~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

柄谷行人『世界史の構造』を読んだ ー(9)

ネーション(国民)

 国家は略取と再分配という交換様式Bに基づき、産業資本は商品交換という交換様式Cに基づいている。近代国家はネーション=ステートと形容されるが、それはネーション(国民)とステート(国家)という異質なものの結合体なのである。国民国家は、絶対王権に先行されなければ成立しない。絶対王権によって、主権という概念が生まれ、それに服従する臣民が誕生する。主権者たる王が市民革命によって倒されれば、今度は市民が主権者となる。これが国民国家である。しかし国民国家において国家=資本の本質的な結びつきは見えにくくなる。何故か?それにはネーションの成り立ちが関係している。

「ネーションとは、社会構成体の中で、資本=国家の支配の下で解体されつつあった共同体あるいは交換様式Aを、想像的に回復するかたちであらわれたものである。」(P312)

 

(ⅰ)国家と資本から見たネーション形成

 

 絶対王権はまず内において中間勢力を圧倒し、王が並ぶ者のない唯一の者となる。王以外の者は、臣下として同一の地位に置かれる。次に外に対しては普遍的な権力を否定するようになる。例えば西ヨーロッパにおいては、ローマ教会や自然法、ラテン語などの権威が否定されて、国教会や世俗法、俗語などが使われるようになる。

 産業資本から見ると、ネーションは中世の徒弟制度とは違った新しい産業社会に適した労働力の育成に伴って作られたものとなる。すなわち、新たな技術に対応し、時間を厳守し、見知らぬ他人と協働する、読み書き、計算能力、労働慣習などが教育制度によって与えられねばならないのだ。更に言えば、与えられたこの共通の言語や文化がナショナリズムの基層となる。つまり、これは『ナショナリズムを育成する事と「労働力商品」を育成することが切り離せないものだということを意味している。』

 

(ⅱ)想像の共同体、ボロメオの環

 

 しかしネーションは、単に資本=国家の受動的な産物ではない、と柄谷は言う。ネーションには、資本=国家への反撥・対抗があるのだと。その反撥は感情にもとづく。もう少し詳しく言えば「連帯の感情」である。それは「家族や部族共同体の中での愛とは別の、むしろそのような関係から離脱した人々の間に生まれる、新たな連帯の感情である。」(P317)

 ベネディクト・アンダーソンはネーションを「想像の共同体」と呼んだ。アンダーソンはネーションを(普遍)宗教の代替物と考えたが、柄谷はそれを共同体の代補と見做している。

 

 ネーションが成立する18世紀に、哲学史において「想像力」の地位が上昇した。カントが感性と悟性を媒介するものとして想像力(構想力ともいう)を、ロマン派の詩人が「空想」と区別された「想像力」を、またスコットランドのハチソンが「道徳感情」について論じ、彼の弟子であるアダムスミスは共感にもとづく倫理学を作り上げた。

 後のドイツ観念論の哲学者たちは、感性と悟性を一元化しようとしたが、カントはその二者の区別にこだわった。カントにとって道徳とは、ハチソンのように感情にもとづくものではなく、あくまで理性的なものであった。感性と悟性は想像力によって綜合されねばならないのだ。柄谷はこれをネーションへと(図式的に!)当てはめる。「ネーションおいて現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補填され解消されている。」「それ(ネーション=ステート)は、資本主義経済(感性)と国家(理性)がネーション(想像力)によって結ばれているということである。これらいわばボロメオの環をなす。」(P330)

 

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 (ボロメオの環とは、そのどれか一つをとると壊れてしまうような環のこと。)

 

(ⅲ)ネーションステート帝国主義

 

 かつての帝国が「帝国の原理」によって他民族の自主性を重んじ寛容に支配したのに対して、国民国家が外へ向かって拡大する場合、同質性を強要する「帝国主義」となってしまう。そしてこの同質性の強要が、征服された人々にナショナリズムを惹起する。「帝国の支配からは部族の反乱が生じただけなのに、帝国主義的支配からは、ナショナリズムが生じる。」(P339)

帝国主義は、意図せず、他の国民国家を創り出してしまうのだ。

また、清帝国オスマン帝国などの元々の帝国(多民族国家)が近代化する際に、民族より階級を優先させるマルクス主義を採用したのは偶然ではない。