~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

前漢・新・後漢・魏・西晋・東晋 皇帝一覧表

次から書く記事のために、中国の漢・魏晋南北朝時代の皇帝一覧表を予め載せておきます。(以下ウィキペディアからの引用です。)

 

前漢
太祖(劉邦、在位紀元前206年 - 紀元前195年)
恵帝(劉盈、在位紀元前195年 - 紀元前188年)
少帝恭(劉恭、在位紀元前188年 - 紀元前184年)
少帝弘(劉弘、在位紀元前184年 - 紀元前180年)
太宗文帝(劉恒、在位紀元前180年 - 紀元前157年)
景帝(劉啓、在位紀元前157年 - 紀元前141年)
世宗武帝(劉徹、在位紀元前141年 - 紀元前87年)
昭帝(劉弗陵、在位紀元前87年 - 紀元前74年)
昌邑王(劉賀、在位紀元前74年)
中宗宣帝(劉詢、在位紀元前74年 - 紀元前49年)
高宗元帝(劉奭、在位紀元前49年 - 紀元前33年)
統宗成帝(劉驁、在位紀元前33年 - 紀元前7年)
哀帝(劉欣、在位紀元前7年 - 紀元前1年)
元宗平帝(劉衎、在位紀元前1年 - 5年)
孺子嬰(劉嬰、在位6年 - 8年)


王莽(在位9年 - 23年)

後漢
世祖光武帝(劉秀、在位25年 - 57年)
顕宗明帝(劉荘、在位57年 - 75年)
粛宗章帝(劉炟、在位75年 - 88年)
穆宗和帝(劉肇、在位88年 - 105年)
殤帝(劉隆、在位105年 - 106年)
恭宗安帝(劉祜、在位106年 - 125年)
少帝懿(劉懿、在位125年)
敬宗順帝(劉保、在位125年 - 144年)
沖帝(劉炳、在位144年 - 145年)
質帝(劉纘、在位145年 - 146年)
威宗桓帝(劉志、在位146年 - 167年)
霊帝(劉宏、在位167年 - 189年)
少帝弁(劉弁、在位189年)
献帝(劉協、在位189年 - 220年)


216年 - 220年、曹操は、後漢に封ぜられた「魏王」だった。
曹騰は、文帝によって、高帝と追号された。
曹嵩は、文帝によって、太帝と追号された。
曹操は、文帝によって、太祖武帝追号された。
高祖文帝(曹丕、在位220年 - 226年)
烈祖明帝(曹叡、在位226年 - 239年)
斉王(曹芳、在位239年 - 254年)
高貴郷公(曹髦、在位254年 - 260年)
元帝(曹奐、在位260年 - 265年)

西晋
司馬昭は、264年 - 265年に魏の「晋王」だった。
司馬炎は、265年に魏の「晋王」だった。
司馬懿は、武帝によって、高祖宣帝と追号された。
司馬師は、武帝によって、世宗景帝と追号された。
司馬昭は、武帝によって、太祖文帝と追号された。
世祖武帝司馬炎、在位265年 - 290年)
孝恵帝(司馬衷、在位290年 - 306年)
孝懐帝(司馬熾、在位306年 - 311年)
孝愍帝(司馬鄴、在位313年 - 316年)

東晋
中宗元帝(司馬睿、在位317年 - 322年)
粛祖・粛宗明帝(司馬紹、在位322年 - 325年)
顕宗成帝(司馬衍、在位325年 - 342年)
康帝(司馬岳、在位342年 - 344年)
孝宗穆帝(司馬耼、在位344年 - 361年)
哀帝(司馬丕、在位361年 - 365年)
廃帝 海西公(司馬奕、在位365年 - 371年)
太宗簡文帝(司馬昱、在位371年 - 372年)
烈宗孝武帝(司馬曜、在位372年 - 396年)
安帝(司馬徳宗、在位396年 - 418年)
恭帝(司馬徳文、在位418年 - 420年)

 

 

加地伸行『儒教とは何か』読んだー㊦ー

〈経学の時代 下〉

 

 ・三教時代

 儒教は、原儒時代の淫祠邪教的な宗教性を抑圧し、脱魔術化して礼教性を高め、経学という新しい学問を起こして時代のニーズに応えた。儒教が国教化した漢代は、また同時にいかがわしい怪異の流行した時代だった。脱魔術化した儒教だったが、一般庶民の間では依然宗教性は生き残っており、それは予言〈讖〉やオカルト的学問〈緯学〉などを生んだ。讖は〈新〉王朝の王莽が政権簒奪を正当化する際に用いられたし、緯学も経学と共に研究された。

 

 後漢時代から、魏晋南北朝時代を経て、隋唐時代の七、八百年の間、儒教のほかに道教仏教が盛んになって、この三教が覇を競うようになった。この三つの考え方の違いを〈死〉において比較してみよう。

儒教・・・子孫の祭祀による現世への〈再生〉ー招魂儀礼

道教・・・自己の努力による不老〈長生〉ー不老長生

仏教・・・因果や運命に基づく輪廻〈転生〉ー輪廻転生

 中国人は徹底的に現実的で1分1秒でもこの世界に長く居たいと考えるので、道教の不老不死はとても人気があった。事実、昼は(公的には)儒教で、夜は(私的には)道教といわれるほどであった。それは理解できるとして、ではなぜ、全く自然環境も死生観も違うインド生まれの仏教が中国で流行したのか?

 著者は、その隆盛は中国人の大いなる誤解が齎したものであると書いている。つまり、中国人たちは、苦しみが輪のようにずっと長く長く続くという部分をすっぽかして、死んでもまた来世に、肉体を持ってこの世に生まれてこられると解釈(誤解?)したのであると。死後、〈苦の世界〉でなく、〈楽の世界〉へ生まれるという考えは、浄土教において完成する。またその浄土教は日本でも大いに流行する。

 また、仏教の側でも「盂蘭盆経」「父母温重経」などの、〈孝〉を取り入れた偽経を作って儒教にすり寄ったりもする。こうして仏教は、中国・朝鮮・日本に根付くようになったのだと。

 

科挙官僚の登場

 漢時代の中央集権体制はまだ不十分であった。地方には名門貴族が君臨しており、皇帝はそれらの大貴族と妥協して政治をしなければならなかった。中央集権を貫徹するためには、皇帝の手足となる官僚たちが必要であった。漢代、魏晋南北朝時代の官僚は推薦制(推挙)であり、そこには情実が入り(決して優秀ではない)有力貴族の子弟が選ばれる傾向があった。隋代(587年)になって、推薦制から試験制(科挙になった。科挙は公平なシステムだったので優秀な人材が選ばれるようになった。この科挙の試験の基準が儒教であったので、官僚を目指すものは儒教を勉強せざるをえなかったのである。

 皇帝直属の中央官僚機構は、宋代において完成する。

 

宋学の誕生

 道教仏教と比較して、儒教には政治理論はあったが、宇宙論形而上学が欠けていた。それを補わんとして生まれたのが宋学という新しい儒教である。その中心人物が朱熹、すなわち朱子であり、彼の学問は朱子学と呼ばれ、それは中国では科挙試験の公式解釈であったし、朝鮮では性理学となり、日本では徳川幕府の公式イデオロギーとなった。近世・近代の東アジアで大きな力を持っていたのがこの朱子学なのである。

では、朱子は何をやったのか? 具体的に見てみよう、

宇宙論存在論・・・朱子は、他の中国人と同様に物の存在をまず認める。そしてその物・対象を「理」と「気」の二元論で説明する。宇宙論としての「理」は、存在論としての「太極」ともいわれ、そして宇宙論としての「気」は存在論としての「無極」ともいわれる。「無極にして太極」無極という潜在的なものと、太極という顕在的のものが一致している。この考えはアリストテレスの「形相」と「質料」という概念にとても似ている。アリストテレス朱子も、現実の〈物〉〈物体〉から出発しているからだ。

 

②教育論・・・朱子は教育の順序を考えた。儒教には八条目といものがある(致知・格物・正心・誠意・修身・治国・平天下)これらを段階を踏んで習得していけば、聖人に成れる。この段階を踏むというのが大事で、朱子は学力に応じて教科書を用意した。『小学』から四書へ、それから五経へという風に。このように朱子が教育課程を組織的に考えたことは、中国教育史上画期的なことだった。

  

⓷道徳・・・隋唐時代から現れる科挙官僚たちは、それ以前の推挙官僚たちとは異なる倫理を持っていた。推挙官僚たちは自分を推薦してくれる、地元の人々と関係が深かったが、科挙官僚たちは逆に皇帝と深くつながるようになる。朱子はこのような科挙官僚たちに従来の共同体的な「孝」よりも、「敬(つつしみ)」を持つように求めた。「敬」とは、分かりやすく言うならば、エリートが自らを律し管理する能力の事である。この自己に対する厳しさは、自負となってあらわれ、公・国政のためには諫言さえするといった態度をとらせるようになる。

 

④家礼・・・道教仏教が混じった礼を、儒教の正統に戻そうとした。

 

 

 この後、本書は〈儒教内面化時代〉としての現代について書いている。

そこで気になったことを一つだけ書いておこう。儒教と政治意識」についてである。

科挙官僚が、自己を厳しく律し、私的ではなく公的な存在として振る舞うということから、かれらを政策の単なる実行者と見るよりは、民の模範となる道徳家・教養人と見做すようになってきた。つまり「お上」とは、法家的権力者としての威厳という意味ではなく、儒家的な道徳家という意味を持つようになったのである。これが、現在のわれわれが、政治家に特別な倫理観(政治倫理!)なるものを要請する原因なのである。(科挙官僚は、現代で言えば官僚ではなく政治家というべきだろう、現代の官僚に当たる専門家は当時「幕僚」と呼ばれていた。)

 

     

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加地伸行『儒教とは何か』読んだー㊥ー

 この『儒教とは何か』という本は、中国における儒教の発達・発展を以下のように時代に沿って4段階に分ける。

 

 ⑴:原儒時代    前6世紀以前

 ⑵:儒教成立時代  前6世紀~前2世紀

 ⑶:経学時代    前2世紀~20世紀

 ⑷:儒教内面化時代 現代~未来

 

 前回書いた分は、⑴と⑵にあたり、今回は⑶の一番長い経学時代について書く。

4〈経学の時代 上〉

 

 周王朝時代は封建制の時代であり、初の統一王朝〈秦〉は郡県制を採用した。これはもっと分かりやすく言い替えることができる。封建制とは、王権が相対的に弱く、貴族(諸侯)の力が強い政治体制であり、地方分権な権力配置になりやすい。逆に郡県制になると、中央から地方に役人を派遣し直接監督するので、貴族などの中間勢力が介在できず中央集権的な権力配置になる。秦は、中央集権国家を作り、また旧来の慣習に依らず成文法による法治国家を作った。しかしこのことは、貴族たちにとって芳しいことではない。自分たちの既得権益を侵されることであり、特権を奪われることであったから。

 よって、〈秦〉はカリスマ始皇帝没後、急速に滅亡する。貴族たちの反乱である。

その後成立した前漢王朝では、秦の過激な中央集権が見直されて、封建制と郡県制のハイブリッドである郡国制となる。中央は官僚が支配し、地方には同族の皇子、または功臣などが派遣されるようになった。

 

 では前漢時代、儒教はどうなったのだろうか?

 儒教の母体となったのは、家族でありそれを縦軸に延長した宗族という血縁共同体と、農業を基本的な生業とする庶人たちにとって重要な農作業を共にする地縁共同体という二つの共同体であった。この共同体で行われるさまざまな祭祀に儒は、礼の専門家として根を張っていた。しかし、秦の時代中央集権的な官僚主義国家(というのはきわめて法家的概念なのである!)では、儒家が国レベルで活躍することはできなかった。

 儒家は、この中央の官僚システムに入り込むために、従来の祝巫・シャーマン的な〈儒〉の在り方からの脱皮をしようとした。孔子はその魁であった。孔子は、さまざまあった「詩」や「書」のテキストを整理統合した。以後、「詩」や「書」は儒家専門のテキストのようになった。そしてこのテキストを〈古典を解釈する〉という手法(詐欺?)で、新たな時代に適応しようとしたのである!〈聖人と関わりの深い古典について解釈を加える学問〉これを経学という。「詩」は「詩経」、「書」は「書経」と呼ばれるようになる。

 儒家は、非常に巧妙だった。焚書坑儒という儒家にとって災いを、逆手にとって、新たなテキストを出現させた。学者の家の土壁を壊したら、そこから古い文章がみつかったという怪しげな逸話で有名だが、それが事実であったかどうかは疑わしいのだそうだ。そうやって、古文派のテキスト(古い文字で書かれていたためそう呼ばれる)と、従来のテキストである今文派(隷書でかかれてある)の2つの学派ができる。名前こそ古文・今文だが、内容は古文の方が新しい!つまり儒家が、漢の時代にふさわしいように書き換えたテキストを偽作したのである。

 

 さて経学という新たな学問によって中央官僚機構に乗り込んできた儒家は、「孝経」「春秋」というテキストを重視した。「孝経」は詩経書経と違って、初めから経という字がついている。

 「孝経」で儒家は何を主張したかと言えば、それは「孝」という儒家の伝統的な概念の拡大である。例えば、

〈小行〉・・・ただの孝

〈中行〉・・・父母、君主、目下のものに対して従う

〈大行〉・・・道(どうり)や義(ただしさ)に対して従う

のように、道義という普遍的なものが君父よりも、孝よりも上にあるという考えである。

 また、孝と忠の関係も問題になった。この二者の概念は本質的に矛盾する概念である。戦争に行って戦って死ぬことは、君主に対する忠となるが、親に対しては不孝である。法家である韓非子は孝と忠を分離して考えたが、儒家にとってはそうはいかず、この二つの概念を架橋して連続させねばならなかった。著者は、当時の国家が公的・私的の区別がまだあいまいだったので、この連続性が可能になったと説明している。つまり、王朝は決まった姓の一族(漢は劉氏、唐は李氏など)のものであり私的な部分を多大に持っており、官僚は、国家に奉仕しているのか、私家に奉仕しているのかあいまいだった(それ故マックスウェーバーは、中国における官僚制を家産官僚制と呼んでいる)。

 「孝経」と同じく「春秋」というテキストも重視された。春秋は魯という国の歴史を書いたものである。この書は現実政治に対応するために、そこからさまざまな教訓を得て、実際の政治に生かすために重宝された。ちなみに「春秋」には尊王攘夷という思想が強く表れている。

 

 前漢武帝の建元五年に、五経博士という官職がおかれる。つまり、儒教が国教化されたのである。

加地伸行『儒教とは何か』読んだー㊤ー

 この本を読んで、仏教プロパーだとずっと思っていた物事が実は儒教に由来していると知って驚いた。例えば、「」。仏教では骨は単なるモノにすぎないから特別埋葬もせず、拝みもしない(まあ仏舎利という例外もあるが)。儒教においては頭蓋骨が特別の意味を持つと見做されおり、家の中に箱に入れられて安置され、それ以外の骨は埋葬されて、それが墓になった。それから「仏壇」と「位牌」。仏壇は儒教〈廟、祠堂、祖先堂〉が変形したもので、位牌はさっき述べた祖霊の依代となる頭蓋骨が、木札に代わってそれが更に変形したものらしい。墓参りは、清明から来ており盆や彼岸とは全く関係がない。ちなみに葬式の後、清め塩を使うのは死を忌み嫌う神道に由来する。だから日本の葬式というのは、仏教儒教神道コングロマリット、寄せ集めの儀式なのである。

 

前置きはこれくらいにして本題に入ろう。

1〈儒教における

 儒教において死がどのように捉えられているのかは、当然のことだが中国人たちの死生観と不可分である。インド人が自分が生きている世界を「苦」と考えたのとは違って、中国人たちは「この世」「現世」を楽しいものと考えた。これにはもちろん人々が置かれた自然環境のきびしさの度合が大きく関係している。過酷な自然は、人間に「死後の世界」というものを夢想させる。輪廻転生しかり、天国しかり。しかし現世が一番と考える即物的な中国人にとって、この世ほど素晴らしい所は存在しない。だから、この世に一分一秒でも長くいたい、そう希望する中国人にとって「死」はそれだけ余計に恐ろしいものなのになった。この「死」というものをどう馴致するか、「死」を恐ろしくないものとして説明してくれる仕組みを中国人は求めた。それに答えたのが、他ならぬ儒教なのである!!

 

2〈死の説明理論としての儒教

 著者がこの本で一番言いたかったのは、

儒教は死と深く関わった宗教である」ということだろう。

 これは儒教に対してわれわれ日本人がもつイメージとはかなり懸け隔っているだろう。儒教はそのような実存的な側面(著者は宗教性と呼ぶ)よりも、むしろ四角四面な道徳的・規範的な面(著者は礼教制と呼ぶ)で捉えられているからだ。

 では現世的・即物的な中国人たちを「死」の恐怖から解き放った理論とは一体どのようなものなのか?儒教はどう「死」を説明し飼いならすのか?

 それは〈孝〉によってである!

「親孝行」という言葉があるように、普通〈孝〉は親と子の関係で考えられる。しかし、儒教はそれをもっと拡大解釈したのだ。つまり、〈孝〉は、親を越えて先祖に対しても、更に下って、自分が生むであろう子孫たちにも拡大されたのである。

先祖・・・・祖父\祖母・・・・親・・・・自己・・・・子・・・・孫

 先祖との関係(過去)、親と自分との関係(現在)、子孫との関係(未来)これら3つの関係を考える。今、自分が執行する招魂儀礼のような儀式は、祖霊を現在(の自分の身体)に再生することである。また将来、一族が継続すれば、子孫も同じように儀式をするであろう。そうすれば、自分は未来に子孫の身体に再生することができる。そうして自分の命は、永遠に(勿論一族が残っていればという条件付きで)つづくということになる、と説明したのである。

 この説明は、先祖崇拝を受け入れていた中国人にとって、もっともらしく思われた。

天国へ行くのでもなく、また六道を輪廻するでもなく、たのしかったこの世界に戻ってこられるという儒教の説明は説得力を持ったのだ。

 

3〈孝から礼へ  孔子の登場〉

〈儒〉は、孔子以前から存在していた。実際、孔子の母方の祖父は〈儒〉を生業にしていた。当時の儒は、招魂儀礼の際に儀式の進行をしたり、憑依したりする「巫祝・シャーマン」であった。それには狂気と猥雑性が伴った。また、シャーマンといっても全てが超能力を持つのではないから、自然と儀式の依頼主に阿諛追従するものもあった(これらは仁人といわれた)。

 孔子が登場し、そのような猥雑性を取り除くように努力した。孔子はシャーマンのような儒を「小人儒」とよび批判した。それに対して脱魔術化して、儀式の意味を考え説明できるような儒を「君子儒」とよびそれの確立をめざした。

 

 孔子は幼い頃に父を亡くし、母親も十代に見送っている。また後に教師となり弟子をたくさん持ったが、顔淵や子路などに先立たれている。孔子にとって死は、〈孝〉の自覚をもたらす最大の契機であった。この場合、死は身近の、親しいものの死である。

 親しい者の死を最も悲しみ、親しさの濃淡に従って、悲しみも増減する。見ず知らずの他人の死は悲しくない。墨家兼愛のように誰の死であっても悲しいというのは嘘だ、と儒家は考える。儒家は徹底して常識的である。

 ではもっとも親しい者とは誰か?「親」であると孔子は言う。つまり親の死がもっとも悲しいと。ふつう親は自分よりも先に死ぬ。この「親の死」の喪礼(葬礼ではない)があらゆる儀礼、冠婚(昏)葬(喪)祭の模範となるべきものである。つまり、

  死(の不安)⇒孝⇒親の死⇒喪礼⇒礼制

 となり孝の上に礼が成り立つと考えられるのだ。この礼は家族関係をもとにしているので小礼と言われている。

 先述したように、孔子の母方は「儒」であった。なので彼は、地方の中小共同体で行われるような儀礼のことは詳しかった。しかし、もっと大きな、国規模の大礼については疎かった。孔子は、それを学ぶために当時の首都・洛陽へ留学している。彼の地で、孔子は〈書〉や〈詩)や礼・楽などを学んだ(書経詩経でないことに注意!経になるのは経学ができてから)。それらは儒教の経典ではなく、当時の官僚の必須教養であった。孔子は礼の専門家になり官僚養成学校を開き、そこで教え始めた。知識(知育)だけでなく、それを現実にどう生かすかに重点を置いて彼は教えていたようだ(徳育)。

 現実の中で活かすということは、当然政治の中でも実践するといことを意味する。

孔子は当時の封建的な君臣の関係が不安定であること問題視した。そして君臣間にも礼を求めた。家族理論を政治理論に応用したのが孔子である(後に朱子はそれを宇宙論形而上学にまで拡大したが)。この孔子の政治理論は「徳治」といわれ、「法治」と対立するようになる。徳治は、周王朝の名残があった封建的な時代にふさわしい考えで、すでに秦王朝の帝国、中央集権時代では少し合わなくなっていた。しかし著者は、徳治と法治は対立するものでなく、道徳が一番上にあり、それに従わないものがいた時その場合は法で罰する、徳治にも法治は必要なのだと注意を促している。

 では中央集権体制の下で、儒教は滅んだのか?

いや、儒教は、その体制下で官僚たちの内面を方向付けるイデオロギーとして確固たる地位を築くに至ったのである!  

      

                     次回につづく 

初期議会  ~日清戦争への道➁~

◎第5回帝国議会 ( 1893年(明治26年)11月28日 - 1893年(明治26年)12月30日)

   星亨・衆議院議長 不信任決議案可決⇒しかし居座る

   与党化した自由党VS野党硬六派の対決 

  (硬六派:立憲改進党 自由党との民党連合がうまくいかなかったため対外硬派に転向

       東洋自由党 かつての自由党左派・大井憲太郎 

       国民協会  西郷従道品川弥二郎が下野して1892年6月結成

       大日本協会 元「内地雑居講究会」安部井磐根

       同盟倶楽部 元吏党

       政務調査会 

   条約励行建議案提出⇒進行中の条約改正の阻害になるため議会を停会⇒解散

   大日本協会解散命じる

    政府与党が抑制的で野党の方が好戦的

 

第3回衆議院議員総選挙 1894年(明治27年)3月1日  

  議席 自由党        120議席 

     立憲改進党       60議席

     国民協会        35議席

     同志倶楽部       24議席

     大日本協会       9議席 

     同盟倶楽部       18議席  

     無所属         34議席    

 

 国民協会に対する選挙干渉、議席数半減

 

◎第6回帝国議会  (1894年(明治27年)5月15日 - 1894年(明治27年)6月2日)   

    貴族院 近衛篤麿らを中心に伊藤内閣を批判 

    全国の新聞雑誌記者が連合して対外硬を支持⇐マスコミも好戦的

    1ヶ月にもならない6月2日に解散 

   陸奥・青木による条約改正が山場⇒7月16日、日英通商航海条約締結(領事裁判権の撤廃)⇒実質的に朝鮮半島の侵略をイギリスが認めたことを意味する(対露政策の一環)

 

  8月1日 日清戦争  

 

 

第4回衆議院議員総選挙 1894年(明治27年)9月1日

 議席自由党        107議席
    

    硬六派
     立憲改進党     49議席
     立憲革新党     39議席
     国民協会      32議席
     帝国財政革新会   5議席
     中国進歩党     4議席
     無所属       64議席

 

 9月15日に大本営帝国議会広島へ移る

 

◎第7回帝国議会 (1894年(明治27年)10月18日 - 1894年(明治27年)10月21日 )

     挙国一致体制

初期議会  ~日清戦争への道①~

第1回衆議院選挙 (1890年 (明治23年) 7月1日)

 

   山県有朋内閣(1889年(明治22年)12月24日 - 1891年(明治24年)5月6日)

    議席立憲自由党板垣退助)  130議席 民党

       大成会(増田繁幸)     79議席 吏党

       立憲改進党大隈重信)   41議席 民党

       国民自由党          5議席 吏党 (旧自由党後藤派系)

       無所属           45議席 

 

◎第1回帝国議会 (1890年(明治23年)11月29日 - 1891年(明治24年)3月7日)

 

 山県有朋「主権線・利益線演説」

 民党 「政費節減」「民力休養」   予算案で激突⇒解散の危機!

 自由党土佐派(28名)の裏切りで予算成立⇒中江兆民激怒、議員辞職する。

 議会終了後 山県辞職

 

第1次松方正義内閣 (黒幕内閣)

    (1891年(明治24年)5月6日 - 1892年(明治25年)8月8日)

 

◎第2回帝国議会 1891年(明治24年)11月26日 - 1891年(明治24年)12月25日 

 

 軍艦建造費削減⇒樺山海相「蛮勇演説」⇒衆議院解散

 

  伊藤博文 政党結成に動くも、明治天皇や他の元老たちに反対され諦める。

 

第2回衆議院選挙 (1892年(明治25年)2月15日)

 品川弥二郎内相による選挙大干渉(死者25名、重傷者400名)

  議席自由党     94議席 民

     立憲改進党   38議席 民

     中央交渉部   81議席 吏 (旧大成会

     独立倶楽部   31議席 吏

     近畿倶楽部   12議席 吏

     無所属     44議席

◎第3回帝国議会 (1892年(明治25年)5月6日 - 1892年(明治25年)6月14日)

   選挙干渉に対して内閣弾劾上奏案⇒否決⇒内閣問責決議案⇒可決

   品川内相責任を問われ辞職

   政府の選挙干渉を批判して陸奥宗光農商務大臣辞任 

   民党と政府が協力して「鉄道施設法」成立

   品川擁護派と批判派で閣内分裂⇒松方首相辞任

 

第2次伊藤博文内閣 (1892年(明治25年)8月8日 - 1896年(明治29年)9月18日)

 「元勲内閣」 超重量級内閣 首相経験者2人が入閣(黒田・山県)

 

◎第4回帝国議会 (1892年(明治25年)11月29日 - 1893年(明治26年)2月28日)

   軍艦建造費を巡って、内閣と衆議院が衝突⇒明治天皇の「和協の詔勅」⇒政府と民党が妥協⇒自由党の与党化(民力休養から民力養成へ)

 

明治25年11月 千島艦事件発生 ⇒ 対外硬論が台頭してくる

明治26年7月 条約改正交渉再開 外相・陸奥宗光

 

 

 

 

 

 

~核時代のトリックスター~

あさま山荘事件をご存知だろうか?

リアルタイムに知らなくても、よく戦後重大事件史とか、昭和10大事件簿みたいなタイトルでテレビの特番が組まれて、この事件は必ず採り上げられるのでテレビをよく見た世代の人なら知らない人はいないだろう。

 

連合赤軍との銃撃戦で警官が2人殉職されているこの事件なのだが、民間人が一人犠牲になっているのも知っているだろうか?

その民間人は新潟県からやって来た。人質を取っての立て籠もりが4日目を迎えた日、三千人いたという《やじ馬》達の中の一人が、あさま山荘の裏山を登って警備網をすり抜けて、建物の玄関前に躍り出たのである。

 

彼は、この事件を扱った映画やドキュメンタリーでは、軽く触れられてあとは無視されるか、警察の作戦を撹乱する邪魔者の如く扱われている。

しかし、彼(Tさんと言おう)は、もっと大きな存在者だった!

作家・大江健三郎は連作小説『河馬に噛まれる』の《「浅間山荘」のトリックスター》で次のように書いている、

ー籠城の四日目だと思う。あなたもテレヴィ中継や新聞報道で大きく扱われたのを見られたと思うけれども、弥次馬の中年男が撃たれました。建物のなかの「左派赤軍」と、包囲をしている機動隊というより、こちら側、テレヴィ画面を見つめている市民の側との、仲裁役、調停役を志願して、彼は撃たれた。いつの間にか建物の玄関口まで近づいて、内部に声をかけていたのでした。新潟のスナック経営者ということだったが。そうです、ご存知でしょう。数日後には死にました。うしろから頭を撃たれていた…僕の小説の構想には、端的にああした人物が欠けていたのです。「浅間山荘」の事件全体を理解するためには、あの仲裁役、調停役を志願して撃たれたスナック経営者のような人物が必要だった。あの無意味な死をとげた不幸な人物を媒介にすれば、自分の小説も、もひとつ高いレヴェルに押しあげて把えることができたのじゃないか、と思ったものです。革命運動というレヴェルを超えて、思想的な文脈のなかに…

 

左派赤軍と警察の間を、越えがたい深淵を架橋する者としてのトリックスター。それが新潟からやってきたTさんなのだ!

 

彼は、山荘の扉を開け(それは意外にもたやすく開いた!)、次のように左派赤軍の若者たちに語ったという。

赤軍さん、赤軍さん、中へ入れて下さい。私も左翼です。あなた方の気持ちはよく分かります。私も警察が憎い。昨日まで留置場に入ってたんです。私は医者です。新潟から来ました。」

しかし、Tさんの言葉は通じなかった。彼は頭部を撃たれ、その場に倒れた。よろよろと立ち上がって「大丈夫だ・・・」と言ったが、数日後亡くなってしまった。

 

この光景を単に、物見遊山で眺めることもできただろう。

実際、当時の日本人がそうであったように。

だが、作家として大江は、「左派赤軍」と「機動隊」の両者の銃器の前に立ち、大きな恐怖を抱いて頭を撃たれたTさんに向けて、その恐怖に釣り合う大きさの《希望の言葉》を我々は探すべきだった、と書いている。

 

「恐怖」につりあう「希望」のことば。

 

それを見出すことは、あさま山荘事件以降、今日においても、いや現在こそ必要とされているのではないだろうか?

世界・社会・共同体に兆している亀裂は、70年代よりもはるかに広く、深いものとなっている。宗教・民族・肌の色・国籍・貧富の差・思想信条によって人々は、互いに分裂対立し、個人は価値の島宇宙を孤独に漂うだけだ。

人間集団は、多数派と少数派に分かれ、多数派は少数を圧殺しようとする。

その時、多数派でもなく、少数派でもない、わけのわからない(帰属集団が不明な)トリックスターが、その対立・緊張を和らげ、かつ、憎悪と不信と恐怖に、充分対抗しうるだけの「希望の言葉」を見出し発することが、再び現実味を帯びてきてしまった現在という核時代に必要とされているのではないかと、私は思うのである。

 

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