~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

《箱男》のいるところ。 ~箱男を救済せよ!~

箱男は学生時代から何回も読んできた。

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安部公房の小説の中では、『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』と並ぶ傑作だろう(『終りし道の標べに』『けものたちは故郷をめざす』などの実存シリーズを除けば。)

 

箱男にはいろいろ書きたいことがあるが、ここではやや斜め目線で、

小説の舞台の中で箱男がどこに現れるのか》に注目したい。

 

箱男』の主な登場人物は、

ぼく(元カメラマン)、「A」、若い看護婦(戸山葉子)、贋医者(贋箱男)、元軍医殿、「少年D」。ただし少年Dは挿入話として登場。

 

箱男」の構成がややこしいのは、登場人物が本物と贋物に分かれていることと、加えてその真贋各々の箱男が書いた「日記」が、間に挿入されていることである。《ぼく》は、果たして本物の箱男なのか?それとも贋箱男なのか?さらに「日記」の筆者は贋箱男か?本物なのか・・・? 日記とは本来、過去に起こったことを現在地点で振り返って遡行的に書くものであるが、「箱男」のそれは、未来のことを既に起こったことのように書くという時間軸上のからくりも潜ませてあるのでより厄介だ。  

まあ、これは今回脇に置いておこうと思う。今の私にはもっと重要なことがあるのだ!

 

《Aの場合》

「たとえば、君にしたところで、まだ箱男の噂を耳にしたことはないはずだ。べつにぼくのうわさである必要はない。箱男はぼく一人というわけではないからだ。統計があるわけではないが、全国各地にはかなりの数の箱男が身をひそめているらしい痕跡がある。そのくせどこかで箱男が話題にされたという話は、まだ聞いたこともない。どうやら世間は、箱男について、固く口をつぐんだままにしておくつもりらしいのだ。…」

 

箱男が目立ちにくいのは、たしかである。歩道橋の下だとか、公衆便所とガードレールの間などに押し込まれて、ゴミとそっくりだ。だが目立たないのと、見えないのとは違う。とくに珍しい存在というわけではないのだから、目にする機会はいくらでもあったはずなのだ。…」

 

「ある日、Aのアパートの窓のすぐ下に、一人の箱男が住みついた。…」

 

「-Aは箱をかぶったまま、そっと通りにしのび出た。そしてそのまま、戻ってこなかった。」

 

《ぼくの場合》

「ちょうどいま、運河をまたぐ県道三号線の橋の下で、雨宿りしながらこのノートを書きすすめているところだ。…」

 

箱男にはやはり駅の周辺だとか、混み入った商店街なんかの方が向いている。たかだか三、四本しかない道を、迷路のように見せかけている風景の正直さも好きだし、それに第一居心地がいい。この調子だから地方の町は苦手なのだ。…」

 

「東京の盛り場ならいざ知らず、このT市の繁華街では、とても二人の箱男を受入れる余地はない。」

 

「いまここは湾をへだててT港と向かい合った市営の海水浴場。ヤドカリが音を立てて這いまわっている、無人の砂浜。」

 

公衆便所と、何かの板塀(露店駐車場かもしれない)のあいだの狭い隙間に、つぶれかかったダンボールの空箱がひとつ乱暴に押し込まれているのを見掛けたことがある。住人がいなくなった箱は廃屋と同じで、老朽化も早いらしく、しなびた葡萄色に風化してしまっていた。」

 

《贋箱男の場合》

坂の上の病院、医者の書斎、兼居間。

「話しかけられているのは、箱男だった。ぼくとそっくりな箱をかぶって、ベッドの端に掛けていた。」

 

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《Aの場合》と《ぼくの場合》で分かるように、箱男の生息場所は浮浪者のそれと酷似している。というか区別できない。場所が区別されないばかりでなく、箱男と浮浪者は同じ類の存在者と見做されがちだ。しかし、安部公房は両者を峻別する。『箱男は浮浪者とは違う」とでも書くつもりだったのだろう。もっとも世間の方では、箱男が思っているほど、はっきり区別をつけてくれてはいないようだ。たしかに共通点も少なくはない。たとえば身分証明書を持たないこと、職業に就かないこと、一定の住居を持たず、名前や年齢を明示せず、食事や睡眠のための決まった時間や場所を持たないこと。それから・・・そう、散髪に行かず、歯をみがかず、めったに風呂に入らず、生活のためにほとんど現金を必要としないこと、等々・・・』ここまでは共通点。これ以後が相違点。

 『しかし乞食や浮浪者の側では、けっこう違いを意識しているらしいのだ。何度も嫌な思いをさせられた。・・・とくに「ワッペン乞食」には目の敵にされたものである。連中の縄張りに入ったとたん、黙殺どころか、過敏すぎるくらいの反応をあびせられるのだ。登録された番地に住み、ちゃんと現金払いで暮らしている連中から受ける以上の、露骨な敵意とさげすみの色を突きつけられる。そう言えば、乞食から箱男になったという話はまだ聞いたことがないようだ。こっちだって、乞食の仲間入りしたつもりは無いのだから、まあお互いさまだろう。だからと言って、彼等を見下したりするつもりはない。あんがい乞食までは、まだ市民に属する周辺の一部で、箱男になるともう乞食以下なのかもしれないのである。

乞食は市民であるが、箱男は市民でない。そのように理解できる最後の文章は重要である。しかし近代民主主義国家における市民・個人とは何なのか?それは安部公房自身が述べているように「デモクラシー原理というのは、ある市民の匿名性という事で成り立っている。つまり無名の完全に価値が等しい等価の人間、身分とか財産とかうんぬんで区別されないところの各個というものが平等に、投票の権利、政治的な発言権を持つ。それは誰でもない、と同時に誰ででもありうるありうるということで主体性を取り戻す。極限のデモクラシーの原理というものは、人間が誰でもないのと同時に、誰ででもありうる。要するに、箱男のありのままの姿というものは、それを直視すれば、ある意味で人間が民主主義の原理として憧れているというか、どこか心の中で夢として、絶対不可能だけれど夢として抱いているものである。・・・」(「小説を生む発想」)というものならば、箱男こそはデモクラシーの規範的モデルではないだろうか?分かりやすく言えば、近代民主主義国家では、投票に行くとき、誰でも箱男(箱女!)と同じ状態になっているのである。(見かけ上、選挙人名簿に登録されているという非箱男的部分が存在するが、原理的・理想的にはそうなのである。)

youtu.be

 

小説『箱男』が面白くなくなるのは、箱男箱男的な属性を放棄し、箱が持つあらゆる可能性を単なる金銭に交換してしまう瞬間からだ。作中の箱男は、たった5万円で箱を譲渡してしまう。もちろんそれは、5万円という金額ではなく、話を持ち掛けた若い看護婦の魅力に負けた側面が強いが…。(ユーチューブ動画では緒川たまきが看護婦を演じていて、彼女だったらしょうがないかと思う自分がいる(笑)。)箱の譲渡、および箱を媒介とした見る主体・見られる客体の相克という近代認識論のウロボロス的無限ループに足を突っ込んだ時に、箱男というモチーフは一挙に陳腐化してしまう。もっと、箱男を生かすべき方法があるはずだ、その可能性を私はこれから探し求めてみたいと思う。

わずか5万で、箱男が売られるなんて、

安すぎはしないか?

 

この動画は原作に割と忠実に作られてる。youtu.be