世界共和国へ
(ⅰ)資本と国家への対抗運動
これまでの資本との闘争には二つの欠陥があったと、柄谷は指摘する。
① 資本を国家によって抑えようとしたが、それはむしろ国家を強化するだけであった。
➁ 闘争の場が、生産過程に偏っていた。
①はそのまま20世紀の社会主義国が辿った足跡を見れば一目瞭然だろう。少数の例外を除いて、社会主義国は堅牢な国家主義によって武装してしまった。
②について、19世紀の社会主義運動はオーウェンやプルードンのように、むしろ流通過程を重視したものであった。それが1871年のパリコミューンの敗北以来、生産過程中心の社会主義運動に転化していってしまった。しかし生産過程にもとづく運動(労働組合)はどうしても困難に直面してしまう。労働組合運動が、苛烈な政治闘争の末合法化されると、それは単なる賃金や労働条件闘争という経済的なものに限定されるようになる。その時点で「賃労働そのものの廃棄」という革命運動は忘れ去られてしまう。これに対して、レーニンは「外部注入論」などで対抗しようとしたが、そもそもの「階級闘争」という概念が、交換様式Cが優勢な産業資本社会では機能しなくなっているので、通用しないのだ。では、どうすればいいのか?
それは資本と労働者の接点を見ればわかる。その接点は柄谷によると3つある。
① 労働者が、労働力を(資本に)売る場面
➁(労働者が)雇用されて労働する時
③ 労働者が自ら生産したものを、消費者として買う時
これまでは➁の場面で対抗運動を展開してきたが、その地点では、外国資本との競争によって会社が倒産しないようにするために、労働者と資本は同じ立場に立ちやすくなってしまう。ゆえに異なる場面で運動を展開しなければならない。そこが、③の場面である。
『労働者は個々の生産過程では隷属するとしても、消費者としてはそうではない。流通過程においては、逆に、資本は消費者としての労働者に対して「隷属関係」におかれる。とすれば、労働者が資本に対抗するとき、それが困難であるような場所ではなく、資本に対して労働者が優位にあるような場所でおこなえばよい。』(P438)
『働くことを強制できる権力はあるが、買うことを強制できる権力はないからだ。流通過程におけるプロレタリアの闘争とは、いわばボイコットである。そして、そのような非暴力で合法的な闘争に対しては、資本は対抗できないのである。』(P440)
流通過程における資本への対抗は、商品を買わないことと、労働力商品を売らないことである。しかし、この2つのボイコットが可能になるためには、消費者=生産者協同組合や地域通貨・信用システムなどの非資本制的な経済圏を作っておかなければならないことを、柄谷は付け加えることを忘れてはいない。
柄谷は、資本は必ず国家と一緒に考えられねばならない、と本書で執拗に繰り返している。であるならば、資本への対抗運動は同時に国家への対抗運動でなければならない。
資本主義経済は海外との交易で成ったている。一国における、資本主義の放棄は他国に影響をもたらすのは明らかである。資本=国家の揚棄は必ず外国の干渉や制裁を受けずにはいない。であるから、社会主義革命は一国革命ではなく、「世界同時革命」でなければならなかったのだ。では、その世界同時革命は可能なのか?過去を振り返ってみよう。第一インターナショナルは、マルクス派とバクーニン派の対立で破綻した。第二インターナショナルは、一次世界大戦勃発による各国支部のナショナリズムへの傾倒によって瓦解した。第三インターナショナルは、ソ連共産党の傀儡であり、各国の共産党、労働組合はソ連のそれらに従属したに過ぎない。第四インターナショナルは単に無力である。毛沢東による第三世界の革命も、イスラム圏、中国、インドなどの多数の広域国家に分解されただけに終わった。
『トランスナショナルな運動は、いかに緊密に連携していても、国家間の対立によって分断されてしまうことになる』(P446)
しかし、柄谷は、「世界同時革命」のヴィジョンを決してあきらめない。そこで、担ぎ出されたのが、カントである!
(ⅱ)永遠平和と世界共和国
カントは一国内だけで「完全な意味での公民的組織」を設定するするとき、諸外国の干渉を受けざるを得ないと考えた。それを避けるために「諸国家連邦」を構想した。しかし、カントは外国の干渉を避けるためだけに、それを考えたわけではなかった。「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱う」という道徳律が実現された社会を、カントは「目的の国」と呼んだ。それは一国だけでは考えられない。何故なら、自国における完全な公民組織の実現が、他国を単に手段として扱う(収奪)ことによって成立することであってはならないからである。
『ゆえに、「目的の国」が実現されるとき、それは必然的に「世界共和国」でなければならない。』(P449)
そうでなければ、革命は、ナポレオン戦争のように世界戦争を引き起こすだけになってしまうだろう。
このようなカントの「諸国家連邦」の構想を、ヘーゲルは、諸国家連邦では、国際法に対する違反を咎めるすべがない理想論だと批判した。ヘーゲルでは、諸国家を束ねる覇権国家がなければそれは不可能だということになる。しかし、カントは決して単なるナイーブな「理想家」ではないと柄谷は言う。むしろカントにはヘーゲルのリアリズム以上の残酷な「リアリズム」があると。
カントは、覇権国家なしにどうやって諸国家連合を可能ならしめるのか?
それは人間の持つ「反社会的社会性」によってであると。「反社会的的社会性」とは、すなわち戦争をしでかす人間の能力のことである。国家間戦争による膨大な死者・損害を目の当たりにすることによって、人間は国家を越えた組織を創り出そうとするようになったというのだ。確かに実際の歴史を見ればそうである。一次世界大戦後に国際連盟ができ、二次大戦後には国際連合が形成された。それは人間の理性が生んだというよりも、確かに人間の反社会的社会性が齎したものだといえる。
(ⅲ)世界システムとしての諸国家連邦
国連は人類の大変な犠牲の上に成立したシステムであり、たとえ不完全でも、それを活用しない手はないと柄谷は言う。
現在の国連は、①軍事に関する領域、②経済に関する領域,③医療・文化・環境等に関する領域の3つの部分からなっている。
柄谷は、①と②を、③のようなネーションをこえたシステムにするべきだと提案する。『国連を新たな世界システムにするためには、各国における国家と資本への対抗運動が不可欠である。各国の変化のみが国連を変えるのである。と同時に、逆のことがいえる。国連の改革こそが、各国の対抗運動の連合を可能にする、と。』(P464)
『世界同時革命は通常、各国の対抗運動を一斉におこなう蜂起のイメージで語られる。しかし、それはありえないし、ある必要もない。国連を軸にするかぎり、各国におけるどんな対抗運動も、知らぬ間に他と結びつき、漸進的な世界同時的な革命運動として存在することになる。』(P469)
各国での対抗運動がなければ、国連が無視され、世界戦争が起こる。しかしその世界戦争は、カントによれば、また次のより高度な諸国家連邦を創ることになる。
諸国家連邦がその第一歩となる「世界共和国」の実現は、容易ではない。しかし、人間が存在する限り、人間と人間の交換関係は存続する。交換様式A,B,C,が存在する限り、交換様式Dもまた執拗に存在するのだ。