~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

柄谷行人『世界史の構造』を読んだ ー(2)

(2)ミニ世界システム 

 

 ミニ世界システムとは氏族社会のことで、この用語はチェースダン(Christopher Chase-Dunn)の世界システム論に由来している。ウォーラーステインは、国家形成以前の世界をシステムと見做さなかったが、チェースダンはそれも世界システムの一つに分類した。

 氏族社会は、柄谷にとって重要である。それは交換様式Dに基づく世界共和国が、資本主義社会の中で、交換様式Aを想像的に回復させることによって可能になるからだ。

 「…氏族社会はたんなる”未開”ではなく、われわれに或る未来の可能性を開示するものとなる。」

  

 ① 《定住革命》

 

 柄谷は農業・牧畜が始まって後に、人々が定住をし、生産力の向上とともに階級が生まれ、国家が誕生したという従来の見方(『新石器革命』)を否定する。農業・牧畜は定住に先立たれねばならないと考える。農業は採集の拡大であり、牧畜は狩猟の延長にあるとする。人類の社会に大きなインパクトを与えたのは「定住」なのであると。柄谷はこれを西田正規にならって《定住革命》と呼ぶ。 

 では何故、人は定住するようになったのか?この点を考える際に、人というものはそもそも条件に恵まれれば定住するものだという偏見を取り除かなければならない、と柄谷は注意する。「定住」はそれ以前に問題にならなかった不都合に直面させるからだ。例えば、集団内・外の対人的な葛藤や対立を深刻化させる。又、死者と共に生きることを強制するようになる。これらは漂泊生活ならば移動すれば済む問題であったが、定住するとそうはいかなくなる。このような困難にみまわれるにもかかわらず定住の道を選んだのは「気候変動」のためだと柄谷は言う。氷河期後の温暖化で大型獣が姿を消し、森林化によって植生が変化して採れる植物の季節変動が大きくなって採集生活に支障をきたすようになった。それで彼らは「漁業」に目をむけるようになった。漁具が大きく持ち運びできず彼らは河の近くに定住するようになった、それが古代文明が河のほとりで誕生した理由であると。その後農業は定住した河の後背地で始められたと柄谷は考えている。

 急に「気候変動」などと実証的な説明を始めるから面食らうが、〈漂泊→農業→定住〉よりも〈漂泊→定住→農業〉の方がしっくりくる。人に定住志向があるというのは現在の私たちの暮らしぶりを絶対的な基準にした憶断かもしれない。

  

 

 ② 贈与と呪術

 

 氏族集団はけっして孤立的で自足的な存在ではない。氏族は自分たちで調達できない有用品などを、他の氏族から得たいと思っている。この場合、方法は二種類ある、交易と戦争である。

 交易は氏族間の関係が良い場合に起きる。この良好な関係をもたらすのが贈与である。「クラ交易」のように”ヴァイグア”贈与が既存していた部族連合の紐帯を再確認、再活性化するようなケースもあるし、「沈黙交易」のように未知の部族間で起こるケースもある。

 関係が良好でない場合は戦争・略奪となる。しかし柄谷は、戦争も互酬の一形態だと考えている。この段階の戦争は相手を従属させるのが目的ではなく,自らの「威信」のために為されるので止めどなく行われる。相手を殲滅さえさせる。それは、この戦争を禁止するような上位の集団が存在しないために起こるのだと。

 「…互酬は、そのポジティブな性質(友好)によって国家の形成を妨げるだけではない。むしろ、ネガティブな性質(戦争)によって、国家の形成を妨げる。それは、権力の集中、上位レベルの形成を妨げる。…」(P59)

 クラ交易の紐帯活性化のように、贈与は力を生み出す。ではその「力」の淵源は一体なんなのか?

マルセル・モースは「ハウ」のような宗教的観念で説明したが、それはむしろ逆だと柄谷は言う。

互酬(相互の贈与)を呪術によって説明するのではなく、呪術を互酬によって説明すべきであると。

「呪術とは、自然ないし人を、贈与(供儀)によって支配し操作しようとすることである。」(p79)

 呪術師は、自然の持っている「アニマ」を贈与によって脱霊化し、単なる〈それ〉(もの)へと変えてしまう。その意味で呪術師こそ最初の科学者なのだ。

 

 

 まとめ

1:農業から定住が始まったのではなく、定住から農業が始まった。

2:互酬は、交換の力によって、王や国家のような超越的審級の存立を阻止する。

3:呪術師は、自然を脱霊化した最初の科学者である。 

  

 注:引用は単行本の『世界史の構造』からです。

                                               次回につづく

柄谷行人『世界史の構造』を読んだ ー(1)

 

『世界史の構造』はこれまでの柄谷行人の著作の中で、私にとって一番読み易かった。若い頃、すなわち文芸評論家と称していた時分の柄谷の文章は韜晦めいて非常に分かりにくかった。その理由は柄谷が、自分の考えを直接書くのではなく、テクストに語らせようとしていたことにある。 それに対して『世界史の構造』は、《哲学者》として自分の思想を直接的(テクストに縛られず)に、明晰に、かつ体系的に書かれてあるので、比較的厚い本であるにもかかわらず、理解しやすかった。

 

  

 この本の内容を一文でまとめるならば、現代社会は、資本=ネーション=国家が一体となった精緻なシステムによって支配されているので、それを超えるためには世界共和国を実現しなければならない。」というものになるだろう。これだけでは何か凡庸で、月並みな、往時の革命志願者の戯言と見えるだろう。確かにそうだと私も思う所があるが、その結論へと至るプロセスがなかなかスリリングでおもしろいのである。ただ感想を書くだけではもったいない細部を持った本なので、何回かに分けて内容を紹介していきたいと思う。

 

 (1)交換様式論 

 柄谷は社会構成体の変遷を、支配的な交換様式の交代劇としてとらえている。なぜ交換様式なのか? マルクス史的唯物論は世界史を「生産力」と「生産諸関係」の矛盾とその止揚とみなした。すなわち「生産」の観点から歴史を解釈したのである。この観点を柄谷は問題視した。「生産」から見る限り原始的な社会構成体の現象、「共同寄託」や「互酬」を説明できないと。それらは生産以前の現象であって、それを事後的に「家庭的生産様式」などといって説明しようとするのは、資本制社会の概念を無理やり原始の時代に投射するものだと批判した。また「生産力」と「生産諸関係」という観点は、「下部構造」による「上部構造」の決定という図式を伴う。経済という土台が、政治、法、思想などの上部構造を拘束しているという例の公式である。この図式も、国家(という上部構造)が、単なる受動的な存在だと思わせてしまうので明瞭に誤りだと指摘している。(もちろん柄谷は、マルクスの誤謬を指弾するだけではなく、資本主義経済の仕組みを暴くためにいったん国家を括弧にいれただけだと擁護することも忘れてはいない。)国家は社会主義共産主義革命が達成されれば自動的に解消するような受動的な存在者でなく、それ自身の働きを持つ能動的な主体であると柄谷は考えているのだ。

 以上の理由によって、「生産」概念よりも「交換」による方が分析に適しているのだとする。交換は、原始時代も通用するし、それは「政治」や「道徳」までも説明可能だと。

 「交換」は「力」を生成する。例えば「贈与」である。贈与は贈られた方に、「返礼」の圧力を生み出す。卑近な例では、メールをもらうと返信しなければと思ってしまう。これは交換が力と関係してるからである。交換が生み出す力にはいくつかの種類がある。それは「掟」「国家の法」「貨幣の力」「神の法」の4種類である。それぞれは交換の種類に対応している。以下わかりやすくするために表にしておく。

交換様式A

   互酬

    掟

 氏族社会

交換様式B

  略奪と再分配

   国家の法

 世界=帝国

交換様式C

  商品交換

   貨幣の力

 世界=経済

交換様式D

    X

   神の法

 世界共和国

 

 (表中Xは商品交換が支配的な社会で互酬を想像的に回復させたものである。)

 世界=帝国とはアジア的専制国家、古典古代国家、封建国家をひっくるめたもの。

 世界=経済は資本主義的国家のことである。

 この表を見るときに注意しなければならないことが3点ある。

1:これは時系列的に見られてはならない。Aが古くCが新しいと見てはならない。

2:地理的な限定を無視しなければならない。アジア専制国家と言えば、例えばペルシャ帝国、漢などを思い浮かべるかもしれないが、それはアメリカ大陸にもロシアにもアフリカにさえもあった。

3:交換様式Dはいまだかつて実現化されたことがない様式である。よって世界共和国なるものも存在したことがない。

 

 それから一番大事な注意点だが、これらの交換様式は互いを排除しない。複数の交換様式が同時に並存する。しかし支配的な交換様式がその時代を最も特徴づけるのである。

 近代社会において「互酬」は「ネーション(国民)」が、「略奪と再分配」は「国家」が、「商品交換」は「資本」が担っている。よって《資本=ネーション=国家》の三位一体を分析しなければならないと、柄谷は主張するのである。 

                                          

                                                                                次回につづく

よく聴くK-ROCK

 日韓ワールドカップ前くらいから、韓国の音楽を聴くようになった。

おそらく最初に聴いたポップスはオムジョンファ(漢字で書くと『厳正化』!)の「リモコンとマニキュア」だったような気がする。変わった曲名なので覚えてる。当時韓国で流行ってたんだと思う。現在、オムジョンファは俳優さんとしても大活躍中だ。

 

 

 ワールドカップ共催ということで、韓国関係のTV番組も多かったように記憶してる。その辺の事情は今とはだいぶ違ってる。音楽番組で『韓ナリ』っていうのがUHF(死語!)で放送していてよく視ていた。その番組で韓国のポピュラー音楽を初めて知ったわけだ。アイドル中心だったが、たまにロック系のバンドも紹介されていた。

よくPV流されていたのが紫雨林(ジャウリム)』『ローラーコースター』『ファニーパウダー』だった。

 

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 関係ないですがちょうどその頃「PSY」がデビューしてました。扱いとしては、「踊れるデブ」みたいな感じだったような・・・

 それから『ソテジ』もよく流されてましたね。その頃はもう「ソテジワアイドゥル」じゃなくてソロでした。ソテジのPVとか視てると日本のサブカルとか好きなんだろうなと感じざるをえません。

 

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このソテジ主宰のレーベルに加入してブレイクしたのが『nell(ネル)』です。

 

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ボーカル、「キム・ジョンワン」の優しく、透明感のある歌声がいいですね。

だんだん現在に近づいてきます(笑)。

さて、一時期あまり韓国音楽を聴かない時期がありましたが(KARAや少女時代とかの人気が逆に関心を失わせた)、最近また聴くようになりました。それもPOST-ROCKというジャンル(?)です。世界的に流行ってるんで日本でもそうですし、勿論韓国でもそうです。

その中で一番最初に見つけたのが『Dear cloud』です。

きっかけは「パクチユン」の第七集アルバムに、Dear cloudのギター「ヨンリン」が参加していたからです。パクチユンは以前のアイドルから脱皮して、シンガーソングライター路線になるのかとこの時は思いました(が、最近また昔に戻ってるような…)。この曲はヨンリンが作曲しています。

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ちなみに後ろでレスポール弾いてる人がヨンリンです。

 

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「Dear cloud」を見つけたことによって、再び韓国音楽を聴くようになったのです! ありがとうーDear cloud!!!

 

 次は『ironic HUE(アイロニックヒュー)』です。このバンドは、ユーチューブで見つけました。ギターがピンクフロイドのギルモアに似てるなと感じ好きになりました。後で知ったのですがギターの一人は女性です。

 

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ベースの「チョ・インス」さんとは何回かツイッターでやり取りしたことがあります。

とてもいい人です。

さて長くなってきたので最後に、『비둘기우유(ピドゥルギウユ)』で終わりましょう。変わった名前は「鳩乳」と言う意味で、幻覚を起こす薬の名前からきてるそうです。ボーカル・ギターが昨春に「ハン・イエソル」さんに変わりました。まだ初々しいです。

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『Dear cloud』『ironic HUE』『비둘기우유』についてはまたいつか詳しく書きたいと思います。とりあえず、紹介までに。

 

 

 

好きなギタリスト 〈アコギバージョン〉

1ヶ月ぶりです。

今日は音楽について書きます。

私は特にアコースティックギターの音が好きなのですが、

その原因を作ったのが、誰あろう、さだまさしです。

子供の頃、ちょうどニューミュージックが流行っており、

アリス、松山千春さだまさし中島みゆきユーミンetc

などが人気者だった。

これらの中でも私は、断然「さだまさし派」でした。

歌詞が良かったのも勿論ですが、まっさん(さだ氏の愛称)のギターの音が

明らかに他のミュージシャンと異なって聴こえたのです。

どう違うのか??

一言で申せば、「音が立っている」

もう少し補足すれば「音が垂直に立っている」。

さださんの強いピッキング、ミディアムゲージの弦、

それからテリー中本さんの作るギターが相まってあのような音が生まれるんだと思います。

また、大観衆相手にギター1本でステージに立つ姿も、

孤高』

と形容したくなるなるほどカッコ良かったです。

ただしレコード買う時は、洋楽のレコードを上に重ねて買ってましたが(スンマソン笑)

 

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あと、何人か好きなギタリストを紹介しましょう。

まずは「マイケル・ヘッジス」です。

彼はウインダムヒルレーベルでレコードが出てましたから結構有名だと思います。

アコギのソロを弾くということに関しては、彼を境に、「ヘッジス以前・以後」に分け

られると言われるほど影響力があった人でした。

過去形で言ったのは、もうすでに故人となっているからです。

今から19年前に、43歳の若さで事故で亡くなりました。

記事で見た時は信じられませんでした。

太く短い一生だったと思いますし、それが何か彼らしいとも思えます。

友人・知人の話では、「他人に厳しく、自分にも厳しい人」だったそうです。

音にもその感じが出てます。

ギタリストとしてすばらしですが、それ以上に作曲能力の高さで評価されています。

 

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最近よく聴いているギターリストとしては、

クレイグ・ダンドレア

 

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女性ギタリスト

カーキ・キング」とか聴いてます。

 

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彼女は、アコギにギターシンセ付けたり、

プロジェクションマッピングしたりと

いろいろ前衛的なことに挑戦しています。

 

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今回はアコギヴァージョンでしたが、

次、機会があればエレキヴァージョンも書くつもりです。

 

 

熊井啓監督「地の群れ」を観た。~希望なき映画に希望をみる~

 

 原作は井上光晴。映画の脚本も井上本人と熊井啓監督の共同執筆。井上光晴三島由紀夫安部公房とほぼ同年齢。後者二人の作品はほとんど読んでいるが、井上の作品はなぜか全く読んでいなかった。ただ昔に原一男監督の『全身小説家』を観て、作品よりも作家自身に興味をそそられたことを思い出す。原作の『地の群れ』も未読である。近々読む所存である。よって、以下の感想も映画『地の群れ』についてのものであって、小説『地の群れ』のものではないことを予め断っておく。

 

 昭和16年、長崎の炭鉱で働いていた少年・宇南親雄は、同じ炭鉱で安全灯婦をしていた朝鮮人の朱宝子を妊娠させてしまう。宝子の姉・宰子に妊娠の責任を追及される宇南少年。これが冒頭のシーンである。

 後になって分かることだが、宝子はお腹の子を流産させようとして坑木置場から飛び降り、あやまって自分も死んでしまう。妊娠させた男について様々な噂が飛び交うが、唯一真相を知る姉の宰子も決して宇波の名前を口にしない。検定試験を控えた宇南少年にとって全てが好都合に運ぶ。しかしこの事が返って宇南の心に「疚しさ」の刻印をいっそう深く刻みこませる。彼は、試験に合格し炭鉱暮らしから抜け出て、その後医師になる。

 

 医師となった宇南は、出血が止まらないという家弓安子の診察に出かける。宇南はすぐに症状が『原爆病」に似ていると告げるが、母の光子はそれを頑なに認めようとしない。自分は原爆投下の日佐賀に疎開していて長崎にはいなかったと。

 

 宇南の患者の一人に津山金代という老婆がいた。その孫の津山信夫は、被差別部落の少女・福地徳子を暴行した疑いで警察にひっぱられる。しかし信夫にはアリバイがあり、しばらくして釈放される。

 ある日、被害者の福地徳子が宇南の診療所に「暴行された証明書」を書いてくれとやって来る。理由もわからず証明書は書けないと断る宇南に彼女は「先生に話してもわからんことです!」と言い放つ。宇南をにらみつける徳子の視線が、かつて彼を弾劾した朱宰子の視線と重なる。

 

 疑われた信夫は、徳子に何故警察に嘘をついたのかを問いただそうとするが、逆に左手と耳にケロイドのある男が信夫の住む海塔新田にいないか問われる。〔海塔新田とは長崎原爆の被害者たちが多く住む地域の事で「ピカドン部落」とも呼ばれている(架空の)場所だ〕。その男こそが徳子に乱暴をはたらいた真犯人なのであった。 

 

 徳子は一人で海塔新田にある真犯人・宮地真の家にのりこむ。しかし彼女と真、その父との間に「やった」「知らない」の口論が始まり、決して事実を認めようとしない。

 その晩、今度は母の松子が海塔新田へ一人でやって来る。再び真の父と言い争いになり、その過程で松子は「あんたは、この海塔新田が世間で何と言われとるか知っとるとね。知らんことはなかろう。あたし達がエタなら、あんた達は血の止まらんエタたいね。あたし達の部落の血はどこも変わらんけど、あんた達の血は中身から腐って、これから何代も何代もつづいていくとよ。ピカドン部落のもんといわれて嫁にも行けん、嫁にもとれん、しまいには、しまいには・・・」と口ばしってしまう。

 家の周囲に潜んでいたらしい海塔新田の人々の投石によって、とうとう松子は命を落としてしまう。 

 

 これがこの作品のざっとしたあらすじである。

 この「地の群れ」は社会派の熊井監督作品の中でも最も重い、暗いと言われた作品だ。

しかしこの映画を「絶望的」「救いがない」と形容することは、結局「何も見たくない」、「何も考えたくない」と言っているのと同じである。

 絶望の中にも希望は兆してるのであって、その幽かな希望、希望の如きものを見出し、ここに記しておきたいと思う。

 

 私が感じる希望とは、医師の宇南親雄という存在である。

彼は共産党員としての活動で同志の命を救えなかった。そればかりか彼の恋人を自分の妻にしてしまった。また、この妻が妊娠を告げるや、密に薬を盛って堕胎させたりした。

これで分かるように宇南という人間は「罪」まみれなのだ。決して尊敬されるような人物ではない。

 妻に「あれからずっと、あなたの裏側ばかりみてしまうようになった」と堕胎させたことについて吐き捨てるように言われると、宇南は「お前は、俺の裸の顔を知っているのか。俺がどんな生き方をしてきたか、本当のことを知っているのか」と答える。妻にではなく、自分に言い聞かせるように。

 

 宇南は、原爆投下直後、爆心地に父を探して彷徨し被爆した。やっと探し当てた、やけどで瀕死の父親に、生き別れた母親について問う。すると彼の母親は被差別部落出身だったことがわかる。つまり宇南は自身が被爆者であり、部落の母を持ち、かつて朝鮮人の娘を死に追いやった人なのである。

 この映画に登場する、被爆者、部落、朝鮮人という決して他者とは共有できないものを持つ者達と、少しずつ共有できるものを持つのが彼、宇南親雄なのだ。

 「他者と共有できないもの」を持つこと、それを持っていない者に決して「伝達できないもの」をもつことを宇南は「ほんとうのこと」と言っているのだ。

 本来ならば、それ一つをとっても過酷なものをあわせ持つ彼こそ、被爆者、部落、朝鮮人を媒介できる存在者なのである。

 事実、彼は「原爆病」と言われるのを拒む家弓光子に「海塔新田がへんな部落なら、日本中そうじゃないですか!」と諭す。母親を失った福地徳子をはげましに行こうとしたり、追われる津山信夫を助けようとしたりする。

 これ以降、彼がどう生きたかはわからないが、私はこんな彼に希望の可能性をみるのである。

 

 

 しかし、気がかりがある。それは劇中たびたび挿入される米軍の存在である。

宇南の頭上を飛び交う米軍戦闘機は、アメリカから見れば日本人なんて皆「イエローモンキー」なんだよ、と言ってるように思える。考えすぎだろうか?

 

 

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「祖谷物語ーおくのひとー」を観た

 蔦哲一朗監督の『祖谷物語-おくのひと-』を観ました。 

蔦監督はあの「やまびこ打線」で甲子園全国制覇をなしとげた池田高校野球部の蔦文也監督(どっちも監督!)のお孫さんだそうですが、風貌はまるっきり正反対。おじいさんの豪快な感じとは違って繊細なお顔立ちです。

 しかし!!この映画を全編・35mmのフィルムで撮影し、完成に3年もの時間を費やするなど並々ならぬ情熱と強い意志の持ち主であることがうかがえます。デジタル時代に抗ってフィルムの質感にこだわる、ブラボーです!新人監督〈なのに〉、というか新人監督〈だから〉と言うべきか無茶してます。無茶ですが、初めから小さくまとまって、コストとか手間とかにかまけてる様じゃダメです、大成しません。

 

 物語は徳島の山深い祖谷渓谷を舞台に始まります。

こんな景色以前にも見たことあるな・・・と、そうだ『萌の朱雀』だ!『杣人物語』だ!この感想は映画の後半で意外な形で的中します。

 『祖谷物語』にはあまり説明するようなシーンがない。日本の映画は、観客の事を慮ってか、或は子供扱いしてるのか、やたら説明くさいのが多いですが、その点でこの作品は、視る者に隙間を与えてくれます、想像する余地を残してくれています。そこがいい。 

 物語では、前半と後半で全く景色が異なります。

祖谷を出た「春菜」は東京で何やら研究の助手みたいなことをしています。しかも男と同棲してるみたいなのです!あの純真な,田舎の素朴な少女はどうなったんだ!?と内心叫んでいました。また研究室の先生役で「河瀨直美」が出演しててビックリさせられます(おー、萌の朱雀、当たってる!)。

 物語構造分析みたいなことを言えば、《死と再生》の物語と言えるんでしょうね。山は《生》、都市は《死》を表して、その間をつなぐのが《トンネル》なのでしょう。一度、山を下りて、都会へ出て(死)、再び山に帰る(再生)。実際、死んだ(らしい)「お爺」は「工藤」として蘇っています。(ちなみに萌の朱雀でもトンネルは登場します。)

  この映画についての他の人の感想を見てると「後半部分が余計」というのが結構多いですが、主人公の春菜が生まれか変わる為にも、都会で一度死ななければならなかったんでしょう。東京の川にマリモを放り投げ、川底までわざわざ下りていくシーンは春菜の《死》を象徴してるんだと思います。そこで発見する故郷の《かかし》は再生の導きであり、横たわる水路の入り口は、子宮だといえます。祖谷のトンネルまでが産道で、そこから出てきたときに、彼女は再生します。旅館を手伝っている友人の赤ちゃんがでてきますが、それは《生まれる》ことの暗喩です。

 あと、祖谷の山道を走る派手な色のボンネットバスは、となりのトトロの「猫バス」を連想させます。

トトロの代わりに春菜はあの《かかし》を連れています。

 細かく分析すればもっと色々、興味深いかもしれませんが、めんどくさいのでやりません。もっともらしい言い訳をすれば、映画を文学にしないためです。映画と文学は違います。文字で表せないところが、映画なのです。どんなにうまく分析しても、実際の映画作品はそれを超えています、というか、はみだしています。

 

 一言も発さない「お爺」役の田中泯さんの存在感がすばらしいです。

 これも映画は文学じゃないことの証明になっている思います。 

 

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明治初期の文藝雑誌&出版社

雑誌 

 

 ・『東京新誌』 明治9年 服部撫松

 

 ・『花月新誌』 明治10年 成島柳北 

 

 ・『団々珍聞』 明治10年 野村文夫・石井南橋・田島任天

 

 ・『魯文珍報』 明治10年 仮名垣魯文 

 

出版社&文藝誌

 

 ・金港堂 明治8年 『以良都女』 『都の花』 

 

 ・十字屋 明治10年 キリスト教関係

 

 ・内田老鶴圃 明治11年

 

 ・春陽堂 明治11年 『新小説』 

 

 ・三省堂 明治14年 

 

 ・東洋館 明治16年 →冨山房

 

 ・女学雑誌社 明治18年 『女学雑誌』巌本善治

 

 ・博文館 明治19年 『大和錦』『日本之女学』『太陽』『文藝倶楽部』

 

 ・民友社 明治20年 『国民之友』徳富蘇峰