~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

《箱男》のいるところ。 ~箱男を救済せよ!~

箱男は学生時代から何回も読んできた。

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安部公房の小説の中では、『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』と並ぶ傑作だろう(『終りし道の標べに』『けものたちは故郷をめざす』などの実存シリーズを除けば。)

 

箱男にはいろいろ書きたいことがあるが、ここではやや斜め目線で、

小説の舞台の中で箱男がどこに現れるのか》に注目したい。

 

箱男』の主な登場人物は、

ぼく(元カメラマン)、「A」、若い看護婦(戸山葉子)、贋医者(贋箱男)、元軍医殿、「少年D」。ただし少年Dは挿入話として登場。

 

箱男」の構成がややこしいのは、登場人物が本物と贋物に分かれていることと、加えてその真贋各々の箱男が書いた「日記」が、間に挿入されていることである。《ぼく》は、果たして本物の箱男なのか?それとも贋箱男なのか?さらに「日記」の筆者は贋箱男か?本物なのか・・・? 日記とは本来、過去に起こったことを現在地点で振り返って遡行的に書くものであるが、「箱男」のそれは、未来のことを既に起こったことのように書くという時間軸上のからくりも潜ませてあるのでより厄介だ。  

まあ、これは今回脇に置いておこうと思う。今の私にはもっと重要なことがあるのだ!

 

《Aの場合》

「たとえば、君にしたところで、まだ箱男の噂を耳にしたことはないはずだ。べつにぼくのうわさである必要はない。箱男はぼく一人というわけではないからだ。統計があるわけではないが、全国各地にはかなりの数の箱男が身をひそめているらしい痕跡がある。そのくせどこかで箱男が話題にされたという話は、まだ聞いたこともない。どうやら世間は、箱男について、固く口をつぐんだままにしておくつもりらしいのだ。…」

 

箱男が目立ちにくいのは、たしかである。歩道橋の下だとか、公衆便所とガードレールの間などに押し込まれて、ゴミとそっくりだ。だが目立たないのと、見えないのとは違う。とくに珍しい存在というわけではないのだから、目にする機会はいくらでもあったはずなのだ。…」

 

「ある日、Aのアパートの窓のすぐ下に、一人の箱男が住みついた。…」

 

「-Aは箱をかぶったまま、そっと通りにしのび出た。そしてそのまま、戻ってこなかった。」

 

《ぼくの場合》

「ちょうどいま、運河をまたぐ県道三号線の橋の下で、雨宿りしながらこのノートを書きすすめているところだ。…」

 

箱男にはやはり駅の周辺だとか、混み入った商店街なんかの方が向いている。たかだか三、四本しかない道を、迷路のように見せかけている風景の正直さも好きだし、それに第一居心地がいい。この調子だから地方の町は苦手なのだ。…」

 

「東京の盛り場ならいざ知らず、このT市の繁華街では、とても二人の箱男を受入れる余地はない。」

 

「いまここは湾をへだててT港と向かい合った市営の海水浴場。ヤドカリが音を立てて這いまわっている、無人の砂浜。」

 

公衆便所と、何かの板塀(露店駐車場かもしれない)のあいだの狭い隙間に、つぶれかかったダンボールの空箱がひとつ乱暴に押し込まれているのを見掛けたことがある。住人がいなくなった箱は廃屋と同じで、老朽化も早いらしく、しなびた葡萄色に風化してしまっていた。」

 

《贋箱男の場合》

坂の上の病院、医者の書斎、兼居間。

「話しかけられているのは、箱男だった。ぼくとそっくりな箱をかぶって、ベッドの端に掛けていた。」

 

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《Aの場合》と《ぼくの場合》で分かるように、箱男の生息場所は浮浪者のそれと酷似している。というか区別できない。場所が区別されないばかりでなく、箱男と浮浪者は同じ類の存在者と見做されがちだ。しかし、安部公房は両者を峻別する。『箱男は浮浪者とは違う」とでも書くつもりだったのだろう。もっとも世間の方では、箱男が思っているほど、はっきり区別をつけてくれてはいないようだ。たしかに共通点も少なくはない。たとえば身分証明書を持たないこと、職業に就かないこと、一定の住居を持たず、名前や年齢を明示せず、食事や睡眠のための決まった時間や場所を持たないこと。それから・・・そう、散髪に行かず、歯をみがかず、めったに風呂に入らず、生活のためにほとんど現金を必要としないこと、等々・・・』ここまでは共通点。これ以後が相違点。

 『しかし乞食や浮浪者の側では、けっこう違いを意識しているらしいのだ。何度も嫌な思いをさせられた。・・・とくに「ワッペン乞食」には目の敵にされたものである。連中の縄張りに入ったとたん、黙殺どころか、過敏すぎるくらいの反応をあびせられるのだ。登録された番地に住み、ちゃんと現金払いで暮らしている連中から受ける以上の、露骨な敵意とさげすみの色を突きつけられる。そう言えば、乞食から箱男になったという話はまだ聞いたことがないようだ。こっちだって、乞食の仲間入りしたつもりは無いのだから、まあお互いさまだろう。だからと言って、彼等を見下したりするつもりはない。あんがい乞食までは、まだ市民に属する周辺の一部で、箱男になるともう乞食以下なのかもしれないのである。

乞食は市民であるが、箱男は市民でない。そのように理解できる最後の文章は重要である。しかし近代民主主義国家における市民・個人とは何なのか?それは安部公房自身が述べているように「デモクラシー原理というのは、ある市民の匿名性という事で成り立っている。つまり無名の完全に価値が等しい等価の人間、身分とか財産とかうんぬんで区別されないところの各個というものが平等に、投票の権利、政治的な発言権を持つ。それは誰でもない、と同時に誰ででもありうるありうるということで主体性を取り戻す。極限のデモクラシーの原理というものは、人間が誰でもないのと同時に、誰ででもありうる。要するに、箱男のありのままの姿というものは、それを直視すれば、ある意味で人間が民主主義の原理として憧れているというか、どこか心の中で夢として、絶対不可能だけれど夢として抱いているものである。・・・」(「小説を生む発想」)というものならば、箱男こそはデモクラシーの規範的モデルではないだろうか?分かりやすく言えば、近代民主主義国家では、投票に行くとき、誰でも箱男(箱女!)と同じ状態になっているのである。(見かけ上、選挙人名簿に登録されているという非箱男的部分が存在するが、原理的・理想的にはそうなのである。)

youtu.be

 

小説『箱男』が面白くなくなるのは、箱男箱男的な属性を放棄し、箱が持つあらゆる可能性を単なる金銭に交換してしまう瞬間からだ。作中の箱男は、たった5万円で箱を譲渡してしまう。もちろんそれは、5万円という金額ではなく、話を持ち掛けた若い看護婦の魅力に負けた側面が強いが…。(ユーチューブ動画では緒川たまきが看護婦を演じていて、彼女だったらしょうがないかと思う自分がいる(笑)。)箱の譲渡、および箱を媒介とした見る主体・見られる客体の相克という近代認識論のウロボロス的無限ループに足を突っ込んだ時に、箱男というモチーフは一挙に陳腐化してしまう。もっと、箱男を生かすべき方法があるはずだ、その可能性を私はこれから探し求めてみたいと思う。

わずか5万で、箱男が売られるなんて、

安すぎはしないか?

 

この動画は原作に割と忠実に作られてる。youtu.be

 

 

吉田孝『日本の誕生』を読んだ。ー国制と国号とー

岩波新書の『日本の誕生』吉田孝著を読んだ。

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 この本のタイトル『日本の誕生』に、著者は二つの意味を持たせている。

一つは、国制としての日本の誕生

そしてもう一つは「日本」という呼称・国名の誕生である。

 

 著者はこの国の基本的な国制・文化、すなわち近代明治維新以前までのそれらが、平安時代に形成されたとする。その古典的国制とは、

(イ) 天皇を核とし、摂政・関白、院(上皇)、征夷大将軍等がその権力を代行する。

(ロ) 五畿七道諸国(大八洲)を領域とする。

(ハ) イエ(家)の制度。

(ニ) ヤマト言葉(母音は五つ)。かな文字と漢字の併用。

(ホ)  宗教意識の基層としての神仏習合。『古今集』に代表される自然観・美意識。

の五点である。明治新政府はこれらの基本的国制を覆すためにわざわざ平安時代以前の神武創業までさかのぼって、復古的な国制をモデルとしたのだ。

 ではもう少し詳しく見ていこう。

 

 平安時代に確立されたという上記の国制より以前はどうだったのか?

たとえば、聖徳太子の「冠位十二階」や「十七条の憲法」はどのような経緯で導入されたのか?それには中国というよりも、先ず朝鮮の国制が我が国に影響を与えたのだと著者は指摘する。倭国の「冠位十二階」は高句麗の制度を取り入れたものだという。このような影響関係は倭国と朝鮮諸国の間だけに起こったことではなく、中国を中心にしてちょうど反対の位置にあった「吐蕃」と「吐谷渾(とよくこん)」の関係にそっくりだという。まず中国の制度を、地理的により近い「吐谷渾」が採り入れ、その後吐蕃が採用するという風に。実際倭国は、隋王朝が中国を統一するまで一世紀以上も国交を持たなかったが、朝鮮三国とは密な関係にあった。

 

 隋による中国統一、乙巳の変以後の大化の改新百済高句麗の滅亡、白村江での敗北、そして壬申の乱などを経て「倭」は「日本」へと国号をかえ、中央集権体制を築き上げ、律令国家を樹立する。中国の制度を移植した「律令制」は当時の日本にとっては現状と乖離したオーバースペックなものだったという。また中国は春秋・戦国時代に血縁共同体が解体されていたのに対して、日本にはそれがまだ色濃く残っており、導入された律令制と伝統的な氏族制の二階建てのような統治構造にならざるを得なかった。

 律令制は大量の行政書類を生み出すこととなり、それによって文字の使用が拡大されていく契機になった。また「大宝律令」の蔭位制では父子関係が重視され、子には「嫡子」も「養子」も共に含まれていた。養子は血縁関係のない子供でもよく、日本独自の「イエ制度」を生み出すことになった。(中国や朝鮮では、結婚しても母親の姓は変わらないし、同姓は結婚できない。また養子は同姓から取る。)

 

 平安京への遷都は新しい王朝の始まりにも等しい出来事だった。事実、天智系であった桓武天皇は、天武系の天皇が作った奈良の平城京を捨てた。そしてこれは珍しいことなのだが、「天神」を祭る郊祀を行った。中国では郊祀において「昊天上帝」と王朝の始祖(漢王朝ならば劉邦)を共に配祀するのだが、桓武は始祖として父の「光仁天皇」を配祀したのである。

 桓武天皇は、帝国の皇帝たるべく、蝦夷阿弖流為を征伐するために征夷大将軍を任命する。ちなみに、初代の征夷大将軍坂上田村麻呂ではなく、大伴弟麻呂である。

 桓武の子である嵯峨天皇淳和天皇に譲位したとき、嵯峨天皇は「太上天皇」の号をおくられた。また曾孫の清和天皇がわずか九歳で即位した時、自律的な天皇制が完成したと著者は言う。奈良時代ならば、女帝がワンポイントリリーフのように登場する所だが、皇位継承が安定してきたためその必要が無くなったからだ。幼帝の誕生は、それを補佐する摂政・関白という令外官を出現させる。平安前期に、院、摂政・関白、征夷大将軍などが出揃って、古典的国制が一応完成するのである。

 律令国家とは、他国との関係で言い直すならば、蕃夷を従える帝国である。朝鮮の三国(高句麗百済新羅)はそれぞれ中国に冊封されていたので律令は作れなかった。しかし日本は、隋・唐と使節や留学生を派遣しても冊封は受けなかった。したがって独自の律令も可能だったし、天皇が「姓」を持たないこともできたのである。

 そして九世紀中頃になると、かつては受け入れていた新羅の漂着者を追い返すようになった。古代あれほど活発だった朝鮮半島との交流も途絶えることになり、日本は狭い「大八洲」に閉ざされ、その外部はケガレた土地であると見做すようになってしまった。

 

 では、「国号・日本」はどのように生まれたのか?

  壬申の乱の際、大海人皇子は吉野から伊勢国に辿り着き、そこで天照大神に勝利を祈る。それに天照が応える。当時、この乱の勝敗は誰にも予想がつかないほどシビアなものだったらしい。兵に守られずに戦いに突入し、勝利を収めた大海人皇子は「神」と喩えられたそうだ。伊勢神宮から神風が吹いたと和歌に詠われもしている。天武は即位後、長らく廃止されていた斎宮を復活させた。壬申の乱における大海人皇子の勝利を機に、日本に沢山あった太陽神信仰の対象が、天照大神に集中することになる。伊勢神宮の地位が上昇し、皇位は「天つ日嗣」と観念されるようになる。もし、壬申の乱の勝者が大友だったら、国号は「日本」になっていなかったのではないかと著者は推察している(近江朝の人々には「日」よりもむしろ中国的な「天」の観念が強かったから)。

 「日本」とは王朝名である、と著者は言う。中国で言えば「秦」とか「漢」とか「唐」である。だから王朝が、皇帝の姓が替われば当然、王朝名も替わる。しかし日本ではそれが起こらなかった。壬申の乱桓武平安京遷都などは新しい王朝を開くという意気込みが当事者にはあったのあろうが、それが王朝名「日本」の変更にはつながらなかった。天皇に姓は無く易姓革命は起こらず、ときどきの権力者たちも旧来の国制を利用した。たまたま古典的国制が継続されたので、日本という王朝名がそのまま国号へと、なしくずしに移行していった。

 

 以上で二つの主要な論点をまとめた。ここからはそれ以外に気になった事をざっとメモしていく。

 

日本は、東アジアでも非常に早い段階で、奴隷(生口)を貨幣の様に使用していた。中国への朝貢品として、或は朝鮮半島で出る鉄への対価として生口が使われていた(他にパッとするものがなかったとも言えるが)。弥生時代が戦国時代と並ぶ戦乱の時代だったのは、生口を捕虜として得るためでなかったかと著者は述べている。

 

・「飛鳥は日本文化のふるさと」などと言われているが、雄略天皇の頃は住人のほとんどが渡来人だった。高松塚古墳の壁画も渡来人が描いた。

 

・日本語の助詞や助動詞を初めて表記したのは柿本人麻呂である。

 

伊勢神宮壬申の乱の時、そして桓武天皇が病気平癒を祈願し参拝した時、宇佐八幡宮大伴旅人が隼人征伐に成功した時、地位を上げた。

 

藤原仲麻呂儒教を、道鏡は仏教をそれぞれ自分の王権の基盤正当化に使った。

 

           長くなったのでここらへんで、《完》

好きな音楽  -アジア編③-

 

書こうか書くまいか迷ったが、一応(というか確実に)日本もアジアの一国なので、

日本編行きたいと思いまする!ここ最近、気に入って聴いているバンド紹介しまっす。

 

・日本

 

1.ハイスイノナサ

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もともと5人編成のバンドだったけれど、Voの鎌野愛 が2年前に脱退しどうなるのかなと思ってたら、なんと新たに4人加わって8人になった!!

この曲は特にそうだが、〈音〉がこれでもかというぐらい詰め込まれている。その音の塊の只中で、悠然と歌うVoの鎌野愛。この対比、コントラスト!

注目して欲しいのが、このバンドの中心人物、Gtの照井順政。

エレキでもアコギでもまるでクラシックギター弾くような右手の使い方!!

こんな弾き方する人、他で見たことないです(マークノップラーとも違うし)。

照井順政は、他にもsiraphというバンドや、アイドルグループsora tob sakanaの音楽プロデューサーもしてはります。次はそのsora tob sakanaのオケになる曲です。

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これで十分過ぎるくらいインストの曲として成立してると思うのですが、実際はこの上に歌詞が載ります。

 

2.Crimson

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Vo./Gt. 川中梢   Key. 福重まり   Dr.竪山弘樹

見て気づくかと思いますが、Keyを弾いてるのは「ゲスの極み乙女。」のちゃんMARIです。もともと彼女はこのバンドで上京してきたんです。たまたま参加したゲス極の人気が出たために、このバンドが中途半端な状態に・・・ちゃんMARIのツイッターのアカウント@mari_crimson にはそのCrimsonの名が残っている。

この曲すごく気に入ってて、なんかもったいないなと思ってるのは私だけじゃないと思います。

 

3.BimBamBoom 

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これはBimBamBoom が好きというより、Gt.の岡愛子が好きなんです。

もとBAND A でデビュー。なぜかファンクインストゥルメンタルバンドでギターを弾くことになったという(本人も意外だったそうだ)。去年末にsaxの前田サラが脱退して、現在は山口美代子、田中歩、Maryne、岡愛子の4人の新体制になっている。ギター弾きまくる岡愛子は何故かかっこいい。同郷の先輩・田渕ひさ子とはまた違った良さがある。頭を振るタイミングが普通のギタリストと逆になってると雑誌のインタビューで答えてて、それが原因なのか!と膝を打ちました。

また、俺的ポイントとしては、うだうだ系ボヤキDJ岡愛子も決して見逃す(聞き逃す)ことのできない存在である!!!

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 岡愛子、いい!かわいい!!かっこいい!!!

 

4.きのこ帝国

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これ、一番好きな曲!コード進行とかは簡単なんですが、疾走感・透明感・浮遊感などが一緒くたになって迫ってきます。

メンバーはVo/Gt.佐藤千亜妃  Gt.(世界の)あーちゃん Ba.谷口滋昭  Dr.西村"コン"大介

2015年11月にメジャーデビュー。これに関しては賛否両論あるみたい。たしかにインディーズ時代の轟音&重苦しい感じから脱魔術化されたような、爽やかな&かわゆい感じになった。でもこれからどうなるかわからない。また変化するかもしれない。そこに期待するのも悪くはないと思う。

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これインディーズ時代の曲。『春と修羅』歌詞が強烈!!

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これメジャーデビュー後の曲。やっぱ世界観が・・・

 

5.tricot

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tricotと書いて「トリコ」と読みます、決してトリコットじゃないよ!!!

たまにレンタルCD屋さんで「トリコット」って書いてありますが(笑)

メンバーはVo/Gt.中嶋イッキュウ Gt.キダ モティフォ Ba.ヒロミ・ヒロヒロ  Dr.吉田雄介

の四人組についこのあいだなったばかり。(『おやすみ』MVのドラムは前ドラマーkomaki♂氏)

ギターはリズム楽器だと言い張る"変態&天才"ギタリスト・キダ モティフォが曲の基になるコード進行を考え、その上に中嶋イッキュウ がメロディーと歌詞をつけるのが曲作りの基本らしい。変態ぶりが遺憾なく発揮された曲をいくつか。

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一応、マスロックに分類されることが多いですが、本人たちはロックだ!と言っています。ただ奇をてらって変拍子を使うなどというレベルじゃなくて、身体の底から自然と湧き上がってくるのがたまたま私たちには変拍子に聴こえる、という感じで音楽してるのがこのバンドの唯一無比さです。

憶えててくださいね、キダモティフォという名を!

   f:id:kurikakio2016:20180116220632p:plainキダモティフォ

 

これからの課題としては(そんな大げさな!)、中国のロックとか聴いてみたい。

ジャンルだけで好き嫌いは言えない。

好きなジャンルのバンドでもイマイチな時もあるし、

嫌いなジャンルでも、これは!というバンドもある。

地道に発掘するしかないよね!!

 

            

                   〈完〉

 

 

 

 

 

 

好きな音楽   ーアジア編②ー

・マレーシア 

1.Dirgahayu

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メンバーはGt,Afifi Rahim, もう一人のGt.Zulhezan Ba.Wan Azry  このPVでは2016年末に脱退したDrのSeikan Sawakiが叩いてます。名前でお分かりの様にこのドラマーさん中華系マレーシア人と日本人のハーフなんだそうです。パワフルなドラムで、バンドとしてはえらい損失でしょう。マレーシアではマーケットが小さく音楽だけで食べていける人はほとんどいないそうです。また警察がとても腐敗しててロックが目の敵にされてよく摘発されるそうです。

Dirgahayuのサウンドは展開が読めず、変化に富んでて一曲で何曲も聴いたようなお得感があります(笑)

 

2.Mutesite

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メンバーはGt.Anthony Lee  Key.Lee Jolyn  Dr.Purnama Magasuciのスリーピース、インストバンド。PVのBaは残念ながらサポートさんです…

バンド名"Mutesite"の由来は、歌詞がなく(mute)て、聴く人に自由に解釈する余地(site)を与えるためにこの名前になったそうです。

他民族国家マレーシアで身分的な差別を受けてきた自分達の体験を、演奏によって表現しているそうですが、まったくそんな感じはしません。とっても爽やかです。

 

・フィリピン

 Run Dorothy

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メンバーはVo.Dee Cruz  Gt1.Felix Basilio  Gt2.Bogs Del Rey  Ba.Ino Tiglao 

Dr.Jepoy Santosの5人組。マスロックだけれど小難しくなくて、とってもポップでキャッチー。なにしろボーカルのディー・クルーズがとてもかわいい。声もエモくてイイ感じ。メンバーの仲も良さそう。

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ライブの様子、ディーちゃんのアクションがおもしろい。

 

・韓国

1. Sweet Salt  〈달콤한 소금〉

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メンバーはVo.キムジョンア(김정아) Gt.等キムソンソン(김손손) 元々3人組だったが今はデュオになっている。曲名は『別れる5分前』。

 

2.Song Of Luna  〈송오브루나〉

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『壁』という曲。

メンバーはVo.チャイェジ(차예지) Gt.キムジョンベ(김정배) Ba.チェウンチャン (최은창)の3人組。現在活動してるのかよくわからない。SNSの更新も3年前からされてないし・・・ チャイェジのよく伸びる声がこの曲にとってもマッチしている。

 

3.Dear Cloud

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Vo.Nine  Gt.ヨンリン Ba.イラン Dr.トグン の4人組です。

Dear Cloudについては以前にも触れたので、どうしようかと思ったのですが是非この曲だけでも紹介したいと思います。

昨年末突然この世を去った、SHINeeのジョンヒョンが自分のインスタにあげた最後の画像がこの曲の歌詞でした。ジョンヒョンはFMでナインと一緒に「青い夜」という番組のコーナー「孤独氏クラブ」で共演していました。ナインがジョンヒョンから預かっていた遺書を公開したのが、テレビでも放送してました。信頼されてたんですねナイン。この曲歌う度に、思い出さざるをえないでしょう、そういう曲になってしまいました。

好きな音楽   ーアジア編①ー

 

昔から(たぶん日韓ワールドカップの頃)、K-popはよく聴いてました。

当時は、今と違って両国の関係はとても良かった。

それがほんの数年でこんなにも悪化するとは思いもしませんでした。

 

 しかし!!!

なんか最近若い人の間で第3次韓流ブームが起こってるらしく(紅白歌合戦にtwice出てましたね)、

この険悪なムード中での流行は今までにない、ふわふわしたものでなくて、

しっかりと根付いた足腰の強いものとなっていくかもしれません。

 

…というわけで(どういうわけや!)、それ以来韓国以外にもアジアのポピュラー音楽も聴くようになりました。

ここでは私が普段よく聴いているバンドを紹介します。

 

・台湾

 

1.大象體操  〈Elephant Gym〉

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メンバーはBassが張凱婷、Guitarが張凱翔、Drumsが涂嘉欽のインストスリーピースバンド。

張凱翔と張凱婷は兄妹だそうで、妹の張凱婷はスゴテクベース弾きにして、国立台湾大学卒の才女であります。男子二人が兵役で活動休止してましたが、2016年に復帰したようです。

 

2. 橙草 〈Orangegrass〉

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メンバーはVo,Guitarが克拉克(Klark),Bassが小藍、Drumsが鳥人のこちらもスリーピース。2004年に結成。4年くらい前に来日してましたね(多分)。

このPV、陳凱歌 の映画みたいでよくないですか?

台湾PVの歌詞字幕の文字小さすぎで老眼おっさんには見えません(笑)

 

3.輕晨電  〈morning call〉

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メンバーはVo隋玲,Gt劉以豪,Ba李孟書,Dr夏大開 2016年にKeyの小英が脱退して四人組。残念ながらバンドは現在、活動休止中。

劉以豪は俳優もやっており、台湾のRainとも呼ばれている。メンバー全員がカッコいい。私の一押しはBassの李孟書!名前だけ見てると三国志に出てくる将軍みたいですが、若かりし頃の甲田 益也子を彷彿させる短髪美人!

       f:id:kurikakio2016:20180115142657p:plain 李孟書  

 

・ 香港

 GDJYB  (雞蛋蒸肉餅)

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メンバーはVo.soft  Gt.soni  Ba.wing chan  Dr.heihei の4人組ガールズバンド。

本人たちは自分たちの音楽を「マス・フォーク(math folk)」と称している。

見た目の可愛らしさに反して、歌詞の内容は政治的。

中国本土の言論弾圧にも屈しない香港の若者を代弁しているようだ。

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日本では、〈tricot〉のレーベルである「BAKURETSU RECORDS」の姉妹レーベル「BAKURETSU INTERNATIONAL」からCDを出している。

ギターのsoniがtricotの「おちゃんせんすぅす」をコピーしてる動画。初めて見たときは GDJYBのメンバーとか何処の国の人かもなんにも知らんかったよ!

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 振り返ったsoniの眼に杉作J太郎はいったいどう映っているだろうか(笑)

     次回につづく・・・

 

 

『戦争の日本古代史』読んだ。ーヘイトの淵源ー㊦

3.〈任那を巡る攻防〉

 6世紀に入ると、これまで高句麗に従属していた新羅が独立して半島の覇権を奪取しようとしだす。新羅百済と同盟を結んで伽耶任那)に侵攻した。こまった伽耶諸国は倭に援けを求めた。倭は対新羅軍を派遣しようとしたが、新羅と通じていた九州の豪族・筑紫磐井がそれを妨害してしまった。磐井を退け半島に渡った倭軍であるが、新羅の軍勢の前に後退を余儀なくされた。そしてとうとう伽耶の心臓部だった金官国新羅によって滅ぼされてしまう。しかしこの時、新羅は降伏してきた金官国の王族を破格の待遇で受け入れた。後に新羅朝鮮半島を初めて統一するが、その時の将軍・金庾信は降伏した金官国王の曾孫なのである。532年の金官伽耶滅亡、そして562年残りの伽耶諸国も新羅によって滅ぼされてしまう。倭は〈任那復興〉を計画するがうまくいかない。すると新羅が自国の「調(みつき)」と任那の「調」を合わせて送って来た。倭から見れば、新羅朝貢してきたようにとれる、実際倭国はそう理解した。新羅から見ればその贈り物は、任那と倭とのかつての関係をこれからは新羅が継承するという意味で自国と任那の調を贈ってきたのだった。しかしこれもまた単なる贈り物をするという外交儀礼にとどまらない影響を二国間にもたらしてしまう。新羅にしてみれば、緊迫する国際情勢を有利に持っていくために、倭国に多少の物品を送ってもかまわないとでも思っていたのであろうが、倭国側から見れば、それは旧伽耶諸国が倭国に貢納品を納めるという「伝統」と認識したことであろう。そして、百済のみならず、新羅からも「調」が貢納されるという誤った国際感覚を醸成させてしまったのである。その終着点として作られたのが、神功皇后の「三韓征伐」説話となる。・・・」(P85)

 

4.〈百済滅亡と白村江の戦〉

  6世紀の終わり頃、589年に東アジアに大事件が起こる。隋による中国統一である。じつに後漢以来400年ぶりに中国が分裂時代に終止符を打ったのである。この出来事は東アジアの周辺諸国に甚大な影響を及ぼす。隋は国内統一に投入されていて、その後使いみちの無くなった軍隊を高句麗に進める。また高句麗百済から攻撃されていた新羅が隋から冊封を受ける。このような国際関係の変化にあって倭は、長らく中止していた中国との外交を再開し、一世紀ぶりに遣隋使を派遣することになった。しかし遣隋使はかつて倭の五王が受けていた冊封は求めなかった(もし求めていると百済新羅より下の官職を与えられるおそれがあったため)。倭国の支配者層は、冊封体制から独立した君主を戴くことを隋から認められることによって、すでに冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を主張し、「東夷の小帝国」にもつながる中華思想の構築をめざしたのである。この姿勢は、つぎの遣唐使以降にも受け継がれることになる。」(P97)

 そして7世紀がやって来る。百済義慈王は忠臣を遠ざけ佞臣を身近に置く典型的な暗君であり、高句麗の宝蔵王は臣下の淵蓋蘇文が立てた傀儡王にすぎなかった。まともな王は新羅の武烈王(金春秋)くらいだった。日本では、中央集権国家をめざす中大兄皇子中臣鎌足高句麗型の傀儡王を操る権臣による独裁政治をもくろむ蘇我氏を一掃して、大化の改新を遂行中であった。国際関係としては、高句麗百済(麗済同盟)+倭国 VS 唐&新羅 という図式が出来上がった。

 660年、唐は高句麗ではなく百済を、新羅との共同作戦によって挟撃しこれを滅ぼした。百済義慈王は捕らえられ、唐の都長安に送られる。第4次遣唐使として長安にいた日本人一行がこの光景を目撃している。

 百済滅亡の知らせが日本にも届く。しかしその後すぐ、百済の遺臣が国家復興のために挙兵しているという知らせも届いた。当時日本には義慈王の弟・豊璋が人質としていた。その帰還を日本に求めてきたのだ。斉明天皇は豊璋に護衛の軍をつけて百済へと送った。これが後に白村江での戦い、そして敗戦へと至る直接の第一歩であった。

 著者はこの派兵、および白村江の戦いにつながる一連の日本の動きについて、従来言われてきたように無謀な計画だったとは批判しない。むしろ勝算は、不確実な情報に基づいているが、ある程度あったと思って派兵したのだろうと擁護している。さらに穿って、この戦いに負けてもかまわない、いや負けた方が良いとさえ鋭敏な中大兄皇子は考えていたのではないかと推察している(中央集権化を進めるにあたって外敵の脅威を宣伝することが有用だし、派遣された軍も集権化にとって最大の障碍となる地方豪族の兵士たちだったから死んでくれた方が中央政府にとっては都合がいい)。

 663年、百済と倭軍は白村江で唐の海軍と戦って大敗してしまう。敗因について著者は、「かつて五世紀に高句麗に惨敗したという記憶の忘却を挙げたい。相手が強敵であり、これまでと同じやり方で戦争をおこなったのでは敗北するという、あたり前の認識を無意識的か意識的かはともかく、倭国の指導者は忘れていたのである。自己に都合のいい経験だけを記憶し、都合の悪い経験は忘却するという、人間が誰しも陥りがちな思考回路に、今回もまんまと嵌ってしまったということになる。(P152)

 

 この「白村江の戦」という古代の戦争。日本人なら誰しも知っている歴史的知識だろう(たぶん)。しかしこの戦い、意外にも!?戦場となった韓国ではほとんど知られていないそうだ。古代史を専攻する大学生がやっと知ることになる事実らしい。現代の韓国にとって歴史の主流はあくまで新羅⇒高麗⇒朝鮮であって、百済は単なる一地方政権にすぎないのだ。

 

5.〈感想とまとめ〉

 正直いって白村江の戦自体には興味はあんまりない。現在の嫌韓の起源をできるだけ遡りたいと思って、たまたま古代と題名のついたこの本を手にした。読んだら僥倖にして求めていた知識が散見されたのでまとめてみようと思って書いてみた。まとめながら思ったのだが、朝鮮蔑視の起源って、ひょっとしたら亡命してきた百済人にあるのじゃないか?と。百済人にとって新羅は祖国を滅ぼした天下の悪人国家だろう。それに対する呪詛が、日本書紀の記述をくるわせた。勿論、任那を失った倭国新羅を憎んだであろうが、その憎悪を何倍にも増幅したのが百済人の末裔たちだったのではないか?その憎悪は、新羅という特定の王朝に対するもので、朝鮮半島全体にたいするものではなかった。しかし、(不幸にも?)新羅が朝鮮を統一したため、新羅=朝鮮全体とすり替えが起こって、以来日本人も朝鮮を敵視・蔑視する傾向をもつようになったのではないかと…。あくまで、素人の思いつきなので、お許しを。

 

 まとめ 朝鮮の支配権を主張するに至るまでの道筋

高句麗との最初の戦いにおいて、朝鮮南部で軍事指揮権を発動した。

・中国の南朝の皇帝に、新羅などに対する軍事指揮権を認めてもらった。

新羅が、倭に「調」を貢納してきた。

・倭は、冊封体制の外にあって、朝鮮の諸王よりも格上だと考えていた。

 

                  〈完〉

『戦争の日本古代史』読んだ。ーヘイトの淵源ー㊤

 

講談社現代新書『戦争の日本古代史』(著・倉本一宏)読みました。

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昨今、日本で問題となっているヘイトスピーチ

差別は以前から確実に存在した。ただそれは一応潜在的なもので、人前で公然と顔を晒して大声でやる者はいなかった。それがここ10年位で風向きが激変した。

これまで自他共に認めるアジアナンバーワンの座に君臨してきた日本だが、その座が危うくなって(或は転落して)、礼節を顧みる余裕がなくなり、露悪趣味丸出しの本音共同体のなかで互いの傷をなめ合って小さくまとまろうとしているのだろうか?

 

なぜ日本は、日本人(の一部)はこんなゲスになってしまったのか?

それを知りたくて、この本を読んだ。

問題は近代だけにあるのではない!その根はもっと深い。

ヘイトの淵源を、滔々と流れる朝鮮蔑視という大河の最初の一滴目を確認したかった!!    (少々オーバーか?)

 

この本は、前半の三分の二が白村江の戦に至る古代の対外戦争について書かれて、残りの三分の一が中世・近世の対外戦争について触れられているのだが、このブログでは白村江の戦までについてまとめていきたい。

 

 1.〈七支刀と広開土王の碑文〉

奈良県天理市にある石上神宮「七支刀」というものがある。

この変わった形の剣は百済から倭に贈られたものと言われている。この剣には文字が象嵌されており、そこに刻まれた年号こそ日本最古の絶対年代を示すものなのだという。著者は「泰和四年」説を採っており、それは西暦になおすと369年となる。四世紀の半ばである。

では、一体なぜこれが贈られてきたのか?

  当時、百済は南下してくる高句麗と激しい戦闘を繰り広げていた。七支刀を日本に贈ったとされる近肖古王の在位中、百済は最盛期を迎え、最大の領土を持つようになる。しかし近肖古王亡き後、百済は後退を強いられることになってしまう。そんな中391年、高句麗好太王(広開土王)が即位する。百済に奪われた失地を回復するため高句麗は再び南下し始める。一方、新羅は人質を差しだし高句麗に従属する。高句麗新羅に挟まれた百済が目をつけたのが「倭国」である。百済倭国に軍事支援を求める。その証が372年に贈られた七支刀なのだと著者は言う。また外交などと言ううものを全く知らない倭国は簡単に東アジアの揉め事のなかに首を突っ込んでしまうことになる。

 倭国は391年海を渡り新羅に攻め込む。攻め込まれた新羅高句麗に援助を要請する。要請に応えて高句麗は軍を派遣、ついに倭国は本格的な対外戦争へと踏み出してしまう。かの有名な広開土王の碑文によると、400年新羅伽耶戦線で、404年帯方界戦線でいづれも倭国が大敗したと伝えている。

 高句麗に負けた倭国。それもそのはずで倭国の人々はその戦いで初めて騎兵というものを見たのだという。騎兵は強力で一騎で歩兵数十人に相当する戦力になるらしい。倭国の内戦では歩兵同士の戦いであった、それに当時の日本に人が乗る用の馬は存在しなかった。騎兵に衝撃を受けた倭人たちは「馬」の事を「駒」と呼ぶようになった。もちろんその「駒」とは「高麗(高句麗)」からきている。

 しかしこの高句麗との戦争が、現在まで続く朝鮮観を作らせてしまった。例え負けたとしても百済(そして伽耶)と軍事協定を結び、一時的であれ新羅の首都を攻め朝鮮半島の南部に軍事的影響力を持ったという事が、この後も半島における倭国の支配権を執拗に主張する根拠となった、と著者は言う。またこの戦争によって、負かされた高句麗よりも、態度が曖昧だった新羅により強い敵国意識を持つようになった。

 このあたりの反応は、高句麗が強すぎるので、弱い新羅に八つ当たりして自尊心を保とうとしているようにみえてしまう。倭国ちっさいなぁ、とも思うが、それだけではないような気がする。最初の正史『日本書紀』が書かれたのは8世紀の始めごろ。つまりその時には百済高句麗伽耶も存在しない。滅亡した百済の遺民たちが日本に沢山亡命してきており、その一部の人々が日本の朝廷で活躍していた。日本書紀の編纂に関わった百済人もいたであろう。その亡国の元百済人たちが〈歴史書〉という形で自分たちの怨嗟を晴らそうとしたのかもしれない、と思ったりもする。

 

2.〈倭の五王冊封体制

 五世紀初頭、中国の華北五胡十六国時代の分裂から北魏が統一王朝を建てる。一方の南朝では、東晋から禅譲を受けた宋王朝が開かれていた。この時代、倭国の五人の大王は、南朝朝貢して皇帝から冊封を受けていた。421年、五王の一人目「讃」が入貢したとき、なんと大王が姓を名乗っているだ!大王家は国内においては「姓」を与える存在であって、自らは「姓」を名乗る存在ではない。その大王が「倭」姓を名乗っている!これは外交上「姓」がないのは具合が悪いからである。何故なら、他の朝貢国の王も(百済は扶余氏)、また中国の皇帝も皆「姓」を持っており、姓を持たないのものは「賎民」と見做すのが東アジアの当時の常識であり、それに合わせて姓「倭」と称したのだという。

 倭の五王はそれぞれ、南朝の皇帝から爵位と官職をもらっている。大体、倭国王・使持節都督 倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓6国の諸軍事・安東(大)将軍に叙せられている(百済が入ってないことに注意!)。百済は先に冊封されており、倭国の軍事指揮権は認められていないのに対し、中国に朝貢していなかった新羅のそれは認められている。これも後に日本の対朝鮮観に重大な影響をもたらすことになる。百済が滅亡し、新羅朝鮮半島を統一した時、新羅に対する軍事指揮権が中国皇帝によって日本に認められていたということで、朝鮮全体が日本の支配下にあると主張する根拠になったのだ!

 

                次回につづく・・・