〈倭の五王冊封体制

 五世紀初頭、中国の華北五胡十六国時代の分裂から北魏が統一王朝を建てる。一方の南朝では、東晋から禅譲を受けた宋王朝が開かれていた。この時代、倭国の五人の大王は、南朝朝貢して皇帝から冊封を受けていた。421年、五王の一人目「讃」が入貢したとき、なんと大王が姓を名乗っているだ!大王家は国内においては「姓」を与える存在であって、自らは「姓」を名乗る存在ではない。その大王が「倭」姓を名乗っている!これは外交上「姓」がないのは具合が悪いからである。何故なら、他の朝貢国の王も(百済は扶余氏)、また中国の皇帝も皆「姓」を持っており、姓を持たないのものは「賎民」と見做すのが東アジアの当時の常識であり、それに合わせて姓「倭」と称したのだという。

 倭の五王はそれぞれ、南朝の皇帝から爵位と官職をもらっている。大体、倭国王・使持節都督 倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓6国の諸軍事・安東(大)将軍に叙せられている(百済が入ってないことに注意!)。百済は先に冊封されており、倭国の軍事指揮権は認められていないのに対し、中国に朝貢していなかった新羅のそれは認められている。これも後に日本の対朝鮮観に重大な影響をもたらすことになる。百済が滅亡し、新羅朝鮮半島を統一した時、新羅に対する軍事指揮権が中国皇帝によって日本に認められていたということで、朝鮮全体が日本の支配下にあると主張する根拠になったのだ!

 

                次回につづく・・・