~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

加地伸行『儒教とは何か』読んだー㊤ー

 この本を読んで、仏教プロパーだとずっと思っていた物事が実は儒教に由来していると知って驚いた。例えば、「」。仏教では骨は単なるモノにすぎないから特別埋葬もせず、拝みもしない(まあ仏舎利という例外もあるが)。儒教においては頭蓋骨が特別の意味を持つと見做されおり、家の中に箱に入れられて安置され、それ以外の骨は埋葬されて、それが墓になった。それから「仏壇」と「位牌」。仏壇は儒教〈廟、祠堂、祖先堂〉が変形したもので、位牌はさっき述べた祖霊の依代となる頭蓋骨が、木札に代わってそれが更に変形したものらしい。墓参りは、清明から来ており盆や彼岸とは全く関係がない。ちなみに葬式の後、清め塩を使うのは死を忌み嫌う神道に由来する。だから日本の葬式というのは、仏教儒教神道コングロマリット、寄せ集めの儀式なのである。

 

前置きはこれくらいにして本題に入ろう。

1〈儒教における

 儒教において死がどのように捉えられているのかは、当然のことだが中国人たちの死生観と不可分である。インド人が自分が生きている世界を「苦」と考えたのとは違って、中国人たちは「この世」「現世」を楽しいものと考えた。これにはもちろん人々が置かれた自然環境のきびしさの度合が大きく関係している。過酷な自然は、人間に「死後の世界」というものを夢想させる。輪廻転生しかり、天国しかり。しかし現世が一番と考える即物的な中国人にとって、この世ほど素晴らしい所は存在しない。だから、この世に一分一秒でも長くいたい、そう希望する中国人にとって「死」はそれだけ余計に恐ろしいものなのになった。この「死」というものをどう馴致するか、「死」を恐ろしくないものとして説明してくれる仕組みを中国人は求めた。それに答えたのが、他ならぬ儒教なのである!!

 

2〈死の説明理論としての儒教

 著者がこの本で一番言いたかったのは、

儒教は死と深く関わった宗教である」ということだろう。

 これは儒教に対してわれわれ日本人がもつイメージとはかなり懸け隔っているだろう。儒教はそのような実存的な側面(著者は宗教性と呼ぶ)よりも、むしろ四角四面な道徳的・規範的な面(著者は礼教制と呼ぶ)で捉えられているからだ。

 では現世的・即物的な中国人たちを「死」の恐怖から解き放った理論とは一体どのようなものなのか?儒教はどう「死」を説明し飼いならすのか?

 それは〈孝〉によってである!

「親孝行」という言葉があるように、普通〈孝〉は親と子の関係で考えられる。しかし、儒教はそれをもっと拡大解釈したのだ。つまり、〈孝〉は、親を越えて先祖に対しても、更に下って、自分が生むであろう子孫たちにも拡大されたのである。

先祖・・・・祖父\祖母・・・・親・・・・自己・・・・子・・・・孫

 先祖との関係(過去)、親と自分との関係(現在)、子孫との関係(未来)これら3つの関係を考える。今、自分が執行する招魂儀礼のような儀式は、祖霊を現在(の自分の身体)に再生することである。また将来、一族が継続すれば、子孫も同じように儀式をするであろう。そうすれば、自分は未来に子孫の身体に再生することができる。そうして自分の命は、永遠に(勿論一族が残っていればという条件付きで)つづくということになる、と説明したのである。

 この説明は、先祖崇拝を受け入れていた中国人にとって、もっともらしく思われた。

天国へ行くのでもなく、また六道を輪廻するでもなく、たのしかったこの世界に戻ってこられるという儒教の説明は説得力を持ったのだ。

 

3〈孝から礼へ  孔子の登場〉

〈儒〉は、孔子以前から存在していた。実際、孔子の母方の祖父は〈儒〉を生業にしていた。当時の儒は、招魂儀礼の際に儀式の進行をしたり、憑依したりする「巫祝・シャーマン」であった。それには狂気と猥雑性が伴った。また、シャーマンといっても全てが超能力を持つのではないから、自然と儀式の依頼主に阿諛追従するものもあった(これらは仁人といわれた)。

 孔子が登場し、そのような猥雑性を取り除くように努力した。孔子はシャーマンのような儒を「小人儒」とよび批判した。それに対して脱魔術化して、儀式の意味を考え説明できるような儒を「君子儒」とよびそれの確立をめざした。

 

 孔子は幼い頃に父を亡くし、母親も十代に見送っている。また後に教師となり弟子をたくさん持ったが、顔淵や子路などに先立たれている。孔子にとって死は、〈孝〉の自覚をもたらす最大の契機であった。この場合、死は身近の、親しいものの死である。

 親しい者の死を最も悲しみ、親しさの濃淡に従って、悲しみも増減する。見ず知らずの他人の死は悲しくない。墨家兼愛のように誰の死であっても悲しいというのは嘘だ、と儒家は考える。儒家は徹底して常識的である。

 ではもっとも親しい者とは誰か?「親」であると孔子は言う。つまり親の死がもっとも悲しいと。ふつう親は自分よりも先に死ぬ。この「親の死」の喪礼(葬礼ではない)があらゆる儀礼、冠婚(昏)葬(喪)祭の模範となるべきものである。つまり、

  死(の不安)⇒孝⇒親の死⇒喪礼⇒礼制

 となり孝の上に礼が成り立つと考えられるのだ。この礼は家族関係をもとにしているので小礼と言われている。

 先述したように、孔子の母方は「儒」であった。なので彼は、地方の中小共同体で行われるような儀礼のことは詳しかった。しかし、もっと大きな、国規模の大礼については疎かった。孔子は、それを学ぶために当時の首都・洛陽へ留学している。彼の地で、孔子は〈書〉や〈詩)や礼・楽などを学んだ(書経詩経でないことに注意!経になるのは経学ができてから)。それらは儒教の経典ではなく、当時の官僚の必須教養であった。孔子は礼の専門家になり官僚養成学校を開き、そこで教え始めた。知識(知育)だけでなく、それを現実にどう生かすかに重点を置いて彼は教えていたようだ(徳育)。

 現実の中で活かすということは、当然政治の中でも実践するといことを意味する。

孔子は当時の封建的な君臣の関係が不安定であること問題視した。そして君臣間にも礼を求めた。家族理論を政治理論に応用したのが孔子である(後に朱子はそれを宇宙論形而上学にまで拡大したが)。この孔子の政治理論は「徳治」といわれ、「法治」と対立するようになる。徳治は、周王朝の名残があった封建的な時代にふさわしい考えで、すでに秦王朝の帝国、中央集権時代では少し合わなくなっていた。しかし著者は、徳治と法治は対立するものでなく、道徳が一番上にあり、それに従わないものがいた時その場合は法で罰する、徳治にも法治は必要なのだと注意を促している。

 では中央集権体制の下で、儒教は滅んだのか?

いや、儒教は、その体制下で官僚たちの内面を方向付けるイデオロギーとして確固たる地位を築くに至ったのである!  

      

                     次回につづく