~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

加地伸行『儒教とは何か』読んだー㊦ー

〈経学の時代 下〉

 

 ・三教時代

 儒教は、原儒時代の淫祠邪教的な宗教性を抑圧し、脱魔術化して礼教性を高め、経学という新しい学問を起こして時代のニーズに応えた。儒教が国教化した漢代は、また同時にいかがわしい怪異の流行した時代だった。脱魔術化した儒教だったが、一般庶民の間では依然宗教性は生き残っており、それは予言〈讖〉やオカルト的学問〈緯学〉などを生んだ。讖は〈新〉王朝の王莽が政権簒奪を正当化する際に用いられたし、緯学も経学と共に研究された。

 

 後漢時代から、魏晋南北朝時代を経て、隋唐時代の七、八百年の間、儒教のほかに道教仏教が盛んになって、この三教が覇を競うようになった。この三つの考え方の違いを〈死〉において比較してみよう。

儒教・・・子孫の祭祀による現世への〈再生〉ー招魂儀礼

道教・・・自己の努力による不老〈長生〉ー不老長生

仏教・・・因果や運命に基づく輪廻〈転生〉ー輪廻転生

 中国人は徹底的に現実的で1分1秒でもこの世界に長く居たいと考えるので、道教の不老不死はとても人気があった。事実、昼は(公的には)儒教で、夜は(私的には)道教といわれるほどであった。それは理解できるとして、ではなぜ、全く自然環境も死生観も違うインド生まれの仏教が中国で流行したのか?

 著者は、その隆盛は中国人の大いなる誤解が齎したものであると書いている。つまり、中国人たちは、苦しみが輪のようにずっと長く長く続くという部分をすっぽかして、死んでもまた来世に、肉体を持ってこの世に生まれてこられると解釈(誤解?)したのであると。死後、〈苦の世界〉でなく、〈楽の世界〉へ生まれるという考えは、浄土教において完成する。またその浄土教は日本でも大いに流行する。

 また、仏教の側でも「盂蘭盆経」「父母温重経」などの、〈孝〉を取り入れた偽経を作って儒教にすり寄ったりもする。こうして仏教は、中国・朝鮮・日本に根付くようになったのだと。

 

科挙官僚の登場

 漢時代の中央集権体制はまだ不十分であった。地方には名門貴族が君臨しており、皇帝はそれらの大貴族と妥協して政治をしなければならなかった。中央集権を貫徹するためには、皇帝の手足となる官僚たちが必要であった。漢代、魏晋南北朝時代の官僚は推薦制(推挙)であり、そこには情実が入り(決して優秀ではない)有力貴族の子弟が選ばれる傾向があった。隋代(587年)になって、推薦制から試験制(科挙になった。科挙は公平なシステムだったので優秀な人材が選ばれるようになった。この科挙の試験の基準が儒教であったので、官僚を目指すものは儒教を勉強せざるをえなかったのである。

 皇帝直属の中央官僚機構は、宋代において完成する。

 

宋学の誕生

 道教仏教と比較して、儒教には政治理論はあったが、宇宙論形而上学が欠けていた。それを補わんとして生まれたのが宋学という新しい儒教である。その中心人物が朱熹、すなわち朱子であり、彼の学問は朱子学と呼ばれ、それは中国では科挙試験の公式解釈であったし、朝鮮では性理学となり、日本では徳川幕府の公式イデオロギーとなった。近世・近代の東アジアで大きな力を持っていたのがこの朱子学なのである。

では、朱子は何をやったのか? 具体的に見てみよう、

宇宙論存在論・・・朱子は、他の中国人と同様に物の存在をまず認める。そしてその物・対象を「理」と「気」の二元論で説明する。宇宙論としての「理」は、存在論としての「太極」ともいわれ、そして宇宙論としての「気」は存在論としての「無極」ともいわれる。「無極にして太極」無極という潜在的なものと、太極という顕在的のものが一致している。この考えはアリストテレスの「形相」と「質料」という概念にとても似ている。アリストテレス朱子も、現実の〈物〉〈物体〉から出発しているからだ。

 

②教育論・・・朱子は教育の順序を考えた。儒教には八条目といものがある(致知・格物・正心・誠意・修身・治国・平天下)これらを段階を踏んで習得していけば、聖人に成れる。この段階を踏むというのが大事で、朱子は学力に応じて教科書を用意した。『小学』から四書へ、それから五経へという風に。このように朱子が教育課程を組織的に考えたことは、中国教育史上画期的なことだった。

  

⓷道徳・・・隋唐時代から現れる科挙官僚たちは、それ以前の推挙官僚たちとは異なる倫理を持っていた。推挙官僚たちは自分を推薦してくれる、地元の人々と関係が深かったが、科挙官僚たちは逆に皇帝と深くつながるようになる。朱子はこのような科挙官僚たちに従来の共同体的な「孝」よりも、「敬(つつしみ)」を持つように求めた。「敬」とは、分かりやすく言うならば、エリートが自らを律し管理する能力の事である。この自己に対する厳しさは、自負となってあらわれ、公・国政のためには諫言さえするといった態度をとらせるようになる。

 

④家礼・・・道教仏教が混じった礼を、儒教の正統に戻そうとした。

 

 

 この後、本書は〈儒教内面化時代〉としての現代について書いている。

そこで気になったことを一つだけ書いておこう。儒教と政治意識」についてである。

科挙官僚が、自己を厳しく律し、私的ではなく公的な存在として振る舞うということから、かれらを政策の単なる実行者と見るよりは、民の模範となる道徳家・教養人と見做すようになってきた。つまり「お上」とは、法家的権力者としての威厳という意味ではなく、儒家的な道徳家という意味を持つようになったのである。これが、現在のわれわれが、政治家に特別な倫理観(政治倫理!)なるものを要請する原因なのである。(科挙官僚は、現代で言えば官僚ではなく政治家というべきだろう、現代の官僚に当たる専門家は当時「幕僚」と呼ばれていた。)

 

     

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