~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

浅田彰 「新国立競技場問題をめぐって」を読んで

この浅田彰新国立競技場問題をめぐって」は『SAPIO』に掲載された記事の元になった談話に加筆されたものであるそうだが、『SAPIO』読んでないのでどこが足されているのかはわからない。「浅田節」健在を印象づける明瞭かつ鋭利な意見であると思う。遅れてきたニューアカ世代の私としては、なんかうれしさがこみ上げてくるのだけれど。

 さて内容であるが、記憶に新しい「新国立競技場問題」から、そもそも論のオリンピックやワールドカップ等のビッグイベント誘致に絡む問題、公共工事に関する政治家・官僚・ゼネコンなどの財政・政治問題、戦後日本の代表的建築家たちへの(浅田自身の)評価、挙句は現在流行している「コミュニティー・デザイン」への批判と短い文章にてんこ盛りにされている。

 これらの中で私が印象に残った二点についてだけ書こうと思う。まずそもそも論である「オリンピック誘致」が間違ってるという点だ。日本は開催地に「選ばれないと思って」手を挙げたら、他の候補地がこけてしまい自分だけ残ってしまう、というダチョウ倶楽部状態で「開催地」に決まってしまった。故に、その消極的な誘致姿勢が予算管理や責任の所在があやふや状態を招くことになった。

 私は今回の件に限らず、オリンピックやワールドカップ、万博などの国際的ビッグイベントを少なくとも先進国で開催する意義がよく理解できないでいる。途上国が自分たちの国威を内外に示す為なら、百歩譲って理解できなくもないが。

 なにしろこれらの国際的ビッグイベント開催地誘致には必ず怪しいお金の流れがある。はっきり言って、私はずっと前からFIFAIOCなんかはタカリ屋か単なるごろつき連であると思ってました。こんな連中に税金使って揉み手しながらペコペコする事になんの意味があるのか、いいかげん気づいてほしい。ゼネコンも政治家も、他のことで儲けるべきだ。

 でも最大の「開催地を辞退」するべき理由は、福島原発の件だ。これについても浅田彰はきっぱりと言っている「現在の日本にとっての急務は4年たっても被災者の生活再建が遅々として進まない状況の打開であって、ほんんとうはオリンピックなど開催してる余裕はない。・・・」と。全くその通りだと思う。オリンピック開催決定を手放しで喜んでる東京の人(の一部)はほんと脳天気だな、と正直思ったりもした。

 日本の、或は世界の科学者の知識・技術を結集して福島原発事故を収束に導くことに全力を傾注するのが現在の日本のあるべき姿であると思う。「オリンピック」は復興再生の邪魔です!浅田が言うように「更地に戻った国立競技場や周辺の地域を草地に」して、白墨で線を引いて跳んだり、走ったりすればいいです。それこそオリンピックの精神です。

 

 それからもう一点。建築におけるコンテクスチュアリズムについて興味深いことを浅田は「附記3」で述べている。現在流行りの「コミュニティ・デザイン」における「コミュニティ」の絶対化が「他者の排除」を齎す、というものだ。楳図かずおの赤白ボーダーの家と言えばわかりやすいと思う。ボーダーの家という「異物」はコミュニティには要らないのだ。住民同士の監視によって「異物」が排除されていくというパターン。戦時中の隣組みたいでないか?いや隣組は国家や軍からの強制であったからまだしも、民主的な話し合いで除け者にされるのはより一層悪い状態だと言える。

 こんなことを私が言うのは「Bライフ」という、最近目にするライフスタイルが気になっているからだ。「Bライファ―」の中には、住宅地のただ中で質素すぎる小屋を建てて生活している人もいる。山奥でBライフするよりも、都市の周辺でBライフする方が楽なこともあって、これからますます増えるかもしれない。こういう人たちが、「コミュニティ・デザイン」の名の下に排除されないようにウオッチしていこうと思ってる。

 

 最後に、浅田彰の原文のリンクを貼っておこう。ぜひ、読んで下さい。

http://realkyoto.jp/blog/asada-akira_160104/