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~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

柄谷行人『世界史の構造』を読んだ ー(8)

世界史の構造

 交換様式Cが支配的な社会構成体は産業資本主義とともに初めて歴史上に現れた。これは、氏族社会、国家の出現と並んで画期的なことなのである。

 

 産業資本

 

 (ⅰ)産業資本と産業プロレタリア

 

 一般に商人資本は流通から利潤を得(安く仕入れて高く売る)、産業資本は生産過程から利潤を得るものとみなされている。しかしそれだけで商人資本と産業資本を区別することはできない。何故なら、商業資本も単に仲介するだけでなくマニュファクチャーを組織し物作りをするし(実際イタリアの物作りは今も一大ブランドである)、産業資本も安い原材料・労働力を求めて「遠隔地」へ赴く。では産業資本はどこが商人資本と違っているのか? 

 産業資本も流通過程から利潤を得るM--C--M'(M+⊿M)(お金--商品‐‐お金)、それは商人資本と変らない。しかし産業資本は、労働力という商品を発見した。労働力商品はそれを買うことが、すなわち生産過程になるという極めて特殊な商品なのである!

 勿論、賃労働者は昔から存在したが、産業資本が見出したそれは「二重の意味で自由な」労働者なのである。それを柄谷は「産業プロレタリア」と呼んでいる。二重の意味で自由とは①封建的身分拘束から自由であり(奴隷や農奴ではない)、➁労働力以外に売るものもたない(土地を所有していない)、すなわち生産手段からの自由の二点にある。

 柄谷が強調する「産業プロレタリア」とそれ以前の賃労働者との本質的な違いは、前者が自分の作ったものを買うものであるということにある。

『商人資本によるマニュファクチャーの下で生産する賃労働者は、それらの生産物を買うことはない。それは概して、海外ないし富裕層に向けられた奢侈品だからだ。しかるに、産業資本を支えるのは、生産したものを自ら買い戻すような労働者である。また、その生産物は労働者が必要とする日用品が主である。』(P278)

 『産業資本の画期性は、労働力という商品が生産した商品を、さらに労働者が自らの労働力を再生産するために買うという、オートポイエーシス的なシステムを形成した点にある。』(P280)

 

(ⅱ)貨幣の商品化・労働力の商品化

 

 商人資本から産業資本への推移を見てきたが、これとは反対の過程も生じていたのである。商人資本・金貸し資本が逆に、産業資本を包摂するようになったのである。産業資本は物を生産するに不変資本への投資が必要となるが、それは資本にとってリスクにもなりうる。純粋に利潤を追求するならば避ける方がよい。なので、産業資本は可能であれば商業や金融で儲けようとする。実際17世紀のオランダがそうであったように、また現代のマネーゲームがそうであるように。

 産業資本が不変資本への投資リスクを避けるために再登場したのが「株式会社」である。「株式会社、すなわち、資本の商品化」によって資本自体が市場で売買されることになった。これは産業資本が商人資本に転化したともいえる。

 さらにリスクを避けようとすればそれは金融資本に行きつく。金融資本は、産業資本のような自由な価格競争にさらされることなく、市場や資源を独占できるからだ。

 

 産業資本主義は「労働力」という打ち出の小槌的商品を見出したのであるが、それにはしかし致命的な欠陥が存在した。労働力という商品には市場の自己調整システムが機能しないのだ。つまり、需要がないからといって廃棄できないし、不足したからといって急遽増産することもできない。そして『労働力商品に固有なこうした特異性のために、景気循環が不可避になる。』しかし資本主義にとって恐慌は、それを崩壊させるものではなく、むしろ資本蓄積のために不可欠なものとなる。

 

 (ⅲ)産業資本主義の限界

 

 産業資本のオートポイエーシス的システムは、なかなかうまいシステムであるが、労働力という商品の性質にもとづく限界も持っている。

①たえまない技術革新が求められる。

➁たえず安価な労働者=新たな消費者を必要とする。

この2点が解決されないと資本主義は終わってしまう。

①についてはこれまで資本主義は世界商品のシフトによってしのいできた。しかしそれもそろそろ限界に近づいている。

➁について、先進国は後進国の労働力・資源を「等価交換」によって自国に吸い上げる。(一見「不等価交換」に見えるかもしれないが、柄谷は同じ価値体系において安く買って高く売ることは不等価交換であるが、異なる価値体系間では等価交換と見做せると考えている。)先進国の労働者は、後進国の労働者を搾取することによって、一定の生活水準を維持することができる。経済は、一国内で考えられるのではなく、いつも世界=経済として考えねばならないのはこれが理由である。