~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

若林幹夫『都市への/からの視線』読んだ。

 

プレモダンからモダンへ 

 

《近代化》と《都市化》は別の概念であるが、都市という場所は近代化を考えるのに最上の舞台を提供してくれる。もちろん、都市は近代だけのものではない。古代にも中世にも都市は存在した。しかしそれら近代以前の都市と、近代以降の都市では違いがある。テンニースがゲマインシャフトゲゼルシャフトという概念で区別したように、近代以前の都市が、「商業」「ギルド」「宗教」等、何らかの共通性を持って都市を形成していたのに対して、近代の都市はそのような共通性が解体されたところに現れてくる。近代都市は、伝統的な関係性の替わりに、技術や制度によって人々を関係づける。

 

合理性・技術によって設計され建設された都市。それを建築家・原広司は「均質空間」と呼ぶ。その典型は、ガラスのカーテンウォールに囲われた直方体のビルである。ミース・ファン・デル・ローエル・コルビュジェの設計した建築物に体現された思想「ユニバーサル・スペース(普遍空間)」。いったい何が、普遍なのか?その建物の内部では何処にいてもほとんど同一の環境条件が保たれている。また、内部に固定された壁を持たないので、室内を適当に区切ることによって自由に編成できる。つまり特定の用途に縛られずどのようにも使用できる。それにこれらの建物は寸法が規格化されていて、同一様式の建物が世界中どこでも大量生産可能である。このような特性は、ゴシックやバロック様式などの建築物のように、固有な場所性や方向性を持たない。風土や文化からは解き放たれて自由である。近代以前の都市が持っていた中心ー周縁というような空間概念は成立しない。これは、空間がもはや社会関係の準拠枠にならないという事を意味しているのである。それを別の言い方で表現するならば超越的な意味の剥奪ということで「世俗化(Säkularisierung)」とも言える。

 

モダンからポストモダン

 

では、モダン都市からポストモダン都市への推移はどのようにして起こったのか?著者は「見えない都市」(磯崎新)と「ヴァナキュラー建築」を挙げて説明する。パリやニューヨークなどの都市は、グリッド状や放射状の幾何学的な街並みを持っており、そこを移動する人々にとって、自分の居場所があたかも鳥瞰しているように見通せ、確認できる。そのような都市を「見える都市」という。逆に、東京やロスアンゼルスのような不定形に巨大化した都市は、そのような視点を持つことができない。ゆえに「見えない都市と」呼ばれる。「見える都市」は合理的に設計された均質空間をめざして作られたことはすぐわかる。一方「見えない都市」が均質空間でないというわけではない。その見えなさは、むしろ近代が含んでいる多様性・過剰性に由来し、多様性を可能にしたのが「地」としての均質空間であったという。場所的な特異性がないからこそ、いろいろなものが共存できるのだ。(ちなみに著者は近代以前の都市がもっていた紐帯としての「共同性」に替わるものとして、紐帯が解けてしまった近代都市がもつその代補概念を「共異体=共移体」と呼んでいる。)

一方「ヴァナキュラー建築」とは、元の意味は土着的な住まいという意味なのだがここでいうそれは、ラスベガスの大通りに見られるような「建築の形態を商業的な目的のためのコミュニケーションである広告に従属させ、機能とも構造とも関係のない装飾的な意匠でその表層を覆いつくした」建築の事を指している。簡単に言えば、俗臭芬々たる悪趣味・キッチュな建築とでも言えようか。それらの建築は、モダン建築が備えている構造や機能より過剰な部分を持っている。それこそ、ポストモダン 的な要素である、記号的・イメージ的な表層なのだ。

 

著者は、ポストモダン都市を2つの層が重なったものと見ている。一つ目は、モダン都市を形作った合理的な構造・及び物質的な層である。その下部構造の上に上部構造である記号論的・イメージ的な層が重なっていると。別な言い方をすれば、都市をテキストとして読むということ、都市の見えなさではなく、都市の見え方に注目することである。

記号論的な都市のあらわれは、例えば東京における1980年代のおしゃれなまち「渋谷=パルコ」や、最近の「ふるさと創生」「まちおこし」的文脈に顕著にみられる。そこでは地方の町がさまざまな物語的意匠で塗りたくられ(ゆるキャラもその意匠のひとつ)過剰な表層を掲げさせられてしまっている。

このような地方の町おこし的な少々滑稽な感のする例だけではない。近代以降先進国で進行した「郊外化」もその例の一つなのである。すなわち、「郊外化」とは交通手段の発達による通勤範囲の拡大という物理的・物質的な「近郊化」とは異なり、記号論的・イメージ的な価値が必ず付与されている。「裕福さ」や「幸福な家族」といった物語がそこには織り込まれているのだ。

 

ーと、ここまで来て何か気づくだろうか。そうモダン都市/建築を支配していたあの合理主義・物質主義も、じつは、ある種の記号論的・イメージ的な上部構造だったのではないかと。「合理性」という物語が、流通していただけではないかと。 

 

この本の第8章は「住居」なのだが、これについては「箱男」と関連付けて考えたいのでまた後日書きたいと思う。

 

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