~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

『戦争の日本古代史』読んだ。ーヘイトの淵源ー㊦

3.〈任那を巡る攻防〉

 6世紀に入ると、これまで高句麗に従属していた新羅が独立して半島の覇権を奪取しようとしだす。新羅百済と同盟を結んで伽耶任那)に侵攻した。こまった伽耶諸国は倭に援けを求めた。倭は対新羅軍を派遣しようとしたが、新羅と通じていた九州の豪族・筑紫磐井がそれを妨害してしまった。磐井を退け半島に渡った倭軍であるが、新羅の軍勢の前に後退を余儀なくされた。そしてとうとう伽耶の心臓部だった金官国新羅によって滅ぼされてしまう。しかしこの時、新羅は降伏してきた金官国の王族を破格の待遇で受け入れた。後に新羅朝鮮半島を初めて統一するが、その時の将軍・金庾信は降伏した金官国王の曾孫なのである。532年の金官伽耶滅亡、そして562年残りの伽耶諸国も新羅によって滅ぼされてしまう。倭は〈任那復興〉を計画するがうまくいかない。すると新羅が自国の「調(みつき)」と任那の「調」を合わせて送って来た。倭から見れば、新羅朝貢してきたようにとれる、実際倭国はそう理解した。新羅から見ればその贈り物は、任那と倭とのかつての関係をこれからは新羅が継承するという意味で自国と任那の調を贈ってきたのだった。しかしこれもまた単なる贈り物をするという外交儀礼にとどまらない影響を二国間にもたらしてしまう。新羅にしてみれば、緊迫する国際情勢を有利に持っていくために、倭国に多少の物品を送ってもかまわないとでも思っていたのであろうが、倭国側から見れば、それは旧伽耶諸国が倭国に貢納品を納めるという「伝統」と認識したことであろう。そして、百済のみならず、新羅からも「調」が貢納されるという誤った国際感覚を醸成させてしまったのである。その終着点として作られたのが、神功皇后の「三韓征伐」説話となる。・・・」(P85)

 

4.〈百済滅亡と白村江の戦〉

  6世紀の終わり頃、589年に東アジアに大事件が起こる。隋による中国統一である。じつに後漢以来400年ぶりに中国が分裂時代に終止符を打ったのである。この出来事は東アジアの周辺諸国に甚大な影響を及ぼす。隋は国内統一に投入されていて、その後使いみちの無くなった軍隊を高句麗に進める。また高句麗百済から攻撃されていた新羅が隋から冊封を受ける。このような国際関係の変化にあって倭は、長らく中止していた中国との外交を再開し、一世紀ぶりに遣隋使を派遣することになった。しかし遣隋使はかつて倭の五王が受けていた冊封は求めなかった(もし求めていると百済新羅より下の官職を与えられるおそれがあったため)。倭国の支配者層は、冊封体制から独立した君主を戴くことを隋から認められることによって、すでに冊封を受けている朝鮮諸国に対する優位性を主張し、「東夷の小帝国」にもつながる中華思想の構築をめざしたのである。この姿勢は、つぎの遣唐使以降にも受け継がれることになる。」(P97)

 そして7世紀がやって来る。百済義慈王は忠臣を遠ざけ佞臣を身近に置く典型的な暗君であり、高句麗の宝蔵王は臣下の淵蓋蘇文が立てた傀儡王にすぎなかった。まともな王は新羅の武烈王(金春秋)くらいだった。日本では、中央集権国家をめざす中大兄皇子中臣鎌足高句麗型の傀儡王を操る権臣による独裁政治をもくろむ蘇我氏を一掃して、大化の改新を遂行中であった。国際関係としては、高句麗百済(麗済同盟)+倭国 VS 唐&新羅 という図式が出来上がった。

 660年、唐は高句麗ではなく百済を、新羅との共同作戦によって挟撃しこれを滅ぼした。百済義慈王は捕らえられ、唐の都長安に送られる。第4次遣唐使として長安にいた日本人一行がこの光景を目撃している。

 百済滅亡の知らせが日本にも届く。しかしその後すぐ、百済の遺臣が国家復興のために挙兵しているという知らせも届いた。当時日本には義慈王の弟・豊璋が人質としていた。その帰還を日本に求めてきたのだ。斉明天皇は豊璋に護衛の軍をつけて百済へと送った。これが後に白村江での戦い、そして敗戦へと至る直接の第一歩であった。

 著者はこの派兵、および白村江の戦いにつながる一連の日本の動きについて、従来言われてきたように無謀な計画だったとは批判しない。むしろ勝算は、不確実な情報に基づいているが、ある程度あったと思って派兵したのだろうと擁護している。さらに穿って、この戦いに負けてもかまわない、いや負けた方が良いとさえ鋭敏な中大兄皇子は考えていたのではないかと推察している(中央集権化を進めるにあたって外敵の脅威を宣伝することが有用だし、派遣された軍も集権化にとって最大の障碍となる地方豪族の兵士たちだったから死んでくれた方が中央政府にとっては都合がいい)。

 663年、百済と倭軍は白村江で唐の海軍と戦って大敗してしまう。敗因について著者は、「かつて五世紀に高句麗に惨敗したという記憶の忘却を挙げたい。相手が強敵であり、これまでと同じやり方で戦争をおこなったのでは敗北するという、あたり前の認識を無意識的か意識的かはともかく、倭国の指導者は忘れていたのである。自己に都合のいい経験だけを記憶し、都合の悪い経験は忘却するという、人間が誰しも陥りがちな思考回路に、今回もまんまと嵌ってしまったということになる。(P152)

 

 この「白村江の戦」という古代の戦争。日本人なら誰しも知っている歴史的知識だろう(たぶん)。しかしこの戦い、意外にも!?戦場となった韓国ではほとんど知られていないそうだ。古代史を専攻する大学生がやっと知ることになる事実らしい。現代の韓国にとって歴史の主流はあくまで新羅⇒高麗⇒朝鮮であって、百済は単なる一地方政権にすぎないのだ。

 

5.〈感想とまとめ〉

 正直いって白村江の戦自体には興味はあんまりない。現在の嫌韓の起源をできるだけ遡りたいと思って、たまたま古代と題名のついたこの本を手にした。読んだら僥倖にして求めていた知識が散見されたのでまとめてみようと思って書いてみた。まとめながら思ったのだが、朝鮮蔑視の起源って、ひょっとしたら亡命してきた百済人にあるのじゃないか?と。百済人にとって新羅は祖国を滅ぼした天下の悪人国家だろう。それに対する呪詛が、日本書紀の記述をくるわせた。勿論、任那を失った倭国新羅を憎んだであろうが、その憎悪を何倍にも増幅したのが百済人の末裔たちだったのではないか?その憎悪は、新羅という特定の王朝に対するもので、朝鮮半島全体にたいするものではなかった。しかし、(不幸にも?)新羅が朝鮮を統一したため、新羅=朝鮮全体とすり替えが起こって、以来日本人も朝鮮を敵視・蔑視する傾向をもつようになったのではないかと…。あくまで、素人の思いつきなので、お許しを。

 

 まとめ 朝鮮の支配権を主張するに至るまでの道筋

高句麗との最初の戦いにおいて、朝鮮南部で軍事指揮権を発動した。

・中国の南朝の皇帝に、新羅などに対する軍事指揮権を認めてもらった。

新羅が、倭に「調」を貢納してきた。

・倭は、冊封体制の外にあって、朝鮮の諸王よりも格上だと考えていた。

 

                  〈完〉

『戦争の日本古代史』読んだ。ーヘイトの淵源ー㊤

 

講談社現代新書『戦争の日本古代史』(著・倉本一宏)読みました。

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昨今、日本で問題となっているヘイトスピーチ

差別は以前から確実に存在した。ただそれは一応潜在的なもので、人前で公然と顔を晒して大声でやる者はいなかった。それがここ10年位で風向きが激変した。

これまで自他共に認めるアジアナンバーワンの座に君臨してきた日本だが、その座が危うくなって(或は転落して)、礼節を顧みる余裕がなくなり、露悪趣味丸出しの本音共同体のなかで互いの傷をなめ合って小さくまとまろうとしているのだろうか?

 

なぜ日本は、日本人(の一部)はこんなゲスになってしまったのか?

それを知りたくて、この本を読んだ。

問題は近代だけにあるのではない!その根はもっと深い。

ヘイトの淵源を、滔々と流れる朝鮮蔑視という大河の最初の一滴目を確認したかった!!    (少々オーバーか?)

 

この本は、前半の三分の二が白村江の戦に至る古代の対外戦争について書かれて、残りの三分の一が中世・近世の対外戦争について触れられているのだが、このブログでは白村江の戦までについてまとめていきたい。

 

 1.〈七支刀と広開土王の碑文〉

奈良県天理市にある石上神宮「七支刀」というものがある。

この変わった形の剣は百済から倭に贈られたものと言われている。この剣には文字が象嵌されており、そこに刻まれた年号こそ日本最古の絶対年代を示すものなのだという。著者は「泰和四年」説を採っており、それは西暦になおすと369年となる。四世紀の半ばである。

では、一体なぜこれが贈られてきたのか?

  当時、百済は南下してくる高句麗と激しい戦闘を繰り広げていた。七支刀を日本に贈ったとされる近肖古王の在位中、百済は最盛期を迎え、最大の領土を持つようになる。しかし近肖古王亡き後、百済は後退を強いられることになってしまう。そんな中391年、高句麗好太王(広開土王)が即位する。百済に奪われた失地を回復するため高句麗は再び南下し始める。一方、新羅は人質を差しだし高句麗に従属する。高句麗新羅に挟まれた百済が目をつけたのが「倭国」である。百済倭国に軍事支援を求める。その証が372年に贈られた七支刀なのだと著者は言う。また外交などと言ううものを全く知らない倭国は簡単に東アジアの揉め事のなかに首を突っ込んでしまうことになる。

 倭国は391年海を渡り新羅に攻め込む。攻め込まれた新羅高句麗に援助を要請する。要請に応えて高句麗は軍を派遣、ついに倭国は本格的な対外戦争へと踏み出してしまう。かの有名な広開土王の碑文によると、400年新羅伽耶戦線で、404年帯方界戦線でいづれも倭国が大敗したと伝えている。

 高句麗に負けた倭国。それもそのはずで倭国の人々はその戦いで初めて騎兵というものを見たのだという。騎兵は強力で一騎で歩兵数十人に相当する戦力になるらしい。倭国の内戦では歩兵同士の戦いであった、それに当時の日本に人が乗る用の馬は存在しなかった。騎兵に衝撃を受けた倭人たちは「馬」の事を「駒」と呼ぶようになった。もちろんその「駒」とは「高麗(高句麗)」からきている。

 しかしこの高句麗との戦争が、現在まで続く朝鮮観を作らせてしまった。例え負けたとしても百済(そして伽耶)と軍事協定を結び、一時的であれ新羅の首都を攻め朝鮮半島の南部に軍事的影響力を持ったという事が、この後も半島における倭国の支配権を執拗に主張する根拠となった、と著者は言う。またこの戦争によって、負かされた高句麗よりも、態度が曖昧だった新羅により強い敵国意識を持つようになった。

 このあたりの反応は、高句麗が強すぎるので、弱い新羅に八つ当たりして自尊心を保とうとしているようにみえてしまう。倭国ちっさいなぁ、とも思うが、それだけではないような気がする。最初の正史『日本書紀』が書かれたのは8世紀の始めごろ。つまりその時には百済高句麗伽耶も存在しない。滅亡した百済の遺民たちが日本に沢山亡命してきており、その一部の人々が日本の朝廷で活躍していた。日本書紀の編纂に関わった百済人もいたであろう。その亡国の元百済人たちが〈歴史書〉という形で自分たちの怨嗟を晴らそうとしたのかもしれない、と思ったりもする。

 

2.〈倭の五王冊封体制

 五世紀初頭、中国の華北五胡十六国時代の分裂から北魏が統一王朝を建てる。一方の南朝では、東晋から禅譲を受けた宋王朝が開かれていた。この時代、倭国の五人の大王は、南朝朝貢して皇帝から冊封を受けていた。421年、五王の一人目「讃」が入貢したとき、なんと大王が姓を名乗っているだ!大王家は国内においては「姓」を与える存在であって、自らは「姓」を名乗る存在ではない。その大王が「倭」姓を名乗っている!これは外交上「姓」がないのは具合が悪いからである。何故なら、他の朝貢国の王も(百済は扶余氏)、また中国の皇帝も皆「姓」を持っており、姓を持たないのものは「賎民」と見做すのが東アジアの当時の常識であり、それに合わせて姓「倭」と称したのだという。

 倭の五王はそれぞれ、南朝の皇帝から爵位と官職をもらっている。大体、倭国王・使持節都督 倭・新羅任那加羅・秦韓・慕韓6国の諸軍事・安東(大)将軍に叙せられている(百済が入ってないことに注意!)。百済は先に冊封されており、倭国の軍事指揮権は認められていないのに対し、中国に朝貢していなかった新羅のそれは認められている。これも後に日本の対朝鮮観に重大な影響をもたらすことになる。百済が滅亡し、新羅朝鮮半島を統一した時、新羅に対する軍事指揮権が中国皇帝によって日本に認められていたということで、朝鮮全体が日本の支配下にあると主張する根拠になったのだ!

 

                次回につづく・・・

              

 

来年の抱負などなど

 

実は『戦争の古代史』(講談社現代新書)のレビュー書こうと思ったんですが、食あたりにあってしまい、体力的にしんどいのでレビューは来年に譲って2018年の抱負などサラッと書きたいと思います。

 

『戦争の古代史』もそうなんですが、来年は日本・韓国・中国などの東アジア関係について色々な角度から考えていきたいと思います。多分皆さんもうっすら思っているかもしれませんが、来年は東アジアで何か歴史的な転換点となる出来事が起こりそうな気がします。その出来事を権力者や学識者の誘導からフリーに見れるようにしたいと。

 その一つのカギになるのが今年も何冊か触れた《儒教》だと思います。もちろん他にもあると思います。どれだけ時間の猶予があるか分かりませんが、とりあえずそのつもりです。

 

あと、もう一つあってこちらの方は未だはっきりとはしてないんですが、「住まう」ことと「移動する」という事について考えてみたい。Bライファーの方のブログとか拝見してると、住んでいる「小屋」自体がというより、その小屋が何処にあるのか?小屋を取り巻く環境の方が重要なんじゃないかと思ったからです。ほかにもいくつか発想のフックはあるのですが、単なる思いつきで終わるかもしれません。

 

出来るだけ更新の回数を増やしたいとも思ってるので、暇なときにでも読んでやってださい。

           

             では、良い御年を!!!

 

 

 

 

おちゅーんLive!『烈戦ピン下一武道会』観てきた!!!

たびたび当ブログでも取り上げている配信番組『おちゅーんLive!』

その公開収録《烈戦ピン下一武道会》を大阪・肥後橋にあるアワーズルームにて観てきました。

ピン下一・・・?

イベントが行われたのは、11月11日。

そうポッキーの日、否、否、否、ピン芸人の日じゃありませんか!!

ということで、竹内義和アニキの主催するアワーズルームにおいて、絶対全国放送では見れない濃ゆ~いメンツを集めて、夜9時半という年寄だったお眠であろう結構深い時刻から熱戦の火ぶたが切って落とされたのです!!

出場者は、事前に発表されていた8名、松原タニシ彩羽真矢代走みつくに、ハクション中西、にしね・ザ・タイガー、河邑ミク、ベルサイユ、セキモトブリキ

そしてシークレットゲスト1名の合計9名で、ピン芸人のメンツをかけた(ちっちゃい)天下分け目の決戦が今始まる!!!

 

1回戦 

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対戦相手を決める抽選が終わった直後、この日発表となるシークレットゲストが会場に到着!!

誰だ?誰やねん??シークレットゲストって??

ひょっとして、現役最高齢アイドル「プリンセスやすこ」さん?(開場待ちで皆と喋ってて全然シークレットじゃないけどwww)

するとデカすぎるMC(推定185㎝)の高島麻利央さんから、信じられないサプライズ!!!

「帰って来た狂気のトラウマ姉さんを刮目せよ!!十三生まれ地獄育ちBugって花井!!」 wow~WOW~!! ウォ~!!!

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   Bug姉こと、Bugって花井さん登場! 疾風のように、アオザメの如く、通路側に座っていた私の傍らを通り過ぎてステージへと!!

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で、いざ対決へ!!

トップバッターは、邑ミクちゃん!松竹芸能所属のピン芸さん。最近は俳優もされており、NHKの朝ドラ『わろてんか』にも出演中。可愛いだけではない、現在開催中の女芸人NO.1を決める「THE-W」予選突破し、準決勝に進出するなど最近メキメキっと腕も上げてきている。

f:id:kurikakio2016:20171112144511p:plain河邑(かわむら)ミク

ネタは、「ジュエリー店の店員と客」

このネタで笑いを取るには、演技力が必須。以前は素人っぽさが初々しかったミクちゃんが、いつのまにこんな演技力を身に着けていたとは!!あと、間の取り方もとても上手でした。びっくりです!

対するは「孤高の天才ピン芸人 ハクション中西」さん。

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元吉本所属で、現在はフリーで活動してはります。自称「38年間実家住みます芸人」www

ネタは「テレビのマニュアルVTR」 マニュアル文化へのアイロニーと、シュールとキレ芸を融合させた複雑で多面的な構成。いつもネットでみる時よりも、すごくノリがよかったように思う。やっぱりお客さんの(ポジティブな)反応を前にした方が、やりやすいのかもしれません。なおハクション中西さんは小説も書いておられて、こちらの方もおもろいです。

営業電話の達人への道(ハクション中西) - カクヨム

 Aブロック最後は、ベルサイユさん。

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彼女も松竹芸能の女芸人さん。つい最近30歳になったばかりとは思えないほど妖艶な雰囲気漂わせはります。ものまねも結構やられていて、研ナオコオアシズ大久保佳代子さん等どれもクオリティ高いです。個人的にはトランプみつくにさんとのコラボのメヤニガトランプが好きですけど(笑)

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ネタは「京都祇園のクラブにて懸命に働くも預けてきた子供のことが気になって仕方がない母の背中の美しさ」って長いな!

場末のホステス感満載の一人芝居と昭和歌謡の合体!!

オチの「スーパー玉出」は笑いました。スーパー玉出がわからないひとは是非ググってたもれ。

 

結果は、河邑ミク0票、ハクション中西3票、ベルサイユ4票で2回戦進出!

 

さて次はBブロック1回戦

まずは、浪速が生んだ究極のギャグマシーン・代走みつくに!!!

この名前、知らない方がいるなら是非憶えておいて欲しい芸人さんです。俺的にイチ押し、今から十年以上前初めて観た時から三半規管に甘じょっぱい衝撃を受けた方です。

ギャグ、ギャグ、ギャグ、そしてギャグ。息つく間もないギャグの機関銃連射(たまに空砲も)。ギャグとギャグとのブリッジが又、ギャグ。そしてお決まりのフレーズ「なんのこっちゃね~」。この一言で全てが弛緩し、浄化され、異化される。誰がこんなすごい言葉考えたんや?

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ネタは、説明不要。動画見てもらった方が早い!!

 

そして次は、このおちゅーんLiveのメインMCである松原タニシさん。

最近は、事故物件ブームというものが静かに巻き起こっているが、その第一人者がこのタニシさんだろう。実際、大阪と千葉の2軒事故物件に住んでいる。また怪談師として全国を巡ってもいる、というかそっちの仕事がメイン!?のような状態。だからお笑い芸人としての舞台は貴重なのだ!!

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 ネタはめくり芸で「哲学」。僕も哲学ずっと勉強してたんで嫌いではないです。

後からじっくり見直すとよく出来ているなあと思わされます(ぬるま湯に満足している所属事務所の芸人への批判とか)が、その遅効性ゆえ、R-1とかのコンテストで上に行くのは、まず審査員の頭の中をパラダイムシフトさせる必要があるでしょう。怪談とお笑いという正反対なものを、一身で実現しようとする前代未聞の芸人さんです。

 

ラストは、おちゅーん初登場の「セキモトブリキ」さん。

正直言って、私もこのステージ観るまで全然知らなかったです。ブリキさんは、吉本興業松竹芸能ではない、第三の勢力「スパンキープロダクション」所属の芸人さん。大阪のお笑いは、なにも吉本だけじゃないんだ!他にもいろいろあるんだぞ、ということを知ってもらいたいですね。

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どうですか?この面構え!まるで樫木の一刀彫のような力強さ!!!NHK人形劇の操り人形かと思ってしまった。一度見たら忘れられない、夢に出てきそうなインパクト!

ネタは「応援団歌」。かっ飛ばせ門田のフレーズでは何故か、猫ひろしの「らっせーらー」を思い起さずにはいられませんでした(俺だけ?)

 

結果は、代走みつくに4票、松原タニシ3票、セキモトブリキ0票で代走さん2回戦進出!

 

そして最後のCブロック

まず、松原タニシさんが好きすぎて、自分がタニシになりたいと思っている元ひきこもり芸人「にしね・ザ・タイガー」さん。イベント前の日にテレビ番組「桃色つるべ」が放送されてて鶴瓶さんにもたもたするなや~と愛のムチを受けてはりました。

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いつもはタイガースのユニホームですが、今日はベイスターズのユニホーム姿。

ネタも「横浜ベイスターズに関するエピソード」を音楽に合わせてフリップめくる、めくり芸を披露。レスカーノは覚えてたけど、マラベは覚えてないな。野球に関するマニヤックすぎる知識を持つ芸人さん。あと、おでこでピアニカ弾く芸も!!

 

2人目は、元宝塚歌劇団男役の彩羽真矢(あやはねまや)さん、通称チャミさん。

おちゅーんでは、タニシさんと「薔薇とノンフィクション」というコンビを組んでM-1予選に出場、唯一3回戦まで残った強者。舞台上でのあの落ち着き、堂々とした立ち居振る舞い、さすが宝塚出身者!!しかしあの笑いのセンスは一体何処から?

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この衣装、この化粧(いつもより薄め)反則です!出オチかとおもいきやネタもおもしろい。ネタは「ショートコント・オスカルカフェ」。チャミさん、お笑いのネタはどうやって考えているのでしょうか?本人が書いているのだとしたらスゴイです。

開場10分前に楽屋入り、きれいなすらっとした女の人が階段上がって来るな、と思ってたらそれが彩羽さんでした。友達みたいに気さくに話しかけてくれました。

 

Cブロック最後は、シークレットゲストって、元レギュラーですよ、おかえりなさいですよ。Bugって花井さんは声優さん。そしてメガマウスという鮫をこよなく愛するメガマウスアイドル。それからネットラジオファミコン名人の教え(仮)』を相棒のファミコンキッドさんと10年以上やってはります。

第12期2-3「ありがとうベイスターズ!」: ファミコン名人の教え(仮)

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ネタは「ゲーム売りの少女」。このネタ、個人的に好きなんですよね~、特に「ACアダプター、温かい・・・」の所、絶対笑ってしまう。なんか以前見た時よりも演技が濃ゆくなってるような(笑)

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結果は、にしね・ザ・タイガー3票、彩羽真矢1票、Bugって花井3票で、にしねさん、花井さん同票で客席判定にもつれ込むも、それでも決着つかず、結局審査委員長竹内アニキの裁定でにしねさんが2回戦進出! ついでワイルドカードでハクション中西さんが選ばれ、次の組み合わせに!

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準決勝・決勝は動画を観てもらいましょう。

その方が早いし、何しろおもしろい!

とりわけ、代走みつくにさんのはじけっぷりは素晴らしかったです。

3回もネタ観れて幸せでした。

みつくにさんのネタって、自分を卑下・自嘲したり、誰かを傷つけるわけでもなく、ただ純粋な面白味で成り立ってる、そこが痛快で、笑うことそれ自身を楽しめる唯一無比な芸人さんだと思うのです。本人はいろいろ苦労されているとは思いますが、芸を観てるとそんな感じは微塵も感じません。ということで、初代ピン下一武道会の優勝者は代走みつくにさんに決まりました。納得の結果です、本当に喜んでいた代走さんがかわゆかったです。

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優勝決定の瞬間・感極まる〈代走みつくに氏〉!

 

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初代王者を囲んでの記念撮影 (ハクション中西の顔よ!)

 

 この回のおちゅーんLiveのアーカイブ

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 おちゅーん 

楽しいよ~、

おもろいよ~           

          〈終わり〉

 

 

 

『儒教と中国ー「二千年の正統思想」の起源』読んだー㊦ー

 ・〈魏の正統性と鄭玄〉

新たに出現した「名士」たち。貧しい出身であっても人物が評価されれば「名士」になれ、その評価を基に行く行くは貴族にもなれるという道が開けた。それは当然、社会に流動性を生み出す。豪族たちは経済力ではなく、学問を修めさまざな文化を身に着けようとした。

 党錮の禁によって、出世から遠ざけられた人々が見出した人物評価という新たな価値基準によって形成された「名士」。彼らはまた、混乱した時勢の中で政策を論じる人々でもあった。

 後漢末から三国時代に、頭角を現した曹操は名士である荀彧や彼の出身母体である潁川の名士たちを自分の軍団に引き入れ、勢力の拡大を図り、官渡の戦いに勝利して華北を制圧した。当初曹操は名士たちと共同歩調をとっていた。しかし、漢を倒し自らの王朝を建てようと野望した時、この名士たちが君主権力の拡大の障害になった。「儒教的価値の優越性を梃子に文化的諸価値を専有する名士に対抗するためには、新たな文化的価値を創出し、名士のそれを相対化するか、すべての価値を君主権力に収斂する必要があった。」

 曹操が見出した新たな価値とは何か?    それは《文学》だったのである!!

そして曹操は文学を基準に人事を行うことにする。文才さえあれば、不道徳な人物でも登用するというものであり、明らかに漢時代の儒教的な発想から意図的に離れようとするものであった。あわてて軍人たちも慣れない詩を作ったりもした。この時代の儒教の呪縛から解き放たれた文学を建安文学と呼び、曹一族の曹操曹丕曹植の三人と孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀ら七人をあわせて建安の三曹七子と総称する。

 曹操の長子・曹丕は、後漢献帝から禅譲を受けて皇帝になった。ついでに先走っていうと、魏の後の西晋への交替も曹奐から司馬炎への禅譲という形をとる。この禅譲というやり方にも儒教の考え方がしみ込んでいる。いにしえの聖王である「堯」は自分の息子ではない「舜」に位を譲った。また舜も子供でない「禹」禅譲した。自分の子供ではなく、自分よりも徳のある者に位を譲ること天下を公と為す)が理想であり、それを「大同の世」と呼んで尊んだ。しかし禹の後、息子の「啓」が跡を継いだ夏王朝以降は「小康の世」と呼ばれる世の中になる。子供への世襲は「天下を家と為す」とされ、大同の世からの後退とされた。このような考えから禅譲が理想とされたので、行われたのであろうが、実際は体の良い王朝簒奪のアリバイ作りとして利用されたに過ぎなかった。

 魏王朝も当初は「文学」を支配のイデオロギーに据えていたが、政権が安定してくると次第に儒教へと回帰していった。曹魏は、後漢末の儒学者〈鄭玄〉の思想に基づいて国制を定めた。時は三国時代である(実際は遼東地方の公孫氏をいれると四国時代)。

呉には孫氏が、蜀には劉氏がいて、それぞれ王を名乗った。それに対して魏が優位に立つ点があった。魏には、天を祭る「圜丘(えんきゆう)」と「南郊」の両方があったのだ。鄭玄の六天説によると、圜丘は最高神昊天(こうてん)上帝」を祭り、南郊は下位神「五天帝」を祭る場所・施設であった。前者は魏にしか存在せず魏の皇帝の正統性付与に貢献した。

 また鄭玄は、天と天子の間に父子関係を設け、「孝」によってそれらを直接結びつけようとした。漢時代に実際に行われていた天の祭祀は「昊天上帝」を祭るだけで天と天子の間には君臣の「忠」という関係しかなかった。そこでかれは五天帝を導入し、それと受命者・感生帝(漢ならば劉邦)との間に父子関係を設定した。漢の歴代の天子は劉邦と父子関係にあるので「天」「受命者」「天子」がそれぞれ「孝」で結び付けられるようにしたのである。よって「昊天上帝」と「五天帝」をあわせて六天説というのである。この2種類の「天」を設けることで、王朝の変転(五天帝の入れ替わり)とそれでも不変である天の絶対性(昊天上帝)の両方を説明できるようにしたのである。

 

・〈晋の正統性と王粛〉

 魏もまた、臣下の司馬氏によって王朝を乗っ取られてしまう。乗っ取りの正当化に使われた理由がなんと「親不孝」なのである。司馬氏は魏の第3代皇帝・曹芳が嘘をついたり、部屋に俳優を引っ張り込んだり、女官とみだらな行為をしているなどと皇太后に上奏した。後漢時代の白虎観会議で確立された至孝の皇太后権によって、皇帝は廃位されたのである。司馬氏は「孝」を政治的に利用することをおぼえた。次の第4代皇帝・曹髦にいたっては司馬昭に殺されてしまう。主君殺しである。ここでも殺害の理由は「不孝」なのである!

 「不孝」を理由として王権を奪った晋王朝の正当化をやったのが、王粛杜預である。王粛は、まず鄭玄の感生帝という神秘的な存在を否定する。そこに讖緯思想的なものを認めないという合理的な態度が見られる。そして五天帝は天ではなく人帝であり、天は昊天上帝ただ一つだという。この思想に基づいて、晋の時代に、南郊と圜丘は一つに併せられた。

 次に王粛は、あの孔子ですら少正卯を殺したのであるから、不孝をはたらく皇帝を司馬師が殺すのは当然だ、という論理で「主君殺し」を正当化する。

 司馬氏の切り札的存在だった杜預は、『春秋』という書と孔子の繋がりを変更した。漢の儒学者何休は、孔子を「素王」と崇め、その孔子が後の「漢王朝」の成立を予想して、漢に与えるために書いたのが『春秋』だという説を表した。何休にとって「漢」は《聖漢》であった。それを杜預は否定したのである。孔子は王などではなく、単なる魯の歴史記録官にすぎず、『春秋』も漢のために書かれたものではない、としたのだった。

・〈竹林の七賢

 司馬氏による君主殺し、そしてその正当化に力を貸す儒学者たち。このような風潮を批判したのが竹林の七賢といわれた人たちであった。中でも嵆康は、その批判の苛烈さで際立っている。彼は儒教の聖人である孔子と周公を、彼等は世襲王朝を認めたとして批判する。世襲によって小康の世になるどころか、臣下が政権を簒奪する世の中になったと。嵆康は又何晏が創始した「玄学」荘子を加えることによって深化させた。

 儒教を批判する嵆康は結局、彼にかつての天敵・諸葛亮の姿をみた司馬氏によって処刑されてしまった。

 嵆康が子の嵆紹に与えた言葉「人は志がなければ人ではなく、言語により表現することが志を示すための唯一の方法である」は、文を書く全ての人に憶えいてほしい言葉だと思う。竹林の七賢というとのんきに人里離れた田舎で酒を飲んだくれて好きなことを言い合ってるというようなイメージを連想すかもしれないが、実はこんなにも厳しい状況で考え、行動していた人たちなのである。

 この後、晋は異民族の侵入を受けて衰退していく。南北朝時代の始まりである。異民族が支配した北朝では、仏教を尊崇するようになる。儒教では、民族問題を解決できなかったのだ。

 

・まとめ

法家思想⇒黄老思想⇒春秋公羊伝⇒春秋穀梁伝⇒春秋左伝⇒讖緯思想(王莽)⇒讖緯思想(劉秀)⇒儒教の国教化(白虎観会議)⇒外戚の横暴⇒宦官の横暴⇒党錮の禁⇒名士の登場⇒文学⇒鄭玄説⇒王粛説⇒玄学⇒仏教

『儒教と中国ー「二千年の正統思想」の起源』読んだー㊥ー

前回は「」王朝まで書いたが、今回はその続きの後漢時代以降について。

 

 王莽が讖緯思想を使って王権を奪取したように、光武帝・劉秀も讖緯思想、とりわけ図讖と呼ばれるものを重視した。図讖とは、龍や亀が背負って示したという聖なる図のことである。劉秀が新を倒したことを「図讖革命」とする研究もあるそうである。だが劉秀は、子供の頃から神秘思想にかぶれていた王莽よりも合理的な人だった。緯書や図讖も兄・劉縯の死によって自分が皇帝になる可能性が出てきた時、機を見て初めて利用されたのである。劉秀は即位するために、嘘だと分かっている図讖を敢えて政治的に使ったのだ。

 光武帝崩御する前の年に、儒教に関係ある施設である明堂・霊台・辟雍および北郊(地を祭る)を完成させ「図讖を天下に宣布」したのである。このことは、(緯書によって神秘化された)儒教光武帝によって、後漢の唯一の正統思想になったことを意味する。

 しかしこの時、王莽が皇帝に即位した時とは異なり、緯書の利用を批判する儒者が出現しだしたのだ。即位の根拠となる緯書・図讖を批判するのであるから当然命懸けである。このような矜持を持った後漢時代の儒者は、権力にすり寄った前漢儒者たちに比べて内在的だ、と筆者は書いている。

 儒教の国教化

 従来の教科書に載っている儒教の国教化は、前漢時代の武帝期とされているが、筆者は後漢の章帝期だと主張している(例えば儒教官僚の三公九卿への進出の割合を見てみると、武帝期では2%であるのに対して、光武帝~章帝期には77%にも達しているという事実があるという)。ここで問題となるのは、何をメルクマールとして国教化されたと見るかである。筆者は以下の4点を挙げている。

①思想的内容としての体制儒教の成立

②制度的な儒教一尊体制の確立

儒教の中央・地方の官僚層への浸透と受容

儒教的支配の成立

  

 後漢は早くも和帝の頃、外戚の専横によって国家が傾き出す。この外戚の台頭にも儒教が関わっている。「春秋」に「娶るに大国を先にする」という理念があり、以前に罪を犯した家でも大国ならば再び皇后に選ばれ、その家は外戚になってしまうのである。皮肉なことに、後漢を衰退させた外戚勢力は儒教によって守られていたのである。

 儒教に守られた外戚儒教官僚が倒せるわけがない。実際、外戚勢力に対抗したのは宦官だった。宦官は皇帝の子供時代からの遊び相手であったりと皇帝との個人的つながりが強い存在なのだ。よって地位は低いが皇帝権力の延長線上に自らの権力も行使するようになる。

 しかしこの宦官の私的な権力行使は、地方の郷挙里選に自分の親族を推薦するように圧力をかけたりする、などのように、国政の私物化を齎してしまった。また、外戚勢力も同じように関係者の推挙を強要して郷挙里選という官僚登用システムを破壊していった。このような宦官の横暴に対して、儒教官僚たちは抵抗をはじめる。

 

・宦官vs.儒教官僚

 抵抗しだした儒教官僚に対する、宦官側からの反撃が2回にわたる党錮の禁である。有力な儒教官僚が弾圧され、将来官僚となるべく太学で学んでいる儒生たちも就職難に陥ってしまった。これら弾圧された人々が、すでに宦官への賄賂の額と直結した物に成り下がっていたそれまでの価値基準である「官僚の地位の上下」以外の価値観を見つけ出した。その価値観こそ「名士」というものだったのである。

 名士たちは、国家から離れ自律し、独自の価値観で動き出す。彼らは、人物評価というものをしだした。第二次党錮の禁で死刑になった李膺は、人物評価の大家と見做され彼に高く評価されれば「龍門を登った」(登竜門の由来)と言われた。李膺の後は、郭泰許劭が大家とされた。三国志で有名なあの魏の曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評したのは許劭である。この人物批評によって曹操は名士グループの一員と成れたのである。

 

とりあえずまとめ⑵

法家思想⇒黄老思想⇒春秋公羊伝⇒春秋穀梁伝⇒春秋左伝⇒讖緯思想(王莽)⇒讖緯思想(劉秀)⇒儒教の国教化(白虎観会議)⇒外戚の横暴⇒宦官の横暴⇒党錮の禁⇒名士の登場

    

    〈続く〉

 

『儒教と中国ー「二千年の正統思想」の起源』読んだー㊤ー

この本が扱っているのは、前漢・新・後漢・魏(三国時代)・晋・南北朝時代の約5~600年間の出来事である。この期間にいかにして儒教が、王朝の正当化に資する理論となり、国教となり、仏教によって相対化されるようになったかの変遷を、儒教の諸テキストの盛衰と伴に書いている。

 

1《皇帝と天子》

 皇帝と天子という名称は、異なる概念を指示している。それらは、決して同じものを別な様に言い換えているわけではない。皇帝とは、勿論始皇帝から始まるのであるが、先祖を祀る時に使われる自称で、一方、天子とは、天を祭るときの自称なのである。皇帝という名称には、儒教も天も関係ない。古代中国では、天が天命を与えた人物が君主となる。もしその君主が乱れた政治をしていれば、別の人物に天命が下る、「天命が革まる」、つまり革命がおこるのである。皇帝と天子が別の概念である証拠に、通常、最高統治者となる者は二度即位式をする。先帝が崩御すると、まず即日皇帝に即位する。即位は先帝の棺の前で行われる。先帝からの血のつながりで皇帝になるからである。その後、年が改まってから、天子に即位し、改元する。そして喪を解き、天を祭る祭祀を行うのである。また、皇帝中国国内における支配を示すものであり、天子は天の下のすべてのものを支配するという意味であるから、その支配権は外国・異民族にも及ぶのである。 (煬帝が、かの有名な国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや」に激怒したという話は、あたかも天子が二人いるかのような書きぶりに対してであることが、天子の意味を知れば理解できる。)

 

2《王朝の正統性とテキストの共犯関係》

 皇帝が代わるとき、また王朝が代わるとき、中国ではその交代に根拠・理屈を与えなければならなかった。その役割を担ったのが、五経というテキストなのである!五経とは、「詩経」「書経」「礼記」「春秋」「易経」の五冊の本であるが、それには注釈書、更にはその注釈書の注釈書という風に、いくつものバリエーションが存在する。例えば「春秋」には主に「公羊伝」「穀梁伝」「左伝」の三つの異なる義をもつ解釈書があり、これらの内容は全く違う。テキストが書かれた当時の政治状況を、色濃く反映しているからである。政治はテキストを利用して、自らの正統性を与え、逆にテキストは政治を利用してその書き手の勢力を拡大しようとする。まさしく、相互関係、いや共犯とでも言った方が相応しい間柄なのである。では以下に、本書で述べられている、その共犯関係を時系列に沿ってまとめていく。

 

3《漢・魏晋南北朝の思潮》

 秦時代は法家思想を軸とし、焚書坑儒で有名な様に儒教は弾圧された。儒学者の理想は「周王朝」であり、周の支配は封建制を基にしていたので、孝公以降、歴代の秦諸王の改革路線(例えば商鞅の変法)と儒者はことごとく衝突した。今でいう守旧派のような存在だった。

秦の過酷な政治に反対する勢力によって、漢王朝は建てられた。高祖劉邦は、匈奴との戦いに敗れ、屈辱的な和睦を結んででも戦争を早期に終了させたかった。この後文帝の時期までは「民力休養」的な思想、すなわち他者とは争わない、ありのままの現実を受け入れようとする黄老思想を政治理念とした。(黄は黄帝を老は老子を表している)。

 文帝・景帝を経て、国内の諸侯勢力を弱め、中央集権化を進めて、事実上、郡国制から郡県制に近くなった。民力休養が功を奏し、国力が回復した武帝の時期には、匈奴に対して反撃を開始する。武帝の時代に儒教が国教化された、と前回のブログで書いたが、教科書にも記載されているその内容は現在正しくないと見做されているそうだ。

この時期に、黄老思想から《春秋公羊学》へと体制の正統思想が変化する。孔子の書いた「春秋」という経典の公羊伝という解釈本である。何故この本がクローズアップされたかと言えば、その内容が時代の要請に最も応えたからである。

  ・春秋公羊伝の特徴とは、次の7点である。

①大夫の専断は許さないが、経に対する権を容認する

②激しい攘夷思想

③君臣の義の絶対視

④動機主義

⑤譲国の賛美

⑥復讐の積極的な肯定

⑦災異に天意を読み取る

②のはげしい攘夷思想は匈奴をはじめとする異民族への復讐の感情を反映し、⑤譲国の賛美は武帝の即位の過程を正当化するために、⑦は公羊学者董仲舒天人相関説の影響。

 

 皇孫の子供だった宣帝が即位するとき、その正当化をしなければならなかったが、それは春秋公羊伝では不可能だった。そこで新たに《春秋穀梁伝》が登場した。

  ・春秋穀梁伝の特徴

①譲国を認めない

②華夷混一の理想社会

③重民思想と法刑の並用

①は全く公羊伝と反対の解釈である。同じ「春秋」という書物に全く違う解釈をするというこの柔軟性こそ儒教が二千年の長きにわたって生きながらえた理由なのである。②は宿敵匈奴の降伏が関係している。③は寛治(ゆるい統治)と吏治(厳しい統治)の並用する、すなわち儒家と法家を併せて用いるということであり、まだ儒教一尊ではなかった。

 元帝・成帝期に、周代を理想とする儒家の思想と漢の時代の現実との齟齬が際立つようになった。それを解決するために見いだされたのが《春秋左伝》である。この時代問題となったのは、天子七廟制、郊祀(天の祭祀)、漢火徳説である。天子七廟制は皇帝の先祖の墓のどれを残しどれを壊すかという問題であり、郊祀は天子として天を祭る時それをどこで行うかという問題である。火徳説は五行説と関係している。左伝はこれらの諸問題を解決したのである。

 新しい解釈である穀梁伝・左伝の登場に対して公羊学者たちは、讖緯思想というオカルト思想で対抗した。彼らは孔子を、未来を見通す神様に仕立て上げた。筆者は儒学儒教になったと書いている。

 この讖緯思想を大衆操作に利用し政権を奪ったのが、王莽である。王莽の新王朝儒教を国家のバックボーンとした。また儒者たちは、保護者である王莽を全面的にバックアップしたのである。この時期の儒者たちに、後漢時代のような国家に迎合しない態度は見当たらない。

 

 とりあえずここまでの、まとめ

 法家思想⇒黄老思想⇒春秋公羊伝⇒春秋穀梁伝⇒春秋左伝⇒讖緯思想

 

   次回に続く