~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

『儒教と中国ー「二千年の正統思想」の起源』読んだー㊦ー

 ・〈魏の正統性と鄭玄〉

新たに出現した「名士」たち。貧しい出身であっても人物が評価されれば「名士」になれ、その評価を基に行く行くは貴族にもなれるという道が開けた。それは当然、社会に流動性を生み出す。豪族たちは経済力ではなく、学問を修めさまざな文化を身に着けようとした。

 党錮の禁によって、出世から遠ざけられた人々が見出した人物評価という新たな価値基準によって形成された「名士」。彼らはまた、混乱した時勢の中で政策を論じる人々でもあった。

 後漢末から三国時代に、頭角を現した曹操は名士である荀彧や彼の出身母体である潁川の名士たちを自分の軍団に引き入れ、勢力の拡大を図り、官渡の戦いに勝利して華北を制圧した。当初曹操は名士たちと共同歩調をとっていた。しかし、漢を倒し自らの王朝を建てようと野望した時、この名士たちが君主権力の拡大の障害になった。「儒教的価値の優越性を梃子に文化的諸価値を専有する名士に対抗するためには、新たな文化的価値を創出し、名士のそれを相対化するか、すべての価値を君主権力に収斂する必要があった。」

 曹操が見出した新たな価値とは何か?    それは《文学》だったのである!!

そして曹操は文学を基準に人事を行うことにする。文才さえあれば、不道徳な人物でも登用するというものであり、明らかに漢時代の儒教的な発想から意図的に離れようとするものであった。あわてて軍人たちも慣れない詩を作ったりもした。この時代の儒教の呪縛から解き放たれた文学を建安文学と呼び、曹一族の曹操曹丕曹植の三人と孔融・陳琳・徐幹・王粲・応瑒・劉楨・阮瑀ら七人をあわせて建安の三曹七子と総称する。

 曹操の長子・曹丕は、後漢献帝から禅譲を受けて皇帝になった。ついでに先走っていうと、魏の後の西晋への交替も曹奐から司馬炎への禅譲という形をとる。この禅譲というやり方にも儒教の考え方がしみ込んでいる。いにしえの聖王である「堯」は自分の息子ではない「舜」に位を譲った。また舜も子供でない「禹」禅譲した。自分の子供ではなく、自分よりも徳のある者に位を譲ること天下を公と為す)が理想であり、それを「大同の世」と呼んで尊んだ。しかし禹の後、息子の「啓」が跡を継いだ夏王朝以降は「小康の世」と呼ばれる世の中になる。子供への世襲は「天下を家と為す」とされ、大同の世からの後退とされた。このような考えから禅譲が理想とされたので、行われたのであろうが、実際は体の良い王朝簒奪のアリバイ作りとして利用されたに過ぎなかった。

 魏王朝も当初は「文学」を支配のイデオロギーに据えていたが、政権が安定してくると次第に儒教へと回帰していった。曹魏は、後漢末の儒学者〈鄭玄〉の思想に基づいて国制を定めた。時は三国時代である(実際は遼東地方の公孫氏をいれると四国時代)。

呉には孫氏が、蜀には劉氏がいて、それぞれ王を名乗った。それに対して魏が優位に立つ点があった。魏には、天を祭る「圜丘(えんきゆう)」と「南郊」の両方があったのだ。鄭玄の六天説によると、圜丘は最高神昊天(こうてん)上帝」を祭り、南郊は下位神「五天帝」を祭る場所・施設であった。前者は魏にしか存在せず魏の皇帝の正統性付与に貢献した。

 また鄭玄は、天と天子の間に父子関係を設け、「孝」によってそれらを直接結びつけようとした。漢時代に実際に行われていた天の祭祀は「昊天上帝」を祭るだけで天と天子の間には君臣の「忠」という関係しかなかった。そこでかれは五天帝を導入し、それと受命者・感生帝(漢ならば劉邦)との間に父子関係を設定した。漢の歴代の天子は劉邦と父子関係にあるので「天」「受命者」「天子」がそれぞれ「孝」で結び付けられるようにしたのである。よって「昊天上帝」と「五天帝」をあわせて六天説というのである。この2種類の「天」を設けることで、王朝の変転(五天帝の入れ替わり)とそれでも不変である天の絶対性(昊天上帝)の両方を説明できるようにしたのである。

 

・〈晋の正統性と王粛〉

 魏もまた、臣下の司馬氏によって王朝を乗っ取られてしまう。乗っ取りの正当化に使われた理由がなんと「親不孝」なのである。司馬氏は魏の第3代皇帝・曹芳が嘘をついたり、部屋に俳優を引っ張り込んだり、女官とみだらな行為をしているなどと皇太后に上奏した。後漢時代の白虎観会議で確立された至孝の皇太后権によって、皇帝は廃位されたのである。司馬氏は「孝」を政治的に利用することをおぼえた。次の第4代皇帝・曹髦にいたっては司馬昭に殺されてしまう。主君殺しである。ここでも殺害の理由は「不孝」なのである!

 「不孝」を理由として王権を奪った晋王朝の正当化をやったのが、王粛杜預である。王粛は、まず鄭玄の感生帝という神秘的な存在を否定する。そこに讖緯思想的なものを認めないという合理的な態度が見られる。そして五天帝は天ではなく人帝であり、天は昊天上帝ただ一つだという。この思想に基づいて、晋の時代に、南郊と圜丘は一つに併せられた。

 次に王粛は、あの孔子ですら少正卯を殺したのであるから、不孝をはたらく皇帝を司馬師が殺すのは当然だ、という論理で「主君殺し」を正当化する。

 司馬氏の切り札的存在だった杜預は、『春秋』という書と孔子の繋がりを変更した。漢の儒学者何休は、孔子を「素王」と崇め、その孔子が後の「漢王朝」の成立を予想して、漢に与えるために書いたのが『春秋』だという説を表した。何休にとって「漢」は《聖漢》であった。それを杜預は否定したのである。孔子は王などではなく、単なる魯の歴史記録官にすぎず、『春秋』も漢のために書かれたものではない、としたのだった。

・〈竹林の七賢

 司馬氏による君主殺し、そしてその正当化に力を貸す儒学者たち。このような風潮を批判したのが竹林の七賢といわれた人たちであった。中でも嵆康は、その批判の苛烈さで際立っている。彼は儒教の聖人である孔子と周公を、彼等は世襲王朝を認めたとして批判する。世襲によって小康の世になるどころか、臣下が政権を簒奪する世の中になったと。嵆康は又何晏が創始した「玄学」荘子を加えることによって深化させた。

 儒教を批判する嵆康は結局、彼にかつての天敵・諸葛亮の姿をみた司馬氏によって処刑されてしまった。

 嵆康が子の嵆紹に与えた言葉「人は志がなければ人ではなく、言語により表現することが志を示すための唯一の方法である」は、文を書く全ての人に憶えいてほしい言葉だと思う。竹林の七賢というとのんきに人里離れた田舎で酒を飲んだくれて好きなことを言い合ってるというようなイメージを連想すかもしれないが、実はこんなにも厳しい状況で考え、行動していた人たちなのである。

 この後、晋は異民族の侵入を受けて衰退していく。南北朝時代の始まりである。異民族が支配した北朝では、仏教を尊崇するようになる。儒教では、民族問題を解決できなかったのだ。

 

・まとめ

法家思想⇒黄老思想⇒春秋公羊伝⇒春秋穀梁伝⇒春秋左伝⇒讖緯思想(王莽)⇒讖緯思想(劉秀)⇒儒教の国教化(白虎観会議)⇒外戚の横暴⇒宦官の横暴⇒党錮の禁⇒名士の登場⇒文学⇒鄭玄説⇒王粛説⇒玄学⇒仏教

『儒教と中国ー「二千年の正統思想」の起源』読んだー㊥ー

前回は「」王朝まで書いたが、今回はその続きの後漢時代以降について。

 

 王莽が讖緯思想を使って王権を奪取したように、光武帝・劉秀も讖緯思想、とりわけ図讖と呼ばれるものを重視した。図讖とは、龍や亀が背負って示したという聖なる図のことである。劉秀が新を倒したことを「図讖革命」とする研究もあるそうである。だが劉秀は、子供の頃から神秘思想にかぶれていた王莽よりも合理的な人だった。緯書や図讖も兄・劉縯の死によって自分が皇帝になる可能性が出てきた時、機を見て初めて利用されたのである。劉秀は即位するために、嘘だと分かっている図讖を敢えて政治的に使ったのだ。

 光武帝崩御する前の年に、儒教に関係ある施設である明堂・霊台・辟雍および北郊(地を祭る)を完成させ「図讖を天下に宣布」したのである。このことは、(緯書によって神秘化された)儒教光武帝によって、後漢の唯一の正統思想になったことを意味する。

 しかしこの時、王莽が皇帝に即位した時とは異なり、緯書の利用を批判する儒者が出現しだしたのだ。即位の根拠となる緯書・図讖を批判するのであるから当然命懸けである。このような矜持を持った後漢時代の儒者は、権力にすり寄った前漢儒者たちに比べて内在的だ、と筆者は書いている。

 儒教の国教化

 従来の教科書に載っている儒教の国教化は、前漢時代の武帝期とされているが、筆者は後漢の章帝期だと主張している(例えば儒教官僚の三公九卿への進出の割合を見てみると、武帝期では2%であるのに対して、光武帝~章帝期には77%にも達しているという事実があるという)。ここで問題となるのは、何をメルクマールとして国教化されたと見るかである。筆者は以下の4点を挙げている。

①思想的内容としての体制儒教の成立

②制度的な儒教一尊体制の確立

儒教の中央・地方の官僚層への浸透と受容

儒教的支配の成立

  

 後漢は早くも和帝の頃、外戚の専横によって国家が傾き出す。この外戚の台頭にも儒教が関わっている。「春秋」に「娶るに大国を先にする」という理念があり、以前に罪を犯した家でも大国ならば再び皇后に選ばれ、その家は外戚になってしまうのである。皮肉なことに、後漢を衰退させた外戚勢力は儒教によって守られていたのである。

 儒教に守られた外戚儒教官僚が倒せるわけがない。実際、外戚勢力に対抗したのは宦官だった。宦官は皇帝の子供時代からの遊び相手であったりと皇帝との個人的つながりが強い存在なのだ。よって地位は低いが皇帝権力の延長線上に自らの権力も行使するようになる。

 しかしこの宦官の私的な権力行使は、地方の郷挙里選に自分の親族を推薦するように圧力をかけたりする、などのように、国政の私物化を齎してしまった。また、外戚勢力も同じように関係者の推挙を強要して郷挙里選という官僚登用システムを破壊していった。このような宦官の横暴に対して、儒教官僚たちは抵抗をはじめる。

 

・宦官vs.儒教官僚

 抵抗しだした儒教官僚に対する、宦官側からの反撃が2回にわたる党錮の禁である。有力な儒教官僚が弾圧され、将来官僚となるべく太学で学んでいる儒生たちも就職難に陥ってしまった。これら弾圧された人々が、すでに宦官への賄賂の額と直結した物に成り下がっていたそれまでの価値基準である「官僚の地位の上下」以外の価値観を見つけ出した。その価値観こそ「名士」というものだったのである。

 名士たちは、国家から離れ自律し、独自の価値観で動き出す。彼らは、人物評価というものをしだした。第二次党錮の禁で死刑になった李膺は、人物評価の大家と見做され彼に高く評価されれば「龍門を登った」(登竜門の由来)と言われた。李膺の後は、郭泰許劭が大家とされた。三国志で有名なあの魏の曹操を「治世の能臣、乱世の奸雄」と評したのは許劭である。この人物批評によって曹操は名士グループの一員と成れたのである。

 

とりあえずまとめ⑵

法家思想⇒黄老思想⇒春秋公羊伝⇒春秋穀梁伝⇒春秋左伝⇒讖緯思想(王莽)⇒讖緯思想(劉秀)⇒儒教の国教化(白虎観会議)⇒外戚の横暴⇒宦官の横暴⇒党錮の禁⇒名士の登場

    

    〈続く〉

 

『儒教と中国ー「二千年の正統思想」の起源』読んだー㊤ー

この本が扱っているのは、前漢・新・後漢・魏(三国時代)・晋・南北朝時代の約5~600年間の出来事である。この期間にいかにして儒教が、王朝の正当化に資する理論となり、国教となり、仏教によって相対化されるようになったかの変遷を、儒教の諸テキストの盛衰と伴に書いている。

 

1《皇帝と天子》

 皇帝と天子という名称は、異なる概念を指示している。それらは、決して同じものを別な様に言い換えているわけではない。皇帝とは、勿論始皇帝から始まるのであるが、先祖を祀る時に使われる自称で、一方、天子とは、天を祭るときの自称なのである。皇帝という名称には、儒教も天も関係ない。古代中国では、天が天命を与えた人物が君主となる。もしその君主が乱れた政治をしていれば、別の人物に天命が下る、「天命が革まる」、つまり革命がおこるのである。皇帝と天子が別の概念である証拠に、通常、最高統治者となる者は二度即位式をする。先帝が崩御すると、まず即日皇帝に即位する。即位は先帝の棺の前で行われる。先帝からの血のつながりで皇帝になるからである。その後、年が改まってから、天子に即位し、改元する。そして喪を解き、天を祭る祭祀を行うのである。また、皇帝中国国内における支配を示すものであり、天子は天の下のすべてのものを支配するという意味であるから、その支配権は外国・異民族にも及ぶのである。 (煬帝が、かの有名な国書「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無しや」に激怒したという話は、あたかも天子が二人いるかのような書きぶりに対してであることが、天子の意味を知れば理解できる。)

 

2《王朝の正統性とテキストの共犯関係》

 皇帝が代わるとき、また王朝が代わるとき、中国ではその交代に根拠・理屈を与えなければならなかった。その役割を担ったのが、五経というテキストなのである!五経とは、「詩経」「書経」「礼記」「春秋」「易経」の五冊の本であるが、それには注釈書、更にはその注釈書の注釈書という風に、いくつものバリエーションが存在する。例えば「春秋」には主に「公羊伝」「穀梁伝」「左伝」の三つの異なる義をもつ解釈書があり、これらの内容は全く違う。テキストが書かれた当時の政治状況を、色濃く反映しているからである。政治はテキストを利用して、自らの正統性を与え、逆にテキストは政治を利用してその書き手の勢力を拡大しようとする。まさしく、相互関係、いや共犯とでも言った方が相応しい間柄なのである。では以下に、本書で述べられている、その共犯関係を時系列に沿ってまとめていく。

 

3《漢・魏晋南北朝の思潮》

 秦時代は法家思想を軸とし、焚書坑儒で有名な様に儒教は弾圧された。儒学者の理想は「周王朝」であり、周の支配は封建制を基にしていたので、孝公以降、歴代の秦諸王の改革路線(例えば商鞅の変法)と儒者はことごとく衝突した。今でいう守旧派のような存在だった。

秦の過酷な政治に反対する勢力によって、漢王朝は建てられた。高祖劉邦は、匈奴との戦いに敗れ、屈辱的な和睦を結んででも戦争を早期に終了させたかった。この後文帝の時期までは「民力休養」的な思想、すなわち他者とは争わない、ありのままの現実を受け入れようとする黄老思想を政治理念とした。(黄は黄帝を老は老子を表している)。

 文帝・景帝を経て、国内の諸侯勢力を弱め、中央集権化を進めて、事実上、郡国制から郡県制に近くなった。民力休養が功を奏し、国力が回復した武帝の時期には、匈奴に対して反撃を開始する。武帝の時代に儒教が国教化された、と前回のブログで書いたが、教科書にも記載されているその内容は現在正しくないと見做されているそうだ。

この時期に、黄老思想から《春秋公羊学》へと体制の正統思想が変化する。孔子の書いた「春秋」という経典の公羊伝という解釈本である。何故この本がクローズアップされたかと言えば、その内容が時代の要請に最も応えたからである。

  ・春秋公羊伝の特徴とは、次の7点である。

①大夫の専断は許さないが、経に対する権を容認する

②激しい攘夷思想

③君臣の義の絶対視

④動機主義

⑤譲国の賛美

⑥復讐の積極的な肯定

⑦災異に天意を読み取る

②のはげしい攘夷思想は匈奴をはじめとする異民族への復讐の感情を反映し、⑤譲国の賛美は武帝の即位の過程を正当化するために、⑦は公羊学者董仲舒天人相関説の影響。

 

 皇孫の子供だった宣帝が即位するとき、その正当化をしなければならなかったが、それは春秋公羊伝では不可能だった。そこで新たに《春秋穀梁伝》が登場した。

  ・春秋穀梁伝の特徴

①譲国を認めない

②華夷混一の理想社会

③重民思想と法刑の並用

①は全く公羊伝と反対の解釈である。同じ「春秋」という書物に全く違う解釈をするというこの柔軟性こそ儒教が二千年の長きにわたって生きながらえた理由なのである。②は宿敵匈奴の降伏が関係している。③は寛治(ゆるい統治)と吏治(厳しい統治)の並用する、すなわち儒家と法家を併せて用いるということであり、まだ儒教一尊ではなかった。

 元帝・成帝期に、周代を理想とする儒家の思想と漢の時代の現実との齟齬が際立つようになった。それを解決するために見いだされたのが《春秋左伝》である。この時代問題となったのは、天子七廟制、郊祀(天の祭祀)、漢火徳説である。天子七廟制は皇帝の先祖の墓のどれを残しどれを壊すかという問題であり、郊祀は天子として天を祭る時それをどこで行うかという問題である。火徳説は五行説と関係している。左伝はこれらの諸問題を解決したのである。

 新しい解釈である穀梁伝・左伝の登場に対して公羊学者たちは、讖緯思想というオカルト思想で対抗した。彼らは孔子を、未来を見通す神様に仕立て上げた。筆者は儒学儒教になったと書いている。

 この讖緯思想を大衆操作に利用し政権を奪ったのが、王莽である。王莽の新王朝儒教を国家のバックボーンとした。また儒者たちは、保護者である王莽を全面的にバックアップしたのである。この時期の儒者たちに、後漢時代のような国家に迎合しない態度は見当たらない。

 

 とりあえずここまでの、まとめ

 法家思想⇒黄老思想⇒春秋公羊伝⇒春秋穀梁伝⇒春秋左伝⇒讖緯思想

 

   次回に続く

前漢・新・後漢・魏・西晋・東晋 皇帝一覧表

次から書く記事のために、中国の漢・魏晋南北朝時代の皇帝一覧表を予め載せておきます。(以下ウィキペディアからの引用です。)

 

前漢
太祖(劉邦、在位紀元前206年 - 紀元前195年)
恵帝(劉盈、在位紀元前195年 - 紀元前188年)
少帝恭(劉恭、在位紀元前188年 - 紀元前184年)
少帝弘(劉弘、在位紀元前184年 - 紀元前180年)
太宗文帝(劉恒、在位紀元前180年 - 紀元前157年)
景帝(劉啓、在位紀元前157年 - 紀元前141年)
世宗武帝(劉徹、在位紀元前141年 - 紀元前87年)
昭帝(劉弗陵、在位紀元前87年 - 紀元前74年)
昌邑王(劉賀、在位紀元前74年)
中宗宣帝(劉詢、在位紀元前74年 - 紀元前49年)
高宗元帝(劉奭、在位紀元前49年 - 紀元前33年)
統宗成帝(劉驁、在位紀元前33年 - 紀元前7年)
哀帝(劉欣、在位紀元前7年 - 紀元前1年)
元宗平帝(劉衎、在位紀元前1年 - 5年)
孺子嬰(劉嬰、在位6年 - 8年)


王莽(在位9年 - 23年)

後漢
世祖光武帝(劉秀、在位25年 - 57年)
顕宗明帝(劉荘、在位57年 - 75年)
粛宗章帝(劉炟、在位75年 - 88年)
穆宗和帝(劉肇、在位88年 - 105年)
殤帝(劉隆、在位105年 - 106年)
恭宗安帝(劉祜、在位106年 - 125年)
少帝懿(劉懿、在位125年)
敬宗順帝(劉保、在位125年 - 144年)
沖帝(劉炳、在位144年 - 145年)
質帝(劉纘、在位145年 - 146年)
威宗桓帝(劉志、在位146年 - 167年)
霊帝(劉宏、在位167年 - 189年)
少帝弁(劉弁、在位189年)
献帝(劉協、在位189年 - 220年)


216年 - 220年、曹操は、後漢に封ぜられた「魏王」だった。
曹騰は、文帝によって、高帝と追号された。
曹嵩は、文帝によって、太帝と追号された。
曹操は、文帝によって、太祖武帝追号された。
高祖文帝(曹丕、在位220年 - 226年)
烈祖明帝(曹叡、在位226年 - 239年)
斉王(曹芳、在位239年 - 254年)
高貴郷公(曹髦、在位254年 - 260年)
元帝(曹奐、在位260年 - 265年)

西晋
司馬昭は、264年 - 265年に魏の「晋王」だった。
司馬炎は、265年に魏の「晋王」だった。
司馬懿は、武帝によって、高祖宣帝と追号された。
司馬師は、武帝によって、世宗景帝と追号された。
司馬昭は、武帝によって、太祖文帝と追号された。
世祖武帝司馬炎、在位265年 - 290年)
孝恵帝(司馬衷、在位290年 - 306年)
孝懐帝(司馬熾、在位306年 - 311年)
孝愍帝(司馬鄴、在位313年 - 316年)

東晋
中宗元帝(司馬睿、在位317年 - 322年)
粛祖・粛宗明帝(司馬紹、在位322年 - 325年)
顕宗成帝(司馬衍、在位325年 - 342年)
康帝(司馬岳、在位342年 - 344年)
孝宗穆帝(司馬耼、在位344年 - 361年)
哀帝(司馬丕、在位361年 - 365年)
廃帝 海西公(司馬奕、在位365年 - 371年)
太宗簡文帝(司馬昱、在位371年 - 372年)
烈宗孝武帝(司馬曜、在位372年 - 396年)
安帝(司馬徳宗、在位396年 - 418年)
恭帝(司馬徳文、在位418年 - 420年)

 

 

加地伸行『儒教とは何か』読んだー㊦ー

〈経学の時代 下〉

 

 ・三教時代

 儒教は、原儒時代の淫祠邪教的な宗教性を抑圧し、脱魔術化して礼教性を高め、経学という新しい学問を起こして時代のニーズに応えた。儒教が国教化した漢代は、また同時にいかがわしい怪異の流行した時代だった。脱魔術化した儒教だったが、一般庶民の間では依然宗教性は生き残っており、それは予言〈讖〉やオカルト的学問〈緯学〉などを生んだ。讖は〈新〉王朝の王莽が政権簒奪を正当化する際に用いられたし、緯学も経学と共に研究された。

 

 後漢時代から、魏晋南北朝時代を経て、隋唐時代の七、八百年の間、儒教のほかに道教仏教が盛んになって、この三教が覇を競うようになった。この三つの考え方の違いを〈死〉において比較してみよう。

儒教・・・子孫の祭祀による現世への〈再生〉ー招魂儀礼

道教・・・自己の努力による不老〈長生〉ー不老長生

仏教・・・因果や運命に基づく輪廻〈転生〉ー輪廻転生

 中国人は徹底的に現実的で1分1秒でもこの世界に長く居たいと考えるので、道教の不老不死はとても人気があった。事実、昼は(公的には)儒教で、夜は(私的には)道教といわれるほどであった。それは理解できるとして、ではなぜ、全く自然環境も死生観も違うインド生まれの仏教が中国で流行したのか?

 著者は、その隆盛は中国人の大いなる誤解が齎したものであると書いている。つまり、中国人たちは、苦しみが輪のようにずっと長く長く続くという部分をすっぽかして、死んでもまた来世に、肉体を持ってこの世に生まれてこられると解釈(誤解?)したのであると。死後、〈苦の世界〉でなく、〈楽の世界〉へ生まれるという考えは、浄土教において完成する。またその浄土教は日本でも大いに流行する。

 また、仏教の側でも「盂蘭盆経」「父母温重経」などの、〈孝〉を取り入れた偽経を作って儒教にすり寄ったりもする。こうして仏教は、中国・朝鮮・日本に根付くようになったのだと。

 

科挙官僚の登場

 漢時代の中央集権体制はまだ不十分であった。地方には名門貴族が君臨しており、皇帝はそれらの大貴族と妥協して政治をしなければならなかった。中央集権を貫徹するためには、皇帝の手足となる官僚たちが必要であった。漢代、魏晋南北朝時代の官僚は推薦制(推挙)であり、そこには情実が入り(決して優秀ではない)有力貴族の子弟が選ばれる傾向があった。隋代(587年)になって、推薦制から試験制(科挙になった。科挙は公平なシステムだったので優秀な人材が選ばれるようになった。この科挙の試験の基準が儒教であったので、官僚を目指すものは儒教を勉強せざるをえなかったのである。

 皇帝直属の中央官僚機構は、宋代において完成する。

 

宋学の誕生

 道教仏教と比較して、儒教には政治理論はあったが、宇宙論形而上学が欠けていた。それを補わんとして生まれたのが宋学という新しい儒教である。その中心人物が朱熹、すなわち朱子であり、彼の学問は朱子学と呼ばれ、それは中国では科挙試験の公式解釈であったし、朝鮮では性理学となり、日本では徳川幕府の公式イデオロギーとなった。近世・近代の東アジアで大きな力を持っていたのがこの朱子学なのである。

では、朱子は何をやったのか? 具体的に見てみよう、

宇宙論存在論・・・朱子は、他の中国人と同様に物の存在をまず認める。そしてその物・対象を「理」と「気」の二元論で説明する。宇宙論としての「理」は、存在論としての「太極」ともいわれ、そして宇宙論としての「気」は存在論としての「無極」ともいわれる。「無極にして太極」無極という潜在的なものと、太極という顕在的のものが一致している。この考えはアリストテレスの「形相」と「質料」という概念にとても似ている。アリストテレス朱子も、現実の〈物〉〈物体〉から出発しているからだ。

 

②教育論・・・朱子は教育の順序を考えた。儒教には八条目といものがある(致知・格物・正心・誠意・修身・治国・平天下)これらを段階を踏んで習得していけば、聖人に成れる。この段階を踏むというのが大事で、朱子は学力に応じて教科書を用意した。『小学』から四書へ、それから五経へという風に。このように朱子が教育課程を組織的に考えたことは、中国教育史上画期的なことだった。

  

⓷道徳・・・隋唐時代から現れる科挙官僚たちは、それ以前の推挙官僚たちとは異なる倫理を持っていた。推挙官僚たちは自分を推薦してくれる、地元の人々と関係が深かったが、科挙官僚たちは逆に皇帝と深くつながるようになる。朱子はこのような科挙官僚たちに従来の共同体的な「孝」よりも、「敬(つつしみ)」を持つように求めた。「敬」とは、分かりやすく言うならば、エリートが自らを律し管理する能力の事である。この自己に対する厳しさは、自負となってあらわれ、公・国政のためには諫言さえするといった態度をとらせるようになる。

 

④家礼・・・道教仏教が混じった礼を、儒教の正統に戻そうとした。

 

 

 この後、本書は〈儒教内面化時代〉としての現代について書いている。

そこで気になったことを一つだけ書いておこう。儒教と政治意識」についてである。

科挙官僚が、自己を厳しく律し、私的ではなく公的な存在として振る舞うということから、かれらを政策の単なる実行者と見るよりは、民の模範となる道徳家・教養人と見做すようになってきた。つまり「お上」とは、法家的権力者としての威厳という意味ではなく、儒家的な道徳家という意味を持つようになったのである。これが、現在のわれわれが、政治家に特別な倫理観(政治倫理!)なるものを要請する原因なのである。(科挙官僚は、現代で言えば官僚ではなく政治家というべきだろう、現代の官僚に当たる専門家は当時「幕僚」と呼ばれていた。)

 

     

           f:id:kurikakio2016:20171003212157j:plain

加地伸行『儒教とは何か』読んだー㊥ー

 この『儒教とは何か』という本は、中国における儒教の発達・発展を以下のように時代に沿って4段階に分ける。

 

 ⑴:原儒時代    前6世紀以前

 ⑵:儒教成立時代  前6世紀~前2世紀

 ⑶:経学時代    前2世紀~20世紀

 ⑷:儒教内面化時代 現代~未来

 

 前回書いた分は、⑴と⑵にあたり、今回は⑶の一番長い経学時代について書く。

4〈経学の時代 上〉

 

 周王朝時代は封建制の時代であり、初の統一王朝〈秦〉は郡県制を採用した。これはもっと分かりやすく言い替えることができる。封建制とは、王権が相対的に弱く、貴族(諸侯)の力が強い政治体制であり、地方分権な権力配置になりやすい。逆に郡県制になると、中央から地方に役人を派遣し直接監督するので、貴族などの中間勢力が介在できず中央集権的な権力配置になる。秦は、中央集権国家を作り、また旧来の慣習に依らず成文法による法治国家を作った。しかしこのことは、貴族たちにとって芳しいことではない。自分たちの既得権益を侵されることであり、特権を奪われることであったから。

 よって、〈秦〉はカリスマ始皇帝没後、急速に滅亡する。貴族たちの反乱である。

その後成立した前漢王朝では、秦の過激な中央集権が見直されて、封建制と郡県制のハイブリッドである郡国制となる。中央は官僚が支配し、地方には同族の皇子、または功臣などが派遣されるようになった。

 

 では前漢時代、儒教はどうなったのだろうか?

 儒教の母体となったのは、家族でありそれを縦軸に延長した宗族という血縁共同体と、農業を基本的な生業とする庶人たちにとって重要な農作業を共にする地縁共同体という二つの共同体であった。この共同体で行われるさまざまな祭祀に儒は、礼の専門家として根を張っていた。しかし、秦の時代中央集権的な官僚主義国家(というのはきわめて法家的概念なのである!)では、儒家が国レベルで活躍することはできなかった。

 儒家は、この中央の官僚システムに入り込むために、従来の祝巫・シャーマン的な〈儒〉の在り方からの脱皮をしようとした。孔子はその魁であった。孔子は、さまざまあった「詩」や「書」のテキストを整理統合した。以後、「詩」や「書」は儒家専門のテキストのようになった。そしてこのテキストを〈古典を解釈する〉という手法(詐欺?)で、新たな時代に適応しようとしたのである!〈聖人と関わりの深い古典について解釈を加える学問〉これを経学という。「詩」は「詩経」、「書」は「書経」と呼ばれるようになる。

 儒家は、非常に巧妙だった。焚書坑儒という儒家にとって災いを、逆手にとって、新たなテキストを出現させた。学者の家の土壁を壊したら、そこから古い文章がみつかったという怪しげな逸話で有名だが、それが事実であったかどうかは疑わしいのだそうだ。そうやって、古文派のテキスト(古い文字で書かれていたためそう呼ばれる)と、従来のテキストである今文派(隷書でかかれてある)の2つの学派ができる。名前こそ古文・今文だが、内容は古文の方が新しい!つまり儒家が、漢の時代にふさわしいように書き換えたテキストを偽作したのである。

 

 さて経学という新たな学問によって中央官僚機構に乗り込んできた儒家は、「孝経」「春秋」というテキストを重視した。「孝経」は詩経書経と違って、初めから経という字がついている。

 「孝経」で儒家は何を主張したかと言えば、それは「孝」という儒家の伝統的な概念の拡大である。例えば、

〈小行〉・・・ただの孝

〈中行〉・・・父母、君主、目下のものに対して従う

〈大行〉・・・道(どうり)や義(ただしさ)に対して従う

のように、道義という普遍的なものが君父よりも、孝よりも上にあるという考えである。

 また、孝と忠の関係も問題になった。この二者の概念は本質的に矛盾する概念である。戦争に行って戦って死ぬことは、君主に対する忠となるが、親に対しては不孝である。法家である韓非子は孝と忠を分離して考えたが、儒家にとってはそうはいかず、この二つの概念を架橋して連続させねばならなかった。著者は、当時の国家が公的・私的の区別がまだあいまいだったので、この連続性が可能になったと説明している。つまり、王朝は決まった姓の一族(漢は劉氏、唐は李氏など)のものであり私的な部分を多大に持っており、官僚は、国家に奉仕しているのか、私家に奉仕しているのかあいまいだった(それ故マックスウェーバーは、中国における官僚制を家産官僚制と呼んでいる)。

 「孝経」と同じく「春秋」というテキストも重視された。春秋は魯という国の歴史を書いたものである。この書は現実政治に対応するために、そこからさまざまな教訓を得て、実際の政治に生かすために重宝された。ちなみに「春秋」には尊王攘夷という思想が強く表れている。

 

 前漢武帝の建元五年に、五経博士という官職がおかれる。つまり、儒教が国教化されたのである。

加地伸行『儒教とは何か』読んだー㊤ー

 この本を読んで、仏教プロパーだとずっと思っていた物事が実は儒教に由来していると知って驚いた。例えば、「」。仏教では骨は単なるモノにすぎないから特別埋葬もせず、拝みもしない(まあ仏舎利という例外もあるが)。儒教においては頭蓋骨が特別の意味を持つと見做されおり、家の中に箱に入れられて安置され、それ以外の骨は埋葬されて、それが墓になった。それから「仏壇」と「位牌」。仏壇は儒教〈廟、祠堂、祖先堂〉が変形したもので、位牌はさっき述べた祖霊の依代となる頭蓋骨が、木札に代わってそれが更に変形したものらしい。墓参りは、清明から来ており盆や彼岸とは全く関係がない。ちなみに葬式の後、清め塩を使うのは死を忌み嫌う神道に由来する。だから日本の葬式というのは、仏教儒教神道コングロマリット、寄せ集めの儀式なのである。

 

前置きはこれくらいにして本題に入ろう。

1〈儒教における

 儒教において死がどのように捉えられているのかは、当然のことだが中国人たちの死生観と不可分である。インド人が自分が生きている世界を「苦」と考えたのとは違って、中国人たちは「この世」「現世」を楽しいものと考えた。これにはもちろん人々が置かれた自然環境のきびしさの度合が大きく関係している。過酷な自然は、人間に「死後の世界」というものを夢想させる。輪廻転生しかり、天国しかり。しかし現世が一番と考える即物的な中国人にとって、この世ほど素晴らしい所は存在しない。だから、この世に一分一秒でも長くいたい、そう希望する中国人にとって「死」はそれだけ余計に恐ろしいものなのになった。この「死」というものをどう馴致するか、「死」を恐ろしくないものとして説明してくれる仕組みを中国人は求めた。それに答えたのが、他ならぬ儒教なのである!!

 

2〈死の説明理論としての儒教

 著者がこの本で一番言いたかったのは、

儒教は死と深く関わった宗教である」ということだろう。

 これは儒教に対してわれわれ日本人がもつイメージとはかなり懸け隔っているだろう。儒教はそのような実存的な側面(著者は宗教性と呼ぶ)よりも、むしろ四角四面な道徳的・規範的な面(著者は礼教制と呼ぶ)で捉えられているからだ。

 では現世的・即物的な中国人たちを「死」の恐怖から解き放った理論とは一体どのようなものなのか?儒教はどう「死」を説明し飼いならすのか?

 それは〈孝〉によってである!

「親孝行」という言葉があるように、普通〈孝〉は親と子の関係で考えられる。しかし、儒教はそれをもっと拡大解釈したのだ。つまり、〈孝〉は、親を越えて先祖に対しても、更に下って、自分が生むであろう子孫たちにも拡大されたのである。

先祖・・・・祖父\祖母・・・・親・・・・自己・・・・子・・・・孫

 先祖との関係(過去)、親と自分との関係(現在)、子孫との関係(未来)これら3つの関係を考える。今、自分が執行する招魂儀礼のような儀式は、祖霊を現在(の自分の身体)に再生することである。また将来、一族が継続すれば、子孫も同じように儀式をするであろう。そうすれば、自分は未来に子孫の身体に再生することができる。そうして自分の命は、永遠に(勿論一族が残っていればという条件付きで)つづくということになる、と説明したのである。

 この説明は、先祖崇拝を受け入れていた中国人にとって、もっともらしく思われた。

天国へ行くのでもなく、また六道を輪廻するでもなく、たのしかったこの世界に戻ってこられるという儒教の説明は説得力を持ったのだ。

 

3〈孝から礼へ  孔子の登場〉

〈儒〉は、孔子以前から存在していた。実際、孔子の母方の祖父は〈儒〉を生業にしていた。当時の儒は、招魂儀礼の際に儀式の進行をしたり、憑依したりする「巫祝・シャーマン」であった。それには狂気と猥雑性が伴った。また、シャーマンといっても全てが超能力を持つのではないから、自然と儀式の依頼主に阿諛追従するものもあった(これらは仁人といわれた)。

 孔子が登場し、そのような猥雑性を取り除くように努力した。孔子はシャーマンのような儒を「小人儒」とよび批判した。それに対して脱魔術化して、儀式の意味を考え説明できるような儒を「君子儒」とよびそれの確立をめざした。

 

 孔子は幼い頃に父を亡くし、母親も十代に見送っている。また後に教師となり弟子をたくさん持ったが、顔淵や子路などに先立たれている。孔子にとって死は、〈孝〉の自覚をもたらす最大の契機であった。この場合、死は身近の、親しいものの死である。

 親しい者の死を最も悲しみ、親しさの濃淡に従って、悲しみも増減する。見ず知らずの他人の死は悲しくない。墨家兼愛のように誰の死であっても悲しいというのは嘘だ、と儒家は考える。儒家は徹底して常識的である。

 ではもっとも親しい者とは誰か?「親」であると孔子は言う。つまり親の死がもっとも悲しいと。ふつう親は自分よりも先に死ぬ。この「親の死」の喪礼(葬礼ではない)があらゆる儀礼、冠婚(昏)葬(喪)祭の模範となるべきものである。つまり、

  死(の不安)⇒孝⇒親の死⇒喪礼⇒礼制

 となり孝の上に礼が成り立つと考えられるのだ。この礼は家族関係をもとにしているので小礼と言われている。

 先述したように、孔子の母方は「儒」であった。なので彼は、地方の中小共同体で行われるような儀礼のことは詳しかった。しかし、もっと大きな、国規模の大礼については疎かった。孔子は、それを学ぶために当時の首都・洛陽へ留学している。彼の地で、孔子は〈書〉や〈詩)や礼・楽などを学んだ(書経詩経でないことに注意!経になるのは経学ができてから)。それらは儒教の経典ではなく、当時の官僚の必須教養であった。孔子は礼の専門家になり官僚養成学校を開き、そこで教え始めた。知識(知育)だけでなく、それを現実にどう生かすかに重点を置いて彼は教えていたようだ(徳育)。

 現実の中で活かすということは、当然政治の中でも実践するといことを意味する。

孔子は当時の封建的な君臣の関係が不安定であること問題視した。そして君臣間にも礼を求めた。家族理論を政治理論に応用したのが孔子である(後に朱子はそれを宇宙論形而上学にまで拡大したが)。この孔子の政治理論は「徳治」といわれ、「法治」と対立するようになる。徳治は、周王朝の名残があった封建的な時代にふさわしい考えで、すでに秦王朝の帝国、中央集権時代では少し合わなくなっていた。しかし著者は、徳治と法治は対立するものでなく、道徳が一番上にあり、それに従わないものがいた時その場合は法で罰する、徳治にも法治は必要なのだと注意を促している。

 では中央集権体制の下で、儒教は滅んだのか?

いや、儒教は、その体制下で官僚たちの内面を方向付けるイデオロギーとして確固たる地位を築くに至ったのである!  

      

                     次回につづく