~戯語感覚~

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吉田孝『日本の誕生』を読んだ。ー国制と国号とー

岩波新書の『日本の誕生』吉田孝著を読んだ。

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 この本のタイトル『日本の誕生』に、著者は二つの意味を持たせている。

一つは、国制としての日本の誕生

そしてもう一つは「日本」という呼称・国名の誕生である。

 

 著者はこの国の基本的な国制・文化、すなわち近代明治維新以前までのそれらが、平安時代に形成されたとする。その古典的国制とは、

(イ) 天皇を核とし、摂政・関白、院(上皇)、征夷大将軍等がその権力を代行する。

(ロ) 五畿七道諸国(大八洲)を領域とする。

(ハ) イエ(家)の制度。

(ニ) ヤマト言葉(母音は五つ)。かな文字と漢字の併用。

(ホ)  宗教意識の基層としての神仏習合。『古今集』に代表される自然観・美意識。

の五点である。明治新政府はこれらの基本的国制を覆すためにわざわざ平安時代以前の神武創業までさかのぼって、復古的な国制をモデルとしたのだ。

 ではもう少し詳しく見ていこう。

 

 平安時代に確立されたという上記の国制より以前はどうだったのか?

たとえば、聖徳太子の「冠位十二階」や「十七条の憲法」はどのような経緯で導入されたのか?それには中国というよりも、先ず朝鮮の国制が我が国に影響を与えたのだと著者は指摘する。倭国の「冠位十二階」は高句麗の制度を取り入れたものだという。このような影響関係は倭国と朝鮮諸国の間だけに起こったことではなく、中国を中心にしてちょうど反対の位置にあった「吐蕃」と「吐谷渾(とよくこん)」の関係にそっくりだという。まず中国の制度を、地理的により近い「吐谷渾」が採り入れ、その後吐蕃が採用するという風に。実際倭国は、隋王朝が中国を統一するまで一世紀以上も国交を持たなかったが、朝鮮三国とは密な関係にあった。

 

 隋による中国統一、乙巳の変以後の大化の改新百済高句麗の滅亡、白村江での敗北、そして壬申の乱などを経て「倭」は「日本」へと国号をかえ、中央集権体制を築き上げ、律令国家を樹立する。中国の制度を移植した「律令制」は当時の日本にとっては現状と乖離したオーバースペックなものだったという。また中国は春秋・戦国時代に血縁共同体が解体されていたのに対して、日本にはそれがまだ色濃く残っており、導入された律令制と伝統的な氏族制の二階建てのような統治構造にならざるを得なかった。

 律令制は大量の行政書類を生み出すこととなり、それによって文字の使用が拡大されていく契機になった。また「大宝律令」の蔭位制では父子関係が重視され、子には「嫡子」も「養子」も共に含まれていた。養子は血縁関係のない子供でもよく、日本独自の「イエ制度」を生み出すことになった。(中国や朝鮮では、結婚しても母親の姓は変わらないし、同姓は結婚できない。また養子は同姓から取る。)

 

 平安京への遷都は新しい王朝の始まりにも等しい出来事だった。事実、天智系であった桓武天皇は、天武系の天皇が作った奈良の平城京を捨てた。そしてこれは珍しいことなのだが、「天神」を祭る郊祀を行った。中国では郊祀において「昊天上帝」と王朝の始祖(漢王朝ならば劉邦)を共に配祀するのだが、桓武は始祖として父の「光仁天皇」を配祀したのである。

 桓武天皇は、帝国の皇帝たるべく、蝦夷阿弖流為を征伐するために征夷大将軍を任命する。ちなみに、初代の征夷大将軍坂上田村麻呂ではなく、大伴弟麻呂である。

 桓武の子である嵯峨天皇淳和天皇に譲位したとき、嵯峨天皇は「太上天皇」の号をおくられた。また曾孫の清和天皇がわずか九歳で即位した時、自律的な天皇制が完成したと著者は言う。奈良時代ならば、女帝がワンポイントリリーフのように登場する所だが、皇位継承が安定してきたためその必要が無くなったからだ。幼帝の誕生は、それを補佐する摂政・関白という令外官を出現させる。平安前期に、院、摂政・関白、征夷大将軍などが出揃って、古典的国制が一応完成するのである。

 律令国家とは、他国との関係で言い直すならば、蕃夷を従える帝国である。朝鮮の三国(高句麗百済新羅)はそれぞれ中国に冊封されていたので律令は作れなかった。しかし日本は、隋・唐と使節や留学生を派遣しても冊封は受けなかった。したがって独自の律令も可能だったし、天皇が「姓」を持たないこともできたのである。

 そして九世紀中頃になると、かつては受け入れていた新羅の漂着者を追い返すようになった。古代あれほど活発だった朝鮮半島との交流も途絶えることになり、日本は狭い「大八洲」に閉ざされ、その外部はケガレた土地であると見做すようになってしまった。

 

 では、「国号・日本」はどのように生まれたのか?

  壬申の乱の際、大海人皇子は吉野から伊勢国に辿り着き、そこで天照大神に勝利を祈る。それに天照が応える。当時、この乱の勝敗は誰にも予想がつかないほどシビアなものだったらしい。兵に守られずに戦いに突入し、勝利を収めた大海人皇子は「神」と喩えられたそうだ。伊勢神宮から神風が吹いたと和歌に詠われもしている。天武は即位後、長らく廃止されていた斎宮を復活させた。壬申の乱における大海人皇子の勝利を機に、日本に沢山あった太陽神信仰の対象が、天照大神に集中することになる。伊勢神宮の地位が上昇し、皇位は「天つ日嗣」と観念されるようになる。もし、壬申の乱の勝者が大友だったら、国号は「日本」になっていなかったのではないかと著者は推察している(近江朝の人々には「日」よりもむしろ中国的な「天」の観念が強かったから)。

 「日本」とは王朝名である、と著者は言う。中国で言えば「秦」とか「漢」とか「唐」である。だから王朝が、皇帝の姓が替われば当然、王朝名も替わる。しかし日本ではそれが起こらなかった。壬申の乱桓武平安京遷都などは新しい王朝を開くという意気込みが当事者にはあったのあろうが、それが王朝名「日本」の変更にはつながらなかった。天皇に姓は無く易姓革命は起こらず、ときどきの権力者たちも旧来の国制を利用した。たまたま古典的国制が継続されたので、日本という王朝名がそのまま国号へと、なしくずしに移行していった。

 

 以上で二つの主要な論点をまとめた。ここからはそれ以外に気になった事をざっとメモしていく。

 

日本は、東アジアでも非常に早い段階で、奴隷(生口)を貨幣の様に使用していた。中国への朝貢品として、或は朝鮮半島で出る鉄への対価として生口が使われていた(他にパッとするものがなかったとも言えるが)。弥生時代が戦国時代と並ぶ戦乱の時代だったのは、生口を捕虜として得るためでなかったかと著者は述べている。

 

・「飛鳥は日本文化のふるさと」などと言われているが、雄略天皇の頃は住人のほとんどが渡来人だった。高松塚古墳の壁画も渡来人が描いた。

 

・日本語の助詞や助動詞を初めて表記したのは柿本人麻呂である。

 

伊勢神宮壬申の乱の時、そして桓武天皇が病気平癒を祈願し参拝した時、宇佐八幡宮大伴旅人が隼人征伐に成功した時、地位を上げた。

 

藤原仲麻呂儒教を、道鏡は仏教をそれぞれ自分の王権の基盤正当化に使った。

 

           長くなったのでここらへんで、《完》