~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

『戦争の日本古代史』読んだ。ーヘイトの淵源ー㊦

3.〈任那を巡る攻防〉

 6世紀に入ると、これまで高句麗に従属していた新羅が独立して半島の覇権を奪取しようとしだす。新羅百済と同盟を結んで伽耶任那)に侵攻した。こまった伽耶諸国は倭に援けを求めた。倭は対新羅軍を派遣しようとしたが、新羅と通じていた九州の豪族・筑紫磐井がそれを妨害してしまった。磐井を退け半島に渡った倭軍であるが、新羅の軍勢の前に後退を余儀なくされた。そしてとうとう伽耶の心臓部だった金官国新羅によって滅ぼされてしまう。しかしこの時、新羅は降伏してきた金官国の王族を破格の待遇で受け入れた。後に新羅朝鮮半島を初めて統一するが、その時の将軍・金庾信は降伏した金官国王の曾孫なのである。532年の金官伽耶滅亡、そして562年残りの伽耶諸国も新羅によって滅ぼされてしまう。倭は〈任那復興〉を計画するがうまくいかない。すると新羅が自国の「調(みつき)」と任那の「調」を合わせて送って来た。倭から見れば、新羅朝貢してきたようにとれる、実際倭国はそう理解した。新羅から見ればその贈り物は、任那と倭とのかつての関係をこれからは新羅が継承するという意味で自国と任那の調を贈ってきたのだった。しかしこれもまた単なる贈り物をするという外交儀礼にとどまらない影響を二国間にもたらしてしまう。新羅にしてみれば、緊迫する国際情勢を有利に持っていくために、倭国に多少の物品を送ってもかまわないとでも思っていたのであろうが、倭国側から見れば、それは旧伽耶諸国が倭国に貢納品を納めるという「伝統」と認識したことであろう。そして、百済のみならず、新羅からも「調」が貢納されるという誤った国際感覚を醸成させてしまったのである。その終着点として作られたのが、神功皇后の「三韓征伐」説話となる。・・・」(P85)

 

4.〈百済滅亡と白村江の戦〉

  6世紀の終わり頃、589年に東アジアに大事件が起こる。隋による中国統一である。じつに後漢以来400年ぶりに中国が分裂時代に終止符を打ったのである。この出来事は東アジアの周辺諸国に甚大な影響を及ぼす。隋は国内統一に投入されていて、その後使いみちの無くなった軍隊を高句麗に進める。また高句麗百済から攻撃されていた新羅が隋から冊封を受ける。このような国際関係の変化にあって倭は、長らく中止していた中国との外交を再開し、一世紀ぶりに遣隋使を派遣することになった。しかし遣隋使はかつて倭の五王が受けていた冊封は求めなかった(もし求めていると百済新羅より下の官職を与えられるおそれがあったため)。倭国の支配者層は、冊封体制から独立した君主を戴くことを隋から認められることによって、すでに冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を主張し、「東夷の小帝国」にもつながる中華思想の構築をめざしたのである。この姿勢は、つぎの遣唐使以降にも受け継がれることになる。」(P97)

 そして7世紀がやって来る。百済義慈王は忠臣を遠ざけ佞臣を身近に置く典型的な暗君であり、高句麗の宝蔵王は臣下の淵蓋蘇文が立てた傀儡王にすぎなかった。まともな王は新羅の武烈王(金春秋)くらいだった。日本では、中央集権国家をめざす中大兄皇子中臣鎌足高句麗型の傀儡王を操る権臣による独裁政治をもくろむ蘇我氏を一掃して、大化の改新を遂行中であった。国際関係としては、高句麗百済(麗済同盟)+倭国 VS 唐&新羅 という図式が出来上がった。

 660年、唐は高句麗ではなく百済を、新羅との共同作戦によって挟撃しこれを滅ぼした。百済義慈王は捕らえられ、唐の都長安に送られる。第4次遣唐使として長安にいた日本人一行がこの光景を目撃している。

 百済滅亡の知らせが日本にも届く。しかしその後すぐ、百済の遺臣が国家復興のために挙兵しているという知らせも届いた。当時日本には義慈王の弟・豊璋が人質としていた。その帰還を日本に求めてきたのだ。斉明天皇は豊璋に護衛の軍をつけて百済へと送った。これが後に白村江での戦い、そして敗戦へと至る直接の第一歩であった。

 著者はこの派兵、および白村江の戦いにつながる一連の日本の動きについて、従来言われてきたように無謀な計画だったとは批判しない。むしろ勝算は、不確実な情報に基づいているが、ある程度あったと思って派兵したのだろうと擁護している。さらに穿って、この戦いに負けてもかまわない、いや負けた方が良いとさえ鋭敏な中大兄皇子は考えていたのではないかと推察している(中央集権化を進めるにあたって外敵の脅威を宣伝することが有用だし、派遣された軍も集権化にとって最大の障碍となる地方豪族の兵士たちだったから死んでくれた方が中央政府にとっては都合がいい)。

 663年、百済と倭軍は白村江で唐の海軍と戦って大敗してしまう。敗因について著者は、「かつて五世紀に高句麗に惨敗したという記憶の忘却を挙げたい。相手が強敵であり、これまでと同じやり方で戦争をおこなったのでは敗北するという、あたり前の認識を無意識的か意識的かはともかく、倭国の指導者は忘れていたのである。自己に都合のいい経験だけを記憶し、都合の悪い経験は忘却するという、人間が誰しも陥りがちな思考回路に、今回もまんまと嵌ってしまったということになる。(P152)

 

 この「白村江の戦」という古代の戦争。日本人なら誰しも知っている歴史的知識だろう(たぶん)。しかしこの戦い、意外にも!?戦場となった韓国ではほとんど知られていないそうだ。古代史を専攻する大学生がやっと知ることになる事実らしい。現代の韓国にとって歴史の主流はあくまで新羅⇒高麗⇒朝鮮であって、百済は単なる一地方政権にすぎないのだ。

 

5.〈感想とまとめ〉

 正直いって白村江の戦自体には興味はあんまりない。現在の嫌韓の起源をできるだけ遡りたいと思って、たまたま古代と題名のついたこの本を手にした。読んだら僥倖にして求めていた知識が散見されたのでまとめてみようと思って書いてみた。まとめながら思ったのだが、朝鮮蔑視の起源って、ひょっとしたら亡命してきた百済人にあるのじゃないか?と。百済人にとって新羅は祖国を滅ぼした天下の悪人国家だろう。それに対する呪詛が、日本書紀の記述をくるわせた。勿論、任那を失った倭国新羅を憎んだであろうが、その憎悪を何倍にも増幅したのが百済人の末裔たちだったのではないか?その憎悪は、新羅という特定の王朝に対するもので、朝鮮半島全体にたいするものではなかった。しかし、(不幸にも?)新羅が朝鮮を統一したため、新羅=朝鮮全体とすり替えが起こって、以来日本人も朝鮮を敵視・蔑視する傾向をもつようになったのではないかと…。あくまで、素人の思いつきなので、お許しを。

 

 まとめ 朝鮮の支配権を主張するに至るまでの道筋

高句麗との最初の戦いにおいて、朝鮮南部で軍事指揮権を発動した。

・中国の南朝の皇帝に、新羅などに対する軍事指揮権を認めてもらった。

新羅が、倭に「調」を貢納してきた。

・倭は、冊封体制の外にあって、朝鮮の諸王よりも格上だと考えていた。

 

                  〈完〉