~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

医学ドラマ『済衆院』観た➁~「人」とは何か?~

前回は物語そのものの感想を書いてみたが、今回はその物語に触発されて(と言いつつ以前からうっすら頭にあったことだけど)考えたことを書いてみようと思う。

 

《白丁・ペクチョン》は「人」ではない、だから殺しても「殺人」にはならない。

 

見事なロジックである。

事実この時代もそれ以前も身分制度が厳格だった儒教原理主義の朝鮮社会で、白丁は人間として扱われていなかったようだ。

町はずれに、白丁だけが住む白丁村を作ってかたまって住まわされいて、町に出ると彼らは腰をかがめて、早足であるくという〈白丁歩き〉をしなければならなかった。通りの端っこを壁や塀に張り付く影のように、存在を消すように歩く。勿論話しかける人もなく、視線を送られることさえない。存在してはいるが、あたかも存在していないかのように扱われる。それが白丁だった。

『済衆院』の主人公はソグンゲと言う名前である。意味は「痩せた犬」。ソグンゲの父の名前はマダンゲで「広場の犬」という意味。ソグンゲの幼馴染みの相棒でインチキ占い師の名前はチャクテ。意味は「棒きれ」。およそ人の名とは思えないような名前をつけられている。この命名にも人間扱いされていなかったことが見て取れる。

 

「人でないものを人のように見做す」、擬人化する能力を人間が持つのと同時に、真逆の、

「人を人でないように見做す」ような能力、脱人化する能力と言うべき能力を人間は持っているのだ!

 

この「脱人化」は何も千年前、百年前の出来事として起こっただけでなく、今現在も此処日本でリアルタイムで起こっている。ある特定の国籍を持った人たちを「ゴキブリ」呼ばわりしている輩が大手を振って通りを闊歩している!!

 

「人はポリス的動物だ」と言ったのはアリストテレスだが、その「人」概念の中に奴隷は含まれていない。彼にとって奴隷は「物言う道具」であり「二本足の道具」に過ぎなかった。ソクラテスが「ただ生きる」のではなく「善く生きること」を説いたそのアテナイの繁栄を支えていたのは、ラウリオン鉱山から産出される銀であった。鉱山でこき使われていた奴隷たちのことをソクラテスプラトンは一瞬でも考えたことがあったのだろうか?「善く生きる」は言うまでもなく「ただ生きること」でさえも根源的に奪われた人々が存在するということをアテナイの哲学者たちは認識できていたのだろうか?

 

「白丁」が人間と見做されなかったように、鉱山で使役されている奴隷たちも「人」と見做されなかったのかもしれない。このことから分かるように、「人」という概念は自明ではないそれは発見されねばならなかったし、また絶えず再発見・確認されねばならない概念なのである。「人とは~である」とか「人間は全て~である」というような規定や定義が述べられていても、それらの語が本当にすべての人間を指示しているのかは疑って考える必要がある。初めから「人間」の範疇に入れられていない化外の人がいるかもしれないからだ。