~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

姜尚中『ナショナリズム』レポート➁

 ⑶国体ナショナリズムの生成と変容

 「国体」はいかにして生まれたか?そして時間の流れの中でどのような変成作用を受けてきたかを考えるのが『ナショナリズム』のテーマである。姜は国体の始原を、本居宣長にみる。宣長は幕末に盛んになった海防論による地政学的境界としての神州=日本を確定するより以前に、日本語から漢字を徹底的に排除することによって、本来の日本語=〈やまとことば〉及び〈やまとごころ〉を抽出し、日本を内側から確立した。その意味で宣長は最古の「政治的アルケオロジスト」であると姜は言う。

 また宣長は以後繰り返し現れる美的憧憬としての「国体」の創唱者でもある。この主情主義的な国体は現在でもよく見られる。例えば小泉元首相が靖国神社参拝を行ったとき彼が吐いた「心から平和を願っている。それがなぜ悪いんだ」という言葉は「自分はイノセントな真心(ココロ主義)で動いているのに、外からいろいろ注文するのは政治的で汚れた言説だ」という感覚が込められていると姜は言う。ココロ主義=美的な国体は、絶えず政治的な国体と競合してきた。しかし前者が後者よりも安全なものと考えるのはナイーヴである。美的国体は政治を否定し美学化することで、よりファナティックで激情的な汎政治主義へと反転する可能性を秘めていることに注意しなければならない。

 「イタリアは作られた、これからはイタリア人をつくらねばならない」これは姜がよく引用する言葉だが、同じ問題が明治の日本でも発生した。江戸時代の農民に自分が「日本人」だという自覚はなかった。その彼らに「日本人」であることを自覚させるためには、グラムシのいう「知的道徳的改革」が必要であった。明治日本においてその役割を果たしたのが「国体」で、より具体的に言うならば「大日本国憲法」と「教育勅語」「軍人勅諭」などのテキストである。

 しかしこの時、国体にとって最大の問題が生まれる。天皇憲法においてどう位置付けるかという問題である。伝統的天皇は、超越的統治者として法を越えた存在である。近代国家として出発した日本は、立憲主義に基づいて天皇を法の内部へと制約しなければならない。この時天皇機関説は未だない。明治の為政者たちは天皇を「現人神」とすることで憲法の内と外を無理矢理接合させたのである。

 宣長によって見出された主情的な国体は「軍人勅諭」の中に生きている。忠節、礼儀、武勇、信義、質素などの軍人の徳行の実践は「誠心(まごころ)」がなければ単なる飾りにすぎないと書かれている。言い換えれば軍人は「誠心」によって天皇と内面的紐帯を持つのである。国体は微分され、個々人の内面へと埋め込まれていったのである。

 先の大戦中「国体」は怪物となって猛威を振るった。。「聖旨」「大御心」「皇恩」「万世一系」等々の国体語が乱れ飛んでいたのだが、それらの中心をなす国体の概念は尚はっきりとしないままだった。むしろその茫漠としたところに何でも注入できる便利な容れ物として国体が威力を発揮したと言えるが。

 天皇機関説を排撃した後の国体明徴運動とそれに続く「国体の本義」は依然として主情的なココロ主義を基調としたものだったが、植民地を獲得した日本は、外部すなわち台湾人や朝鮮人などを自らの内部へと同化しなければならなくなった。同化される天皇の赤子でも弟子でも臣子でもない異邦人をどう国体の中に位置付けるかが問題となる。彼等は異民族臣民として内部化、日本人化されたわけだが、それは一様に起こるのではなく中心ー周縁というハイアラーキーを維持したまま順次行われていったのである。しかし臣民の身分が儀礼的なルーティンによって与えられるということがかえって、国体の空疎さや日本人概念の曖昧さを反照することとなるのである。

 

 日本の近代史における一大事件だった敗戦は、国体を抹殺しただろうか?姜の答えは、「否」である。国体護持が終戦工作の中心命題であったことからもそれはわかる。あの8月15日の玉音放送ですら天皇の超越性の確認に他ならなず、それは天皇制維持の緊急キャンペーンの一環であったのである。

 皆が知るように新憲法の下で天皇制は生き延びた。延命は日米談合による「天皇制民主主義」という形でなされた。このようなことが可能であったのは、そもそも国体が戦争にも平和にも利用できる空虚で茫洋とした概念であったためである。

 この奇妙で、かつ、巧妙に仕組まれた日米談合体制は、勿論、日本のナショナリストたちの言論に影響を与えずにはおかない。姜はその分裂を、和辻哲郎南原繁江藤淳丸山真男の4人の知識人を例に挙げて述べている。詳しく見る前に大まかな区別をしておこう。問題は戦後戦前を通じて国体は繋がっているのか、途切れているのかである。和辻と南原は連続派であり、江藤と丸山は断絶派である。同じ断絶派でも江藤はそれを悲観的にとらえ、丸山は肯定的にとらえているという違いがある。

 和辻にとって敗戦は国体の喪失を意味しない。むしろ国体は試練を潜り抜けることによって「成熟」したと考える。つまり戦中のおどろおどろしい国体語の連呼が代表する架空の観念に基づいた逸脱態の国体から、まともな形態に戻っただけであると。姜は和辻の倫理学を「仲ヨシ」共同体の人間学と名付け、その共同体の全体性を表現するのが天皇であるという。この和辻の考えと、戦後外部から齎された新憲法はほとんど異なるところをもたなかった。それ故かれは喜んで新憲法を受け入れたのである。

 同じ連続派でも南原は国家を重く見る。彼は文化の目的というものは、国家という枠組みがあって初めて意味を持つものと考えた。国家なき文化などというものは脆弱なものと彼の眼には映ったのであろう。彼曰く「およそもろもろの文化の基礎に横たわる人間的自由の理念と、かような政治的国家の理念とを、その根底においていかに結合し、あるいは総合せしめるかの困難な問題がある。そして、それはまさに現代政治哲学の根本問題であると同時に、おそらく哲学永久の課題であるだろう」

 ではこの永久問題を南原はどう解こうとしたのか?答えは歴史を重視することだった。ナチスのように「民族」に訴えることを回避した彼が見出した歴史。しかし、この歴史主義が再び国体を召還してしまう。記紀の「国生み」を例にして、皇室はいにしえより政治的だったのであり、これは世界に類を見ないものとして、格好の統一原理へと仕立て上げられるのである。

 文芸批評家江藤淳は前二者とは全く異なる。彼は敗戦後の日本を次のようにとらえている。戦後とは日本人の心理が根底まで改変されその原型をとどめないほどに無惨にも作り替えられてしまった時代だと。終戦直後、日本人の中には「国体」が健在だった。しかしGHQによる武力と言論統制によって我々は自分たちの本当の歴史を忘却させられた。「他人の物語」を生きるのではなく、「自分の物語」を発見することを江藤は求める、これは明らかに昨今話題になった「自虐史観」と同じ言い草である。戦後はアメリカによって強制的に作られたというよりも日米談合による合作であったと姜は批判する。

 最後に丸山を見てみよう。彼は戦前、国体の合理的な立憲主義的側面を拡大して国体の近代化を図ろうとした。彼の考えではナショナリズムはデモクラシーと結合して国民の主体的内面に規範化されねばならなかった。しかし実際起こったことは、全く反対のことだった。ナショナリズムは合理化されるどころか、ますます情念化され神秘化され超国家主義にまで至ってしまった。そのつけが敗戦となってあらわれた。

 丸山は戦後も国体にこだわり続けた。しかし以前のようにナショナリズムとデモクラシーの内的結合を目指すのではなく「永久革命としてのデモクラシー」として達成しようとした。それはどういうことか?彼は近代の理念を、未来への投機ととらえた(彼の師である南原が過去へ遡行していくのとは全く逆方向であることは興味深い)。つまりたとえ「配給された民主主義」であろうが「他人の物語」であろうが、逆に自分からそれを引き受け生きるという決断をすれば良いと彼は考えたのだ。(しかし民主主義の配給元であるアメリカの化けの皮が剥がれてくるにしたがって、丸山は再び進路を変更することになるのだが)。