~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

加地伸行『儒教とは何か』読んだー㊥ー

 この『儒教とは何か』という本は、中国における儒教の発達・発展を以下のように時代に沿って4段階に分ける。

 

 ⑴:原儒時代    前6世紀以前

 ⑵:儒教成立時代  前6世紀~前2世紀

 ⑶:経学時代    前2世紀~20世紀

 ⑷:儒教内面化時代 現代~未来

 

 前回書いた分は、⑴と⑵にあたり、今回は⑶の一番長い経学時代について書く。

4〈経学の時代 上〉

 

 周王朝時代は封建制の時代であり、初の統一王朝〈秦〉は郡県制を採用した。これはもっと分かりやすく言い替えることができる。封建制とは、王権が相対的に弱く、貴族(諸侯)の力が強い政治体制であり、地方分権な権力配置になりやすい。逆に郡県制になると、中央から地方に役人を派遣し直接監督するので、貴族などの中間勢力が介在できず中央集権的な権力配置になる。秦は、中央集権国家を作り、また旧来の慣習に依らず成文法による法治国家を作った。しかしこのことは、貴族たちにとって芳しいことではない。自分たちの既得権益を侵されることであり、特権を奪われることであったから。

 よって、〈秦〉はカリスマ始皇帝没後、急速に滅亡する。貴族たちの反乱である。

その後成立した前漢王朝では、秦の過激な中央集権が見直されて、封建制と郡県制のハイブリッドである郡国制となる。中央は官僚が支配し、地方には同族の皇子、または功臣などが派遣されるようになった。

 

 では前漢時代、儒教はどうなったのだろうか?

 儒教の母体となったのは、家族でありそれを縦軸に延長した宗族という血縁共同体と、農業を基本的な生業とする庶人たちにとって重要な農作業を共にする地縁共同体という二つの共同体であった。この共同体で行われるさまざまな祭祀に儒は、礼の専門家として根を張っていた。しかし、秦の時代中央集権的な官僚主義国家(というのはきわめて法家的概念なのである!)では、儒家が国レベルで活躍することはできなかった。

 儒家は、この中央の官僚システムに入り込むために、従来の祝巫・シャーマン的な〈儒〉の在り方からの脱皮をしようとした。孔子はその魁であった。孔子は、さまざまあった「詩」や「書」のテキストを整理統合した。以後、「詩」や「書」は儒家専門のテキストのようになった。そしてこのテキストを〈古典を解釈する〉という手法(詐欺?)で、新たな時代に適応しようとしたのである!〈聖人と関わりの深い古典について解釈を加える学問〉これを経学という。「詩」は「詩経」、「書」は「書経」と呼ばれるようになる。

 儒家は、非常に巧妙だった。焚書坑儒という儒家にとって災いを、逆手にとって、新たなテキストを出現させた。学者の家の土壁を壊したら、そこから古い文章がみつかったという怪しげな逸話で有名だが、それが事実であったかどうかは疑わしいのだそうだ。そうやって、古文派のテキスト(古い文字で書かれていたためそう呼ばれる)と、従来のテキストである今文派(隷書でかかれてある)の2つの学派ができる。名前こそ古文・今文だが、内容は古文の方が新しい!つまり儒家が、漢の時代にふさわしいように書き換えたテキストを偽作したのである。

 

 さて経学という新たな学問によって中央官僚機構に乗り込んできた儒家は、「孝経」「春秋」というテキストを重視した。「孝経」は詩経書経と違って、初めから経という字がついている。

 「孝経」で儒家は何を主張したかと言えば、それは「孝」という儒家の伝統的な概念の拡大である。例えば、

〈小行〉・・・ただの孝

〈中行〉・・・父母、君主、目下のものに対して従う

〈大行〉・・・道(どうり)や義(ただしさ)に対して従う

のように、道義という普遍的なものが君父よりも、孝よりも上にあるという考えである。

 また、孝と忠の関係も問題になった。この二者の概念は本質的に矛盾する概念である。戦争に行って戦って死ぬことは、君主に対する忠となるが、親に対しては不孝である。法家である韓非子は孝と忠を分離して考えたが、儒家にとってはそうはいかず、この二つの概念を架橋して連続させねばならなかった。著者は、当時の国家が公的・私的の区別がまだあいまいだったので、この連続性が可能になったと説明している。つまり、王朝は決まった姓の一族(漢は劉氏、唐は李氏など)のものであり私的な部分を多大に持っており、官僚は、国家に奉仕しているのか、私家に奉仕しているのかあいまいだった(それ故マックスウェーバーは、中国における官僚制を家産官僚制と呼んでいる)。

 「孝経」と同じく「春秋」というテキストも重視された。春秋は魯という国の歴史を書いたものである。この書は現実政治に対応するために、そこからさまざまな教訓を得て、実際の政治に生かすために重宝された。ちなみに「春秋」には尊王攘夷という思想が強く表れている。

 

 前漢武帝の建元五年に、五経博士という官職がおかれる。つまり、儒教が国教化されたのである。