~戯語感覚~

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熊井啓監督「地の群れ」を観た。~希望なき映画に希望をみる~

 

 原作は井上光晴。映画の脚本も井上本人と熊井啓監督の共同執筆。井上光晴三島由紀夫安部公房とほぼ同年齢。後者二人の作品はほとんど読んでいるが、井上の作品はなぜか全く読んでいなかった。ただ昔に原一男監督の『全身小説家』を観て、作品よりも作家自身に興味をそそられたことを思い出す。原作の『地の群れ』も未読である。近々読む所存である。よって、以下の感想も映画『地の群れ』についてのものであって、小説『地の群れ』のものではないことを予め断っておく。

 

 昭和16年、長崎の炭鉱で働いていた少年・宇南親雄は、同じ炭鉱で安全灯婦をしていた朝鮮人の朱宝子を妊娠させてしまう。宝子の姉・宰子に妊娠の責任を追及される宇南少年。これが冒頭のシーンである。

 後になって分かることだが、宝子はお腹の子を流産させようとして坑木置場から飛び降り、あやまって自分も死んでしまう。妊娠させた男について様々な噂が飛び交うが、唯一真相を知る姉の宰子も決して宇波の名前を口にしない。検定試験を控えた宇南少年にとって全てが好都合に運ぶ。しかしこの事が返って宇南の心に「疚しさ」の刻印をいっそう深く刻みこませる。彼は、試験に合格し炭鉱暮らしから抜け出て、その後医師になる。

 

 医師となった宇南は、出血が止まらないという家弓安子の診察に出かける。宇南はすぐに症状が『原爆病」に似ていると告げるが、母の光子はそれを頑なに認めようとしない。自分は原爆投下の日佐賀に疎開していて長崎にはいなかったと。

 

 宇南の患者の一人に津山金代という老婆がいた。その孫の津山信夫は、被差別部落の少女・福地徳子を暴行した疑いで警察にひっぱられる。しかし信夫にはアリバイがあり、しばらくして釈放される。

 ある日、被害者の福地徳子が宇南の診療所に「暴行された証明書」を書いてくれとやって来る。理由もわからず証明書は書けないと断る宇南に彼女は「先生に話してもわからんことです!」と言い放つ。宇南をにらみつける徳子の視線が、かつて彼を弾劾した朱宰子の視線と重なる。

 

 疑われた信夫は、徳子に何故警察に嘘をついたのかを問いただそうとするが、逆に左手と耳にケロイドのある男が信夫の住む海塔新田にいないか問われる。〔海塔新田とは長崎原爆の被害者たちが多く住む地域の事で「ピカドン部落」とも呼ばれている(架空の)場所だ〕。その男こそが徳子に乱暴をはたらいた真犯人なのであった。 

 

 徳子は一人で海塔新田にある真犯人・宮地真の家にのりこむ。しかし彼女と真、その父との間に「やった」「知らない」の口論が始まり、決して事実を認めようとしない。

 その晩、今度は母の松子が海塔新田へ一人でやって来る。再び真の父と言い争いになり、その過程で松子は「あんたは、この海塔新田が世間で何と言われとるか知っとるとね。知らんことはなかろう。あたし達がエタなら、あんた達は血の止まらんエタたいね。あたし達の部落の血はどこも変わらんけど、あんた達の血は中身から腐って、これから何代も何代もつづいていくとよ。ピカドン部落のもんといわれて嫁にも行けん、嫁にもとれん、しまいには、しまいには・・・」と口ばしってしまう。

 家の周囲に潜んでいたらしい海塔新田の人々の投石によって、とうとう松子は命を落としてしまう。 

 

 これがこの作品のざっとしたあらすじである。

 この「地の群れ」は社会派の熊井監督作品の中でも最も重い、暗いと言われた作品だ。

しかしこの映画を「絶望的」「救いがない」と形容することは、結局「何も見たくない」、「何も考えたくない」と言っているのと同じである。

 絶望の中にも希望は兆してるのであって、その幽かな希望、希望の如きものを見出し、ここに記しておきたいと思う。

 

 私が感じる希望とは、医師の宇南親雄という存在である。

彼は共産党員としての活動で同志の命を救えなかった。そればかりか彼の恋人を自分の妻にしてしまった。また、この妻が妊娠を告げるや、密に薬を盛って堕胎させたりした。

これで分かるように宇南という人間は「罪」まみれなのだ。決して尊敬されるような人物ではない。

 妻に「あれからずっと、あなたの裏側ばかりみてしまうようになった」と堕胎させたことについて吐き捨てるように言われると、宇南は「お前は、俺の裸の顔を知っているのか。俺がどんな生き方をしてきたか、本当のことを知っているのか」と答える。妻にではなく、自分に言い聞かせるように。

 

 宇南は、原爆投下直後、爆心地に父を探して彷徨し被爆した。やっと探し当てた、やけどで瀕死の父親に、生き別れた母親について問う。すると彼の母親は被差別部落出身だったことがわかる。つまり宇南は自身が被爆者であり、部落の母を持ち、かつて朝鮮人の娘を死に追いやった人なのである。

 この映画に登場する、被爆者、部落、朝鮮人という決して他者とは共有できないものを持つ者達と、少しずつ共有できるものを持つのが彼、宇南親雄なのだ。

 「他者と共有できないもの」を持つこと、それを持っていない者に決して「伝達できないもの」をもつことを宇南は「ほんとうのこと」と言っているのだ。

 本来ならば、それ一つをとっても過酷なものをあわせ持つ彼こそ、被爆者、部落、朝鮮人を媒介できる存在者なのである。

 事実、彼は「原爆病」と言われるのを拒む家弓光子に「海塔新田がへんな部落なら、日本中そうじゃないですか!」と諭す。母親を失った福地徳子をはげましに行こうとしたり、追われる津山信夫を助けようとしたりする。

 これ以降、彼がどう生きたかはわからないが、私はこんな彼に希望の可能性をみるのである。

 

 

 しかし、気がかりがある。それは劇中たびたび挿入される米軍の存在である。

宇南の頭上を飛び交う米軍戦闘機は、アメリカから見れば日本人なんて皆「イエローモンキー」なんだよ、と言ってるように思える。考えすぎだろうか?

 

 

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