~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』読んだ。

この本では、弥生時代古墳時代律令国家という推移を追いながら、どの段階で初期国家が成立したのかを見定めようとしている。

 

弥生時代

この時代は、かつて私の学生時代の教科書に書かれていた内容よりも更に500年ほど遡ってBC1000年から弥生時代が始まったという説を採用している。またその弥生時代は次の5つの段階に分けられる。弥生時代は戦国時代と並ぶ戦乱の時代だったことが分かっている。各段階における戦争の性格も記しておく。

早期 BC1000年~BC800年 地理的に近い小さなまとまりのできる過程で起こる戦↓

・前期 BC800年~BC400年 ↑闘・水や土地の分配をめぐる戦い

・中期 BC400年~BC50年 漢書のいう「国」が形成される過程、その国が大きなブロックに統合される過程

・後期 BC50年~AD180年 西日本全体を含む戦闘⇒卑弥呼の共立

・終末期 AD180年~AD240年 壱与の時代、東日本にまで戦闘が波及

 

このような戦闘に備えて弥生前期に「環濠集落」が作られるようになる。弥生中期になると唐古・鍵や吉野ケ里遺跡のような巨大な環濠集落が出現するが、これらは周辺の小さな環濠集落のセンター的機能を持つ集落と考えられ「国邑」と言えるものである。

弥生終末期から古墳時代初期には首長の居館が環濠集落から独立して築かれるようになり、また墓も共同墓地から独立するようになる。また生口などの隷属的な人々もあらわれ集落内の身分分化がかなり進む。

 

弥生時代中期の戦闘はブロック内での闘いであった。その事実は各々の地域で使用される武器や祭器が決まっており、決して混じって出土しないことからも明らかである。また埋葬の仕方もブロックごとに違っている。

北部九州・・・(武器)石の短剣・石鏃・青銅短剣・鉄戈 (祭器)鉄鏃銅矛・銅戈(埋葬法)方形の低い墳丘墓・甕棺

瀬戸内海・・・(祭器)平形銅剣

畿内/東海・・・(祭器)銅鐸 (埋葬法)方形の低い墳丘墓・木棺や直葬

出雲・・・(祭器)中細形銅剣

関東・・・(祭器)有角石器

 

しかし2世紀末になると、畿内の埋葬法が北九州でも見られるようになる。すなわち「ヤマト政権」が「ツクシ政権」を制圧し影響下に置いたと推察される。それは大陸における勢力分布と関係していると著者はいう、後漢の支配力の低下が楽浪郡から鉄の供給を受けていたツクシに替わって鉄の供給ルートを手に入れたヤマトが勢力を拡大させたと。

 

前方後円墳体制

前方後円墳の誕生

弥生時代前期にはどの地域もリーダーも一般民も共同墓に埋葬されていたが、中期末になると多くの地域でリーダーの墓が独立するようになる。その際葬られる墓の形が地域によって違っている。北部九州では低い方丘墓。畿内でも方丘墓だが弥生終末期になると円丘墓も出てくる。日本海沿岸では四隅突出墓というユニークな形の墓に埋葬されている。瀬戸内海沿岸では円丘墓が発達し、円丘に突起部を持つものが現れる。この突起部では死者を祀る祭壇として使われた。円丘+突起部でかなり前方後円墳に近いものとなるが、突起部は方丘墓でも作られこちらは前方後方墳のルーツとなる。ここで重要なのは、同じ形の墓を作る者は同じ祖先をもつということであり、連帯のシンボルとなるということである。

 

卑弥呼の墓に比定される箸墓古墳弥生時代の原前方後円墳の百倍の体積を持つ巨大な墳墓である。この地に前方後円墳を作るグループがいて強固な政権を作っていた様子が推察される。この時期前方後方墳を作るグループも存在したがその古墳の規格が前方後円墳のものが流用されており、後円墳グループが後方墳グループを支配下に置いていたこと、それにもかかわらず前者が後方墳を作ることを許していたことが分かる。この事実は、中央の邪馬台国が地方の首長と連合して統治をしていたことを示唆している。著者はこの統治体制を前方後円墳体制》と名付けている。

 

古墳時代

著者は3世紀後半から6世紀の前半までを古墳時代とする。この時期、古墳の作られ方に大きな変動が3回発生しているという。

第一の変動は4世紀末から5世紀前半で、巨大古墳が大和盆地から河内平野に移っていく時期である。これには倭国の東アジアとの関係が影響している。第二の変動は5世紀後半にみられ、それは雄略天皇の中央集権化と関係がある。第三の変動は6世紀前半で、前の変化で無くなった系統の古墳が復活するという反動が起こる。これは継体天皇の即位と関係している。

 

律令国家の時代

律令国家を完成させる途中で仏教などの渡来によって、前方後円墳は築かれなくなる。中国の北魏に倣って方墳に寺がセットになって作られるようになる。

 

・いつ古代国家が成立したか?

8世紀冒頭に律令国家が成立するが、そのような国家は勿論、一夜のうちにできあがるものではなく弥生・古墳時代を経て徐々に完成されてきたとみるべきで、その過程に著者がいう「初期国家」段階が存在する。「初期国家」がいつ成立するかは専門家の間でも諸説あり、主に3世紀・5世紀・7世紀という説があるそうで「七五三論争」と言われているのだとか。著者はその中でも3世紀説を採っている。つまり邪馬台国は初期国家だという事である。その理由は、身分制がある・法が存在する・租税がある・地方官もいる・魏に使者を送っている(外交)これらの点で既に初期国家の条件を満たしていると見做している。

 

・最後に感想など

2世紀末のツクシ政権からヤマト政権への権力の移行、4世紀末から5世紀初めの大和盆地から河内平野への古墳の移動これには東アジアの勢力分布が関係しているらしいのでここらへんをもっと詳しく知りたいと思った。

 

弥生時代中期にはリーダーの墓が共同墓地から独立し、弥生時代終末期から古墳時代の初期には首長の住まいが環濠集落から離れて別なところに居館が営まれるようになったという話だが、現在の金持ちが高級住宅地や都心のタワーマンションに住む原型がこの時代まで遡れるんだと、二千年の時間の長さに一種感慨を覚えた。

また弥生時代の一般人の共同墓への葬られ方だが、掘られた穴へ棺には入れられず直葬されたそうだが、その際、底の面は平らにされており、又ささやかながら土器が副葬されていたらしい。しかし古墳時代になると、底の面はでこぼこのままで副葬品も全く無いのだそうだ。こういう事実を耳にすると、やはり文明は人間から何か大切なものを失わせてしまうのだなぁと思ってしまわざるをえない。