~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

『儒教と中国ー「二千年の正統思想」の起源』読んだー㊤ー

この本が扱っているのは、前漢・新・後漢・魏(三国時代)・晋・南北朝時代の約5~600年間の出来事である。この期間にいかにして儒教が、王朝の正当化に資する理論となり、国教となり、仏教によって相対化されるようになったかの変遷を、儒教の諸テキストの盛衰と伴に書いている。

 

1《皇帝と天子》

 皇帝と天子という名称は、異なる概念を指示している。それらは、決して同じものを別な様に言い換えているわけではない。皇帝とは、勿論始皇帝から始まるのであるが、先祖を祀る時に使われる自称で、一方、天子とは、天を祭るときの自称なのである。皇帝という名称には、儒教も天も関係ない。古代中国では、天が天命を与えた人物が君主となる。もしその君主が乱れた政治をしていれば、別の人物に天命が下る、「天命が革まる」、つまり革命がおこるのである。皇帝と天子が別の概念である証拠に、通常、最高統治者となる者は二度即位式をする。先帝が崩御すると、まず即日皇帝に即位する。即位は先帝の棺の前で行われる。先帝からの血のつながりで皇帝になるからである。その後、年が改まってから、天子に即位し、改元する。そして喪を解き、天を祭る祭祀を行うのである。また、皇帝中国国内における支配を示すものであり、天子は天の下のすべてのものを支配するという意味であるから、その支配権は外国・異民族にも及ぶのである。 (煬帝が、かの有名な国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや」に激怒したという話は、あたかも天子が二人いるかのような書きぶりに対してであることが、天子の意味を知れば理解できる。)

 

2《王朝の正統性とテキストの共犯関係》

 皇帝が代わるとき、また王朝が代わるとき、中国ではその交代に根拠・理屈を与えなければならなかった。その役割を担ったのが、五経というテキストなのである!五経とは、「詩経」「書経」「礼記」「春秋」「易経」の五冊の本であるが、それには注釈書、更にはその注釈書の注釈書という風に、いくつものバリエーションが存在する。例えば「春秋」には主に「公羊伝」「穀梁伝」「左伝」の三つの異なる義をもつ解釈書があり、これらの内容は全く違う。テキストが書かれた当時の政治状況を、色濃く反映しているからである。政治はテキストを利用して、自らの正統性を与え、逆にテキストは政治を利用してその書き手の勢力を拡大しようとする。まさしく、相互関係、いや共犯とでも言った方が相応しい間柄なのである。では以下に、本書で述べられている、その共犯関係を時系列に沿ってまとめていく。

 

3《漢・魏晋南北朝の思潮》

 秦時代は法家思想を軸とし、焚書坑儒で有名な様に儒教は弾圧された。儒学者の理想は「周王朝」であり、周の支配は封建制を基にしていたので、孝公以降、歴代の秦諸王の改革路線(例えば商鞅の変法)と儒者はことごとく衝突した。今でいう守旧派のような存在だった。

秦の過酷な政治に反対する勢力によって、漢王朝は建てられた。高祖劉邦は、匈奴との戦いに敗れ、屈辱的な和睦を結んででも戦争を早期に終了させたかった。この後文帝の時期までは「民力休養」的な思想、すなわち他者とは争わない、ありのままの現実を受け入れようとする黄老思想を政治理念とした。(黄は黄帝を老は老子を表している)。

 文帝・景帝を経て、国内の諸侯勢力を弱め、中央集権化を進めて、事実上、郡国制から郡県制に近くなった。民力休養が功を奏し、国力が回復した武帝の時期には、匈奴に対して反撃を開始する。武帝の時代に儒教が国教化された、と前回のブログで書いたが、教科書にも記載されているその内容は現在正しくないと見做されているそうだ。

この時期に、黄老思想から《春秋公羊学》へと体制の正統思想が変化する。孔子の書いた「春秋」という経典の公羊伝という解釈本である。何故この本がクローズアップされたかと言えば、その内容が時代の要請に最も応えたからである。

  ・春秋公羊伝の特徴とは、次の7点である。

①大夫の専断は許さないが、経に対する権を容認する

②激しい攘夷思想

③君臣の義の絶対視

④動機主義

⑤譲国の賛美

⑥復讐の積極的な肯定

⑦災異に天意を読み取る

②のはげしい攘夷思想は匈奴をはじめとする異民族への復讐の感情を反映し、⑤譲国の賛美は武帝の即位の過程を正当化するために、⑦は公羊学者董仲舒天人相関説の影響。

 

 皇孫の子供だった宣帝が即位するとき、その正当化をしなければならなかったが、それは春秋公羊伝では不可能だった。そこで新たに《春秋穀梁伝》が登場した。

  ・春秋穀梁伝の特徴

①譲国を認めない

②華夷混一の理想社会

③重民思想と法刑の並用

①は全く公羊伝と反対の解釈である。同じ「春秋」という書物に全く違う解釈をするというこの柔軟性こそ儒教が二千年の長きにわたって生きながらえた理由なのである。②は宿敵匈奴の降伏が関係している。③は寛治(ゆるい統治)と吏治(厳しい統治)の並用する、すなわち儒家と法家を併せて用いるということであり、まだ儒教一尊ではなかった。

 元帝・成帝期に、周代を理想とする儒家の思想と漢の時代の現実との齟齬が際立つようになった。それを解決するために見いだされたのが《春秋左伝》である。この時代問題となったのは、天子七廟制、郊祀(天の祭祀)、漢火徳説である。天子七廟制は皇帝の先祖の墓のどれを残しどれを壊すかという問題であり、郊祀は天子として天を祭る時それをどこで行うかという問題である。火徳説は五行説と関係している。左伝はこれらの諸問題を解決したのである。

 新しい解釈である穀梁伝・左伝の登場に対して公羊学者たちは、讖緯思想というオカルト思想で対抗した。彼らは孔子を、未来を見通す神様に仕立て上げた。筆者は儒学儒教になったと書いている。

 この讖緯思想を大衆操作に利用し政権を奪ったのが、王莽である。王莽の新王朝儒教を国家のバックボーンとした。また儒者たちは、保護者である王莽を全面的にバックアップしたのである。この時期の儒者たちに、後漢時代のような国家に迎合しない態度は見当たらない。

 

 とりあえずここまでの、まとめ

 法家思想⇒黄老思想⇒春秋公羊伝⇒春秋穀梁伝⇒春秋左伝⇒讖緯思想

 

   次回に続く