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~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

姜尚中『ナショナリズム』レポート ①

感想

 ナショナリズムとは何か?これを定義するのは難しく骨の折れる仕事である。それは日本語訳としても、国家主義国民主義民族主義国粋主義等々と訳されるし、イメージとしては上記のほか更に、外国人嫌い、排他主義帝国主義愛国主義ポピュリズムなどと分岐し、豊饒化される。翻訳による意味の不確定は何も日本語訳だけに限らない。例えば英語の"nation"(ネイション)とドイツ語の"Nation"(ナチオン)は使用される範囲が異なっている。ドイツ語の"Nation"は、民族的栄光、民族的統一、国旗のような高尚な概念のために用いられるが、英語の"nation"は、ナショナルバター(国民バタ-)のように日用品にさえ用いられる、という風に。

 では一体、この不安定で多様な概念について、姜尚中はどのように接近するのだろうか?彼の『ナショナリズム』と、森巣博との共著『ナショナリズムの克服』に依拠して考えてみよう。『ナショナリズム』の構成はまず第一部でナショナリズムの一般論を展開している。これは世界的にみられるナショナリズムの概論の如きものである。この本の心臓部は第二部にある。ここで「日本のナショナリズム」が俎上に上げられる。姜の見方はとてもはっきりしていて、日本におけるナショナリズムは「国体ナショナリズム」であると宣言している。この本の大部分が国体ナショナリズムの形成と変容についての記述に費やされている、と言ってよい。これより以下でナショナリズムと国体ナショナリズムについて少し詳しく見ていくことにしよう。

 

 ナショナリズムのイメージ

 姜はナショナリズムのイメージを二重の両義性において捉えている。つまり「病い」と「救い」、「作為」と「自然」である。ナショナリズムが近代によって齎されたものであることを踏まえて、各々のイメージについて考えてみよう。なだいなだ、A・ギデンス、E・バリバール、B・アンダーソン、および彼の言葉をしばしば肯定的に引用する姜自身もナショナリズムを「病い」として捉えている。なだやギデンスらはナショナリズムを、人をまとめ上げるための「世俗的宗教」とみなしている。ナショナリズムも宗教も血塗られた悲惨な歴史を共有している点で誰しも思い浮かべるアナロジーであろう。より鮮明にナショナリズムの病いを強調するのがバリバールであり、彼によるとナショナリズムの行きつく先はナチス的な優生学だと言っている。アンダーソンはそれを「社会小児病」だと言っている。

 一方、ナショナリズムを「救い」として語るバーリンは、それを後進国が近代化していく際の内面的発条として評価しているように思われる。また明治という日本の近代黎明期のナショナリズムを、丸山真男は「処女性」において、司馬遼太郎は若々しいエネルギーの「国民の物語」としてかっているである。しかしこの二人は同時に、日本のナショナリズムが時を経てそのような長所を失ってしまったことを嘆いてもいるのである。それ故彼らにとって明治とは、いつも参照すべき「回想の場所」として特権化される。そして特権化を施す彼らの言説が再びナショナリズムを強化するのである。

 では後者、作為/自然の両義性についてはどうだろうか。小林よしのりが一番わかりやすい例であるが、彼が言う「くに」とは「生まれ育った郷土の山や河」「家族や村の人々」であり、それは橋本文三ナショナリズムと区別したパトリオティズムなのである。このイメージがつまり「自然」の側面を形成するのであり、政治上のイデオロギーとしては「原初主義」となるのである。しかし実際の近代国家は複雑化した契約関係や官僚体制によって維持されているゲゼルシャフトであり、すでに「郷土」という範囲を超えていることが明白なのだ。それを無理やりゲマインシャフトの言葉でイメージするなら、B・アンダーソンの「想像の共同体」ということになろう。小林の言説は、ゲゼルシャフト的国家の作為性(人工性、不自然さ)に着いていけなくなって、精神的退行を起こしていると理解される。

 

 ⑵国体ナショナリズム

 森喜朗という人が良くおしゃべりで、したがって政治家としては馬鹿にみえる日本国元首相の「神の国」発言が、姜尚中をして『ナショナリズム』という本を書かしめる原因となったという。姜は森元首相が「神の国」で言おうとしたのは実は「国体」のことだったのではないかと勘繰っている。

 日本におけるナショナリズムは「国体ナショナリズム」である、これがこの本の最も短い要約であるが、では「国体」とは一体何か?なぜ日本のナショナリズムが「国体」という形をとらねばならなかったのかを考えてみよう。

 姜はこの得体の定かでない国体を眺めるために4つの視座を提供する。

①国体の持つデュアリズム ➁国体の弾力性 ③国体の心象歴史 ④国体論批判

は作為/自然の二項対立と関係している。姜は「国体」を2種類に区別している。一つは体制としての国体であり、政治の論理で動いている。それは《作為》であり、「公(おおやけ)」に関わっている。このタイプの国体を担う知識人とは官僚や官立大学の教員などの制度的知識人たちである。もう一つの国体は文化としての国体であり、美的論理で支えられ《自然》であり「私(わたくし)」の領域に属する。この国体は自由知識人、言葉の本来の意味でのインテリゲンチャによって担われている。橋川文三は後者の例として三島由紀夫を挙げている。このような国体の二重性が、日本のナショナリズムを特異なものとしているのである。

国体は膨張したり収縮したりする。植民地支配は必然、現地人たちをまつろわすために国体を膨張させる。逆に敗戦後は米国との従属関係においていびつな形で収縮したりする。この相反する二つの運動は国体内部の純粋性を保持するためには必要な反応なのである。

国体は無窮だ。国体は読売ジャイアンツのように永遠に不滅なのである。国体の永遠性は天皇の万世一系と重なっている。このような国体の心象史はナショナリスト知識人たちによって純化され再流用され、反復される。

国体は批判されてきた。戦前右翼の大物、北一輝の国体批判は有名である。北は国体論を、無智と迷信と奴隷道徳と虚妄の歴史解釈で捏造された土人部落の土偶、と看破している。またこれまでの斉一のナショナルアイデンティティしか認めてこなかった歴史学を批判して登場した複眼的な網野史学も有望である。しかしこれには罠があることに注意しなければならない。現代の脱領域化した〈帝国〉は、ローカルな文化的差異や異種混交性を逆手にとって〈帝国〉内部に文化の順序付ける能力を持っているということを。

 

                   ー次回につづくー