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~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

「祖谷物語ーおくのひとー」を観た

 蔦哲一朗監督の『祖谷物語-おくのひと-』を観ました。 

蔦監督はあの「やまびこ打線」で甲子園全国制覇をなしとげた池田高校野球部の蔦文也監督(どっちも監督!)のお孫さんだそうですが、風貌はまるっきり正反対。おじいさんの豪快な感じとは違って繊細なお顔立ちです。

 しかし!!この映画を全編・35mmのフィルムで撮影し、完成に3年もの時間を費やするなど並々ならぬ情熱と強い意志の持ち主であることがうかがえます。デジタル時代に抗ってフィルムの質感にこだわる、ブラボーです!新人監督〈なのに〉、というか新人監督〈だから〉と言うべきか無茶してます。無茶ですが、初めから小さくまとまって、コストとか手間とかにかまけてる様じゃダメです、大成しません。

 

 物語は徳島の山深い祖谷渓谷を舞台に始まります。

こんな景色以前にも見たことあるな・・・と、そうだ『萌の朱雀』だ!『杣人物語』だ!この感想は映画の後半で意外な形で的中します。

 『祖谷物語』にはあまり説明するようなシーンがない。日本の映画は、観客の事を慮ってか、或は子供扱いしてるのか、やたら説明くさいのが多いですが、その点でこの作品は、視る者に隙間を与えてくれます、想像する余地を残してくれています。そこがいい。 

 物語では、前半と後半で全く景色が異なります。

祖谷を出た「春菜」は東京で何やら研究の助手みたいなことをしています。しかも男と同棲してるみたいなのです!あの純真な,田舎の素朴な少女はどうなったんだ!?と内心叫んでいました。また研究室の先生役で「河瀨直美」が出演しててビックリさせられます(おー、萌の朱雀、当たってる!)。

 物語構造分析みたいなことを言えば、《死と再生》の物語と言えるんでしょうね。山は《生》、都市は《死》を表して、その間をつなぐのが《トンネル》なのでしょう。一度、山を下りて、都会へ出て(死)、再び山に帰る(再生)。実際、死んだ(らしい)「お爺」は「工藤」として蘇っています。(ちなみに萌の朱雀でもトンネルは登場します。)

  この映画についての他の人の感想を見てると「後半部分が余計」というのが結構多いですが、主人公の春菜が生まれか変わる為にも、都会で一度死ななければならなかったんでしょう。東京の川にマリモを放り投げ、川底までわざわざ下りていくシーンは春菜の《死》を象徴してるんだと思います。そこで発見する故郷の《かかし》は再生の導きであり、横たわる水路の入り口は、子宮だといえます。祖谷のトンネルまでが産道で、そこから出てきたときに、彼女は再生します。旅館を手伝っている友人の赤ちゃんがでてきますが、それは《生まれる》ことの暗喩です。

 あと、祖谷の山道を走る派手な色のボンネットバスは、となりのトトロの「猫バス」を連想させます。

トトロの代わりに春菜はあの《かかし》を連れています。

 細かく分析すればもっと色々、興味深いかもしれませんが、めんどくさいのでやりません。もっともらしい言い訳をすれば、映画を文学にしないためです。映画と文学は違います。文字で表せないところが、映画なのです。どんなにうまく分析しても、実際の映画作品はそれを超えています、というか、はみだしています。

 

 一言も発さない「お爺」役の田中泯さんの存在感がすばらしいです。

 これも映画は文学じゃないことの証明になっている思います。 

 

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