~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

『儒教と中国ー「二千年の正統思想」の起源』読んだー㊥ー

前回は「」王朝まで書いたが、今回はその続きの後漢時代以降について。

 

 王莽が讖緯思想を使って王権を奪取したように、光武帝・劉秀も讖緯思想、とりわけ図讖と呼ばれるものを重視した。図讖とは、龍や亀が背負って示したという聖なる図のことである。劉秀が新を倒したことを「図讖革命」とする研究もあるそうである。だが劉秀は、子供の頃から神秘思想にかぶれていた王莽よりも合理的な人だった。緯書や図讖も兄・劉縯の死によって自分が皇帝になる可能性が出てきた時、機を見て初めて利用されたのである。劉秀は即位するために、嘘だと分かっている図讖を敢えて政治的に使ったのだ。

 光武帝崩御する前の年に、儒教に関係ある施設である明堂・霊台・辟雍および北郊(地を祭る)を完成させ「図讖を天下に宣布」したのである。このことは、(緯書によって神秘化された)儒教光武帝によって、後漢の唯一の正統思想になったことを意味する。

 しかしこの時、王莽が皇帝に即位した時とは異なり、緯書の利用を批判する儒者が出現しだしたのだ。即位の根拠となる緯書・図讖を批判するのであるから当然命懸けである。このような矜持を持った後漢時代の儒者は、権力にすり寄った前漢儒者たちに比べて内在的だ、と筆者は書いている。

 儒教の国教化

 従来の教科書に載っている儒教の国教化は、前漢時代の武帝期とされているが、筆者は後漢の章帝期だと主張している(例えば儒教官僚の三公九卿への進出の割合を見てみると、武帝期では2%であるのに対して、光武帝~章帝期には77%にも達しているという事実があるという)。ここで問題となるのは、何をメルクマールとして国教化されたと見るかである。筆者は以下の4点を挙げている。

①思想的内容としての体制儒教の成立

②制度的な儒教一尊体制の確立

儒教の中央・地方の官僚層への浸透と受容

儒教的支配の成立

  

 後漢は早くも和帝の頃、外戚の専横によって国家が傾き出す。この外戚の台頭にも儒教が関わっている。「春秋」に「娶るに大国を先にする」という理念があり、以前に罪を犯した家でも大国ならば再び皇后に選ばれ、その家は外戚になってしまうのである。皮肉なことに、後漢を衰退させた外戚勢力は儒教によって守られていたのである。

 儒教に守られた外戚儒教官僚が倒せるわけがない。実際、外戚勢力に対抗したのは宦官だった。宦官は皇帝の子供時代からの遊び相手であったりと皇帝との個人的つながりが強い存在なのだ。よって地位は低いが皇帝権力の延長線上に自らの権力も行使するようになる。

 しかしこの宦官の私的な権力行使は、地方の郷挙里選に自分の親族を推薦するように圧力をかけたりする、などのように、国政の私物化を齎してしまった。また、外戚勢力も同じように関係者の推挙を強要して郷挙里選という官僚登用システムを破壊していった。このような宦官の横暴に対して、儒教官僚たちは抵抗をはじめる。

 

・宦官vs.儒教官僚

 抵抗しだした儒教官僚に対する、宦官側からの反撃が2回にわたる党錮の禁である。有力な儒教官僚が弾圧され、将来官僚となるべく太学で学んでいる儒生たちも就職難に陥ってしまった。これら弾圧された人々が、すでに宦官への賄賂の額と直結した物に成り下がっていたそれまでの価値基準である「官僚の地位の上下」以外の価値観を見つけ出した。その価値観こそ「名士」というものだったのである。

 名士たちは、国家から離れ自律し、独自の価値観で動き出す。彼らは、人物評価というものをしだした。第二次党錮の禁で死刑になった李膺は、人物評価の大家と見做され彼に高く評価されれば「龍門を登った」(登竜門の由来)と言われた。李膺の後は、郭泰許劭が大家とされた。三国志で有名なあの魏の曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評したのは許劭である。この人物批評によって曹操は名士グループの一員と成れたのである。

 

とりあえずまとめ⑵

法家思想⇒黄老思想⇒春秋公羊伝⇒春秋穀梁伝⇒春秋左伝⇒讖緯思想(王莽)⇒讖緯思想(劉秀)⇒儒教の国教化(白虎観会議)⇒外戚の横暴⇒宦官の横暴⇒党錮の禁⇒名士の登場

    

    〈続く〉