~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

柄谷行人『世界史の構造』を読んだ ー(10)

アソシエーショニズム 

 普遍宗教は共同体、部族、国家を越えた地点で初めて存立可能となる。共同体から切り離された個々人が、普遍宗教の「神の力」によって再び結びつく。しかし、例えばキリスト教は、国家の枠組みを越えた存在となったが、結局ローマ帝国の支配構造に組み込まれてしまった。普遍宗教によって示された交換様式Dは正統派の宗教ではなく、むしろ「異端」と呼ばれた人々の社会運動として、歴史上に現れた。

 

 (ⅰ)世界共和国

 

 初期の近代市民革命は、宗教との結びつきが色濃い。最初の市民革命が「ピューリタン革命」と呼ばれるように。名誉革命フランス革命、そして1848年の革命まではまだ、社会主義運動(貧困問題を解決しようとする運動)は宗教とのかかわりを持っていた。しかしそれ以後、キリスト教社会主義の関係は無くなった、と柄谷は指摘する。その理由は①産業資本が社会構造を根本的に変えたこと、➁1840年代にプルードンマルクスが現れたことの二点を挙げている。後者は、つまり、社会主義を宗教に基づかせる必要が無くなった、代わりに経済学を用いればよいということを意味している。

 宗教である限り社会主義運動は必ず国家に回収されてしまう。それを回避するためには宗教を捨てなければならない、しかし宗教が担っていた「倫理」をどう代替するのか?柄谷はここでカントを導入する。カントこそ宗教を批判しつつ、そこから倫理を救い出した人物なのだ。そして、その倫理とは

「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」という格率で表されるもである。これは自分が自由な存在であることが、他者を手段にしてしまうことであってはならないこと、すなわち「自由の相互性(互酬性)」を意味している。

 これを資本主義に適用すると、資本家は労働者を単なる手段(労働力商品)として扱っている。ゆえにカントの道徳律に照らすならば、賃労働そのもの、資本制的生産関係そのものを揚棄しなければならいことになる。更に柄谷は、資本のみならず国家も揚棄されねばならないという。資本=国家は一体で考えられねばならない、柄谷のこの本でずっと繰り返される持論である、と同時にカントも「世界市民的な道徳共同体」すなわち「世界共和国」を構想した、とする。

 ホッブズ一国内での平和状態を考えたのに対して、カントは国家間の平和状態を創設しようとした。

『「世界共和国」とは、諸国家が揚棄された社会を意味するのである。そして、そのことは、たんに政治的次元だけですむはずがない。国家と国家の間に経済的な「不平等」がある限り、平和はありえない。永遠平和は、一国内だけでなく多数の国において「交換的正義」が実現されることによってのみ実現される。したがって、「世界共和国」は国家と資本が揚棄された社会を意味するのである。国家と資本、そのどちらかを無視してたてられる論は空疎であるほかない。』(P349)

 そしてここで、構成的理念統制的理念を区別する。前者は、歴史上で言うならば、ジャコバン主義による理性にもとづく社会の暴力的改革である。後者は、無限に遠いものであっても、人がそれに近づこうと努めるような場合のことである。

 カントにとって「世界共和国」は統制的理念であって、決して構成的理念ではないのである。ここで注意しなければならないのは、「世界共和国」が「世界政府」ではないということだ。それならば単なる世界帝国にすぎない。「世界共和国」とは「諸国家の連邦なのである。

 

(ⅱ)二つの社会主義

 

 社会主義には2つのタイプがあると、柄谷は言う。

国家社会主義ジャコバン派、サン=シモン派、ラサール派、ルソー、

➁国家を拒否する社会主義(アソシエーショニズム)プルードンマルクス

 

 この区別は「自由」と「平等」のどちらを重視するかで、明らかになる。

平等を優先すると、それは国家による再分配機能を強めることになり、結局国家そのものの強化になってしまう。ルソーの「一般意志」も個々人の意志を国家に従属させることと同じだという。

逆に、プルードンは自由を平等に優先させた。しかし彼は平等を軽視したのではない。

国家が主体の「分配的正義」に反対し、共同体から一度絶縁した人々からなるアソシエーションによる「交換的正義」を唱えたのだと。

 

(ⅲ)労働組合と協同組合

 

 プルードンは流通過程において資本主義と対抗しようとしたが、マルクスはそれを批判した。マルクスはむしろ生産過程における対抗を重視した。それはプルードン後進国フランスをモデルに、マルクスが産業先進国イギリスをモデルに考えていたことからくる。イギリスではリカード左派による、企業の全利益が生産手段の所有者ではなく、労働にじっさい従事した者に対して分配されるべきだという「労働全収権」の主張がすでに存在していた。そして、この「労働全収権論」から二つの運動が出現する。労働組合「協同組合」である。労働組合とは、資本が労働者を結合して働かせて得る剰余を取り戻す闘争であり、協同組合とは、労働者自身が労働を連合(associate)するものである。これら二つの対抗運動は、質的に異なると柄谷は言う。前者は資本制内部での闘いであり、後者はその外部に超出しようする運動である、と説明する。プルードンは後者を指向し、マルクスはそれを批判した。しかしイギリスにおける労働組合運動が、労働力商品の揚棄にではなく、たんに労働力の商品価値を高めるだけの運動になってしまっているのを見て、協同組合を評価するようにった。〈この協同組合工場の内部では、資本と労働の対立は止揚されている〉とマルクスは言っている。

 

(ⅳ)株式会社と国有化 

 

 マルクスは協同組合を評価するようになったが、それが資本制社会の競争の下では生き残っていけないであろうことも見抜いていた。ではどうすればいいのか? 彼が見出した答え、それは「株式会社」にある。「株式会社」において資本と経営は分離されている、株主は生産手段に対する所有権を持たない。株式会社を「共産主義に飛び移るための」「もっとも完成された形態」とマルクスはみなした。で、結論としては株式会社を協同組合化するのである。株主の多数決支配下にある株式会社を、協同組合のロッチデール原則によって、株主を含む全従業員が一人一票の投票権で議決するようなシステムを導入するのだ。

 しかしこれを実際導入しようとするやいなや、資本の激しい抵抗に遭うのは、火を見るより明らかである。であるから、マルクスは国家権力を握って、一挙にこれを成し遂げようとしたのだ。しかし、そこには国家による協同組合の育成という罠がある。事実、歴史は巨大な株式会社を、「国有化」することによって社会主義としてしまった。国有化は、ただ官僚の力を肥大化させるだけだった。

 

 

 

 

 

柄谷行人『世界史の構造』を読んだ ー(9)

ネーション(国民)

 国家は略取と再分配という交換様式Bに基づき、産業資本は商品交換という交換様式Cに基づいている。近代国家はネーション=ステートと形容されるが、それはネーション(国民)とステート(国家)という異質なものの結合体なのである。国民国家は、絶対王権に先行されなければ成立しない。絶対王権によって、主権という概念が生まれ、それに服従する臣民が誕生する。主権者たる王が市民革命によって倒されれば、今度は市民が主権者となる。これが国民国家である。しかし国民国家において国家=資本の本質的な結びつきは見えにくくなる。何故か?それにはネーションの成り立ちが関係している。

「ネーションとは、社会構成体の中で、資本=国家の支配の下で解体されつつあった共同体あるいは交換様式Aを、想像的に回復するかたちであらわれたものである。」(P312)

 

(ⅰ)国家と資本から見たネーション形成

 

 絶対王権はまず内において中間勢力を圧倒し、王が並ぶ者のない唯一の者となる。王以外の者は、臣下として同一の地位に置かれる。次に外に対しては普遍的な権力を否定するようになる。例えば西ヨーロッパにおいては、ローマ教会や自然法、ラテン語などの権威が否定されて、国教会や世俗法、俗語などが使われるようになる。

 産業資本から見ると、ネーションは中世の徒弟制度とは違った新しい産業社会に適した労働力の育成に伴って作られたものとなる。すなわち、新たな技術に対応し、時間を厳守し、見知らぬ他人と協働する、読み書き、計算能力、労働慣習などが教育制度によって与えられねばならないのだ。更に言えば、与えられたこの共通の言語や文化がナショナリズムの基層となる。つまり、これは『ナショナリズムを育成する事と「労働力商品」を育成することが切り離せないものだということを意味している。』

 

(ⅱ)想像の共同体、ボロメオの環

 

 しかしネーションは、単に資本=国家の受動的な産物ではない、と柄谷は言う。ネーションには、資本=国家への反撥・対抗があるのだと。その反撥は感情にもとづく。もう少し詳しく言えば「連帯の感情」である。それは「家族や部族共同体の中での愛とは別の、むしろそのような関係から離脱した人々の間に生まれる、新たな連帯の感情である。」(P317)

 ベネディクト・アンダーソンはネーションを「想像の共同体」と呼んだ。アンダーソンはネーションを(普遍)宗教の代替物と考えたが、柄谷はそれを共同体の代補と見做している。

 

 ネーションが成立する18世紀に、哲学史において「想像力」の地位が上昇した。カントが感性と悟性を媒介するものとして想像力(構想力ともいう)を、ロマン派の詩人が「空想」と区別された「想像力」を、またスコットランドのハチソンが「道徳感情」について論じ、彼の弟子であるアダムスミスは共感にもとづく倫理学を作り上げた。

 後のドイツ観念論の哲学者たちは、感性と悟性を一元化しようとしたが、カントはその二者の区別にこだわった。カントにとって道徳とは、ハチソンのように感情にもとづくものではなく、あくまで理性的なものであった。感性と悟性は想像力によって綜合されねばならないのだ。柄谷はこれをネーションへと(図式的に!)当てはめる。「ネーションおいて現実の資本主義経済がもたらす格差、自由と平等の欠如が、想像的に補填され解消されている。」「それ(ネーション=ステート)は、資本主義経済(感性)と国家(理性)がネーション(想像力)によって結ばれているということである。これらいわばボロメオの環をなす。」(P330)

 

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 (ボロメオの環とは、そのどれか一つをとると壊れてしまうような環のこと。)

 

(ⅲ)ネーションステート帝国主義

 

 かつての帝国が「帝国の原理」によって他民族の自主性を重んじ寛容に支配したのに対して、国民国家が外へ向かって拡大する場合、同質性を強要する「帝国主義」となってしまう。そしてこの同質性の強要が、征服された人々にナショナリズムを惹起する。「帝国の支配からは部族の反乱が生じただけなのに、帝国主義的支配からは、ナショナリズムが生じる。」(P339)

帝国主義は、意図せず、他の国民国家を創り出してしまうのだ。

また、清帝国オスマン帝国などの元々の帝国(多民族国家)が近代化する際に、民族より階級を優先させるマルクス主義を採用したのは偶然ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

柄谷行人『世界史の構造』を読んだ ー(8)

 交換様式Cが支配的な社会構成体は産業資本主義とともに初めて歴史上に現れた。これは、氏族社会、国家の出現と並んで画期的なことなのである。

 

 産業資本

 

 (ⅰ)産業資本と産業プロレタリア

 

 一般に商人資本は流通から利潤を得(安く仕入れて高く売る)、産業資本は生産過程から利潤を得るものとみなされている。しかしそれだけで商人資本と産業資本を区別することはできない。何故なら、商業資本も単に仲介するだけでなくマニュファクチャーを組織し物作りをするし(実際イタリアの物作りは今も一大ブランドである)、産業資本も安い原材料・労働力を求めて「遠隔地」へ赴く。では産業資本はどこが商人資本と違っているのか? 

 産業資本も流通過程から利潤を得るM--C--M'(M+⊿M)(お金--商品‐‐お金)、それは商人資本と変らない。しかし産業資本は、労働力という商品を発見した。労働力商品はそれを買うことが、すなわち生産過程になるという極めて特殊な商品なのである!

 勿論、賃労働者は昔から存在したが、産業資本が見出したそれは「二重の意味で自由な」労働者なのである。それを柄谷は「産業プロレタリア」と呼んでいる。二重の意味で自由とは①封建的身分拘束から自由であり(奴隷や農奴ではない)、➁労働力以外に売るものもたない(土地を所有していない)、すなわち生産手段からの自由の二点にある。

 柄谷が強調する「産業プロレタリア」とそれ以前の賃労働者との本質的な違いは、前者が自分の作ったものを買うものであるということにある。

『商人資本によるマニュファクチャーの下で生産する賃労働者は、それらの生産物を買うことはない。それは概して、海外ないし富裕層に向けられた奢侈品だからだ。しかるに、産業資本を支えるのは、生産したものを自ら買い戻すような労働者である。また、その生産物は労働者が必要とする日用品が主である。』(P278)

 『産業資本の画期性は、労働力という商品が生産した商品を、さらに労働者が自らの労働力を再生産するために買うという、オートポイエーシス的なシステムを形成した点にある。』(P280)

 

(ⅱ)貨幣の商品化・労働力の商品化

 

 商人資本から産業資本への推移を見てきたが、これとは反対の過程も生じていたのである。商人資本・金貸し資本が逆に、産業資本を包摂するようになったのである。産業資本は物を生産するに不変資本への投資が必要となるが、それは資本にとってリスクにもなりうる。純粋に利潤を追求するならば避ける方がよい。なので、産業資本は可能であれば商業や金融で儲けようとする。実際17世紀のオランダがそうであったように、また現代のマネーゲームがそうであるように。

 産業資本が不変資本への投資リスクを避けるために再登場したのが「株式会社」である。「株式会社、すなわち、資本の商品化」によって資本自体が市場で売買されることになった。これは産業資本が商人資本に転化したともいえる。

 さらにリスクを避けようとすればそれは金融資本に行きつく。金融資本は、産業資本のような自由な価格競争にさらされることなく、市場や資源を独占できるからだ。

 

 産業資本主義は「労働力」という打ち出の小槌的商品を見出したのであるが、それにはしかし致命的な欠陥が存在した。労働力という商品には市場の自己調整システムが機能しないのだ。つまり、需要がないからといって廃棄できないし、不足したからといって急遽増産することもできない。そして『労働力商品に固有なこうした特異性のために、景気循環が不可避になる。』しかし資本主義にとって恐慌は、それを崩壊させるものではなく、むしろ資本蓄積のために不可欠なものとなる。

 

 (ⅲ)産業資本主義の限界

 

 産業資本のオートポイエーシス的システムは、なかなかうまいシステムであるが、労働力という商品の性質にもとづく限界も持っている。

①たえまない技術革新が求められる。

➁たえず安価な労働者=新たな消費者を必要とする。

この2点が解決されないと資本主義は終わってしまう。

①についてはこれまで資本主義は世界商品のシフトによってしのいできた。しかしそれもそろそろ限界に近づいている。

➁について、先進国は後進国の労働力・資源を「等価交換」によって自国に吸い上げる。(一見「不等価交換」に見えるかもしれないが、柄谷は同じ価値体系において安く買って高く売ることは不等価交換であるが、異なる価値体系間では等価交換と見做せると考えている。)先進国の労働者は、後進国の労働者を搾取することによって、一定の生活水準を維持することができる。経済は、一国内で考えられるのではなく、いつも世界=経済として考えねばならないのはこれが理由である。

柄谷行人『世界史の構造』を読んだ ー(7)

近代国家 

 柄谷は近代国家を、国民国家から考えずに、絶対主義王権から考える。国民国家から考えると幾つかの本質的な問題が曖昧にされてしまうからだ。

  

 (ⅰ)絶対主義王権

 東ローマ帝国イスラム帝国の周辺に位置していた西ヨーロッパでは、皇帝のような普遍的勢力が不在で様々な勢力が聖俗両界にわたって併存していたが、やがてその中から絶対主義王権が生まれた。典型的にはイギリスにおいてばら戦争で有力貴族が没落し淘汰され、英国国教会の樹立によってローマ教会からも自由になった権力が生まれた。絶対主義王権は、皇帝とは違う。前者は、他の絶対王権を容認する。つまり帝国であることを放棄するのだ。よって複数の絶対王権国家が並び立つことになるが、しかし後者は決してそれを許さない。

 この絶対王権から「主権」という概念が生まれる。それをなしたのが16世紀の思想家ジャン・ボダンである。主権には、神聖ローマ帝国皇帝やローマ教皇などの普遍的権威に対する自立という対外的な側面と、領域内のすべての人々を、身分、地域、言語、宗教を越えて統合的に支配するという対内的な側面がある。

 また主権は、それに服従する臣民という意味で「国民」という概念を創出する。

柄谷は言う、「つまり、国民という主体は、絶対的な主権者に服従する臣民として形成されるのだ。国民主権は絶対王権から派生したものであり、それと切り離せない。」(P253)

 

 (ⅱ)国民国家

 絶対王権が市民革命を経て、国民が主権者の位置に立つときその国家は「国民国家」になる。主権者が「王」であるか「国民」であるかは大きな違いのように見る。しかしそれは国家を内側からしか見ないからである。内側から見れば国民国家は、個々の国民の社会契約によって作られた「政府」のように見える。そこでは国民の意志と国家の意志は一致している。しかし、外側からみればそれは国民の意志とは全く異なった運動をする「国家」となる。 植民地をもった国民国家は、それ以前の絶対王政に比べて、植民地に対して寛容だったか?国民国家は戦争をしなかったか?答えはいづれもノーである。「国家」や「主権」は対外的に考えるべきものであって、決して内部だけで考えてはならないのである。

 また国民国家は、国家と資本の本質的つながりも隠ぺいしてしまう。それは政治と経済を別のものと考えられるようにし、資本は国家とは切り離されてしまう。

 柄谷は国家と資本の結びつきは、「国債の発行」と「保護主義的政策」、そして何よりも重要なものとして「産業プロレタリアの育成」だと述べている。具体的に言えば、教育制度と軍隊制度である。これによって国民は規律をもった勤勉な賃労働者となる。賃労働者は自らの労働で得た賃金で生産物を買う消費者ともなる。

 絶対王政における官僚は、国家機構として前面にあらわれていたが、国民国家における官僚は「公僕」と見做され、隠れた影のような存在になるが実態はそうではない。

むしろその力は強化されており、立法府である議会すらも超えている。

「いいかえれば、議会は、人々の意見によって国家の政策を決めていく場所ではなく、官吏たちによる判断を人々に知らせ、まるで彼ら自身が決めたことであるかのように思わせる場なのである。」(P257)

 官僚について柄谷は更に「近代においては、官僚制が国家機構だけでなく、私企業においても存在するということである。近代官僚制はむしろ資本主義的な経営状態(分業と協業)にもとづいて形成されたのである。」(P267)と書いている。

ゆえに、ネオリベラリスト(リバタリアン)のように、民営化によって官僚制を解消できると言うのは欺瞞だ、私企業そのものが官僚制的なのだから、と批判している。

 

小さい宇宙。 さよなら、吉良知彦・・・

zabadakの吉良さんが亡くなった。

56歳だったそうだ。

若すぎる。

今年ザバダックはちょうど30周年迎えたところだったのに。

ツイッターには亡くなったという7月3日付のツイートが残ってる。

最後のツイートは、ダッカのテロに関するものだった。

亡くなる直前まで、世界と音楽について思いを巡らせていたんだなぁ…

 

 

ザバダックを知ったのは何時だったか?

改めて思い返してみる。

はっきりと憶えてるわけではないが、

高校生の頃読んでいた『player』という音楽雑誌(現在も発行されている)に、

ミュージシャン自身が音楽について講義したり日記やらを連載するページがあって(他にはホッピー神山さんとか人間椅子の和嶋さんとかが書いてたな)、

その連載の一人が上野洋子さんだった。

内容は今で言うDTM入門みたいなことを書いていた。

当時、上野さんはザバダックのメンバーで、当然ザバダックの活動のことも書かれていた。そこでザバダックの名を初めて知ったのだと思う。

 

youtu.be

 初めて買ったCDは『桜』(↑この曲が入っている)。

アルバム『桜』は、吉良+上野二人体制のザバダック最後のオリジナルアルバム。

二人の集大成的な作品で、二つの強い個性が高度なレベルで融合した傑作だと思います。当時、流行していた邦楽(CMとのタイアップ曲が多かった)とは全く違ってます。

ケルト音楽っぽいのやら、日本の民謡「椎葉の春節」のザバダックバージョンが収録されてたりします。すっかりやられてしまった私は、過去に遡るかたちで彼らの旧譜を聴くようになります。

 

 一番聴いたのがアルバム『遠い音楽』

これはザバダックの最高傑作ではないかと個人的には思っています。

タイトル曲で、彼らの代名詞にもなってる「遠い音楽」。

youtu.be

他にも「愛は静かな場所へ降りてくる」や「Harvest rain(豊穣の雨)」などの素晴らしい曲が満載です。

でも、私が最も好きなのは「sarah」。透明感があって、儚く浮遊的で、聴いてるだけで意識が飛びそうになります。

youtu.be 

それから『飛空夢』の「GOOD BYE EARTH」

youtu.be

この曲は歌詞にインパクトあります。日本語で歌うと胡散臭く感じられるであろう内容を英語でサラッと歌っているのがニクイです。

ちなみに歌詞は、

Still I do remember
How many trees they've cutting down
Surely I am aware of now
How many speies rooted out

 

Development...cultivation...improvement
We believe it
Irrigation and dredging...reclamation
We believe it

It seems like an achievement

It's nothing but defilement

for mother earth

 

Seals had been liveing in northern sea
Thrown on the shores with muddy oil

Whale rounding in the ocean
Stored up many poisons in the their fresh

Mathematics and physics....chemistry
We believe it

Architecture...engineering...agriculture
We believe it

It seems like an achievement
It's nothing but defilement...

 

Well I have one question for you
Why do they think they're so clever
Turely it is so strange to me
WHY is MAN the lord of creation

 

Streams...and reivers...the ocean

We destroyed it

Many woods....and forest....the jungle
We destroyed it


If we can't stop it
Maybe we must say good-bye to mother earth

 

irrigation(灌漑)とか、dredging(浚渫)、reclamation(干拓)などの単語はこの曲で憶えました。

 

〈のれん分け〉後、吉良さんワンマンのザバダック時代になります。

同時にレコード会社もメジャーからインディーズに移籍します。

以降のザバダックはメジャー所属とインディーズを行ったり来てりしますが、個人的には、自分の好きなことができるインディーズ時の作品の方が優れていると感じます(恐らく皆さんそうではないでしょうか?)。

 solo一発目の『音』から、

youtu.be

 

『colours』から「僕のビー玉」

youtu.be

あと吉良知彦の個人名義でリリースされた、『賢治の幻燈』

youtu.be

この曲は宮沢賢治の詩に吉良が曲を付けて、奥さんの小峰公子さんが歌ってます。

 

22枚目のアルバム『平行世界』くらいまでは聴いてましたが、ここ最近は正直聴いてなかったです、だから30年の歴史の3分の2くらいはリアルタイムで聴いていたことになるでしょうか。

 

私にとって「ザバダック」は、やはり上野洋子とのコンビのものという感じが強いです。吉良さん、上野さん単独でその後も活躍されていますが、その個性がぶつかり、プログレッシブロックと民俗音楽的要素が融合して生み出された音楽には、他の時期とは違う緊張感があると思います。

 

バブル時代、聴きたい邦楽がほとんど無かったあの時代。

ザバダックがいてくれて本当によかった。

人は死んでも、音楽は残る。

その残された音楽を、これからも聴いていくでしょう。 

さよなら吉良知彦

私の小さい宇宙。

 

                 ー〈合掌〉ー

 

 

 

主な国の下院構成及び極右政党

イギリス 庶民院

   保守党 330/650

   労働党 232/650

   スコットランド国民党 56/650

                イギリス独立党 1/650  (ファラージ)反EU

   イギリス国民党 0/650    (極右)

           ブリテン・ファースト 0/650  (極右)  

 

フランス 国民議会

   社会党  280/577  (カルバデリス)

   国民運動連合 194/577 (サルコジ

   国民戦線  2/577    (マリーヌ・ルペン (極右)
 
ドイツ 連邦議会
   キリスト教民主同盟CDU   225/630
   社会民主党SPD  192/630
   左翼党Linke 64/630
   同盟90/緑の党    63/630
   国家民主党NPD   0/630     (極右)
    ドイツのための選択肢AfD   0/630  
 
イタリア 代議院
   民主党  297/630
   五つ星運動 91/630   反EU
          北部同盟 12/630   反EU
 
ロシア 国家院
   統一ロシア  238/450  (メドベージェフ)

   ロシア連邦共産党 92/450

   公正ロシア 64/450

   ロシア自由民主党 56/450 (ジリノフスキー極右

 

オランダ 第二院

   自由民主党 41/150

   労働党  36/150

   社会党  15/150

   キリスト教民主アピール  13/150

   自由党  12/150 (ウィルダース極右

 

ベルギー 代議院

          新フラームス同盟  33/150

          キリスト教民主フラームス   18/150

          社会党・別     13/150

          フラーム自由民主    14/150

           フルン!    6/150

           フラームス・ベランフ    3/150  極右

           社会党     23/150

           改革運動    20/150

 

デンマーク  国民議会

         ヴェンスタ  34/179

         デンマーク国民党    37/179   極右

         自由同盟    13/179

         保守党   6/179

        社会民主党   47/179

        赤緑連合   14/179

 

ギリシャ 議会

  急進左派連合 145/300

  新民主主義党    75/300

  黄金の夜明け     18/300    極右 

  民主連合        17/300

  ギリシャ共産党   15/300  (ミハロリアコス)

  ポタミ (河という意味)    11/300

  独立ギリシャ人   10/300

 

大韓民国 国会

   セヌリ党 122/300 (金武星)

   共に民主党 123/300(金鐘仁)

   国民の党 34/300   (安哲秀)

 

中華民国 立法院

   民主進歩党 68/113  (蔡英文

   中国国民党 35/113(洪秀柱) 

 

日本 衆議院

         自由民主党 291/475  (安倍晋三

        公明党 35/475 (山口那津男

        民進党・無所属クラブ 96/475(岡田克也

        日本共産党 21/475 (志位和夫

        おおさか維新の会 14/475(松井一郎

        社会民主党・市民連合 2/475(吉田忠智

        生活の党と山本太郎となかまたち 2/475(小沢一郎

 

         注:人名は代表者

           数字は(獲得議席数/総議席数)を表している。

 

 

 こうやって見ていると、社民勢力が世界ではまあまあ頑張っていることが分かる。

だいたい2大政党の一角を占めている。なのに、日本の社民勢力は極端に弱い。日本の社民党は消滅の危機に直面している。あと、衆議院議員の数もヨーロッパ諸国に比べてそんなに多すぎない。イギリス650人、フランス577人、ドイツ630人、イタリアでも630人いる。ファラージと安哲秀は辞意を表明している(7月時点)。

 

 

柄谷行人『世界史の構造』を読んだ ー(6)

 ミニ世界システムで交換様式A(互酬)を、国家で交換様式B(略取と再分配)を、世界貨幣では交換様式C(商品交換)を見てきた。ここでは普遍宗教(交換様式D)について書く。交換様式Dは現在まで支配的になったことは無いが、その理念は現実社会に影響を与え続けてきた。

  

 (ⅰ)宗教と交換 

 

 ニーチェウェーバーは、道徳や宗教が交換にもとづいていることを見抜いていた。例えばニーチェは、負い目という道徳感覚が「負債という極めて物質的な概念」に由来してると考えた。又、ウェーバーは呪術や祈りには人間の贈与と神からの返礼(「与えられんがために,われ与う」)という交換関係が成り立つと考えていた。

 しかし、ニーチェウェーバーもナイーブすぎると柄谷は批判する。ニーチェは商品交換における債務と、互酬における債務を混同している、後者からは負い目という債務感情が生まれるが、前者には実際的に法律上の「債務」が生じるため、逆に債務感情が生まれなくなる。人間関係は極めてビジネスライクなものとなるからだ。

 ウェーバーも呪術と救済宗教における「祈り」の違いに注意を払っていないと批判する。この違いが理解できないと氏族共同体から国家への転化のプロセスが追えなくなるのだ。宗教には人間を内面から支配するという大事な役割がある。

 呪術は互酬にもとづいている。それは社会に強力な平等への誘引力をもたらす。一方、「祈り」は自分とは明らかに違いのあるもの(超越者)に対してなされる。祈りには「平等主義」的な要素は無いのである。

 都市国家・共同体から広域国家・帝国へと成長していくプロセスは、宗教の面から見れば共同体のローカルな神々が淘汰されて、帝国の超越的な神(世界神ともいう)へと成りあがっていくプロセスでもある。都市間戦争によって敗者の神は捨てられるか、勝者の神の下位の神にランク付けされて生き続けるかのどちらかである。端的に「世界帝国への進行は、つねにまた世界神への進行である。」ニーチェ

 

 帝国の領域内では、国家の保護・監督の下、商業が活発になる。それは同時に貨幣の流通を拡大させる。貨幣経済の浸透は、旧来の平等主義的だった共同体を解体する。又、貨幣の力は、呪術師の呪力や国家の武力に代わって、賃金による自発的「契約」で人を動員することを可能ならしめる。人々は共同体の桎梏から解き放たれ、以前より自由な「個人」となる。しかし、いいことばかりではない。貨幣は人々の間に貧富の差という問題をひきおこすようになる。共同体を支配していた互酬原理はもはや、昔日の力を持ってはいない。

 ここに普遍宗教が始まる一つの要因がある。互酬が機能せず、国家による再分配が追いつけなくなった貨幣の力に対して、普遍宗教が機能しだすのだ。すなわち、商品交換が支配的な社会において、互酬を回復させようとする働きがおこる。それは共同体を前提とはせず、バラバラの個人になった人々のあいだに新たな関係を築こうとすることなのだ。

 

 (ⅱ)預言者とユダヤ教 

 

 前段で国家の盛衰は、神々の盛衰と歩を同じくすると書いたが、しかしある時、「国家の栄華には何の関心を持たない神」という画期的な神の観念が生まれた。それは、イスラエル人の国家がソロモン王の死後、南北に分裂し、南のユダ王国が新バビロニアによって滅亡させられ、王国の支配者層・知識階層がバビロニアの都市へ連行されていった「バビロン捕囚」の後の時代のことである。

 カナンの地に残された人々が旧来の神を捨ててしまったのに対して、捕囚された人々の一部には「モーセの神」という、国家の滅亡にもかかわらず廃棄されない神観念が生まれたという。彼らは、国家の敗北を神の敗北ではなく、人々が神を捨てたことへの神の懲罰として解釈した。この時、宗教は脱呪術化されたと柄谷は言う。

 ソロモンの死後、預言者が出現した。ここでいう預言者は倫理的預言者のことである。預言者は当時のエリートかつ支配者階層である祭司たちへの批判者として現れた。預言者はエリートに属さない人々だが、個人的カリスマ性を備えていた。

 祭司たちは帝国の神(世界神)に祈りを捧げるのわけだが、預言者たちはそのような神を信仰しない。彼らが信じたのは国家とは関係のない神だった。そしてそれは普遍宗教と呼ばれる(国家を超えているため)。

 ユダヤ人はそもそも国家を喪失していたので、国を守る神は意味をなさない。彼らは世界のどこにいても、どの国に属していても信仰できる神を創出した。それがユダヤ教である。ユダヤ教はユダヤ民族が選んだ宗教ではなく、逆に、ユダヤ教がユダヤ民族を創り出したのである。』(P214)

 

 (ⅲ)キリスト教と異端

 

 パウロユダヤ教から律法や割礼などのユダヤ的なものを取り除いて、キリスト教を作り上げた。その努力によってキリスト教は、パレスチナの地を遥かに越えてローマ帝国内へと拡がっていった。しかしこの時、そもそも普遍宗教として生まれたはずのキリスト教が、ローマという国家によって絡み取られてしまい、帝国の宗教(世界神)へと逆戻りさせられてしまった。教団もまた、教会というハイアラーキーな組織を作り、この地上に建設されるはずだった「神の国」も天上化されてしまう。

 同様のことがイスラム教でも起こったと柄谷は言う。ムハンマドがめざした互酬性の回復は、国家によって横取りされ、カリフ制が生まれた、と。

 普遍宗教が活力を取り戻すのは、貨幣経済と都市が発達した一二世紀のころだと柄谷は主張する。それは「異端」と呼ばれた一派、ワルド派やカタリ派などの運動によって知られるが、それらの異端宗派はいづれも国家や教会によって、弾圧・殲滅されてしまった。

『普遍宗教によって開示された交換様式Dは、しばしば異端的な宗派の運動というかたちをとって、現実の社会運動として現れる。』(P225)

 交換様式Dは、現在までどの社会構成体においても決して支配的でなかったが、その理念を通じて現実の世俗法に影響を与えてきたので、無視することはできないのである。

 

                             次回につづく