~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

加地伸行『儒教とは何か』読んだー㊤ー

 この本を読んで、仏教プロパーだとずっと思っていた物事が実は儒教に由来していると知って驚いた。例えば、「」。仏教では骨は単なるモノにすぎないから特別埋葬もせず、拝みもしない(まあ仏舎利という例外もあるが)。儒教においては頭蓋骨が特別の意味を持つと見做されおり、家の中に箱に入れられて安置され、それ以外の骨は埋葬されて、それが墓になった。それから「仏壇」と「位牌」。仏壇は儒教〈廟、祠堂、祖先堂〉が変形したもので、位牌はさっき述べた祖霊の依代となる頭蓋骨が、木札に代わってそれが更に変形したものらしい。墓参りは、清明から来ており盆や彼岸とは全く関係がない。ちなみに葬式の後、清め塩を使うのは死を忌み嫌う神道に由来する。だから日本の葬式というのは、仏教儒教神道コングロマリット、寄せ集めの儀式なのである。

 

前置きはこれくらいにして本題に入ろう。

1〈儒教における

 儒教において死がどのように捉えられているのかは、当然のことだが中国人たちの死生観と不可分である。インド人が自分が生きている世界を「苦」と考えたのとは違って、中国人たちは「この世」「現世」を楽しいものと考えた。これにはもちろん人々が置かれた自然環境のきびしさの度合が大きく関係している。過酷な自然は、人間に「死後の世界」というものを夢想させる。輪廻転生しかり、天国しかり。しかし現世が一番と考える即物的な中国人にとって、この世ほど素晴らしい所は存在しない。だから、この世に一分一秒でも長くいたい、そう希望する中国人にとって「死」はそれだけ余計に恐ろしいものなのになった。この「死」というものをどう馴致するか、「死」を恐ろしくないものとして説明してくれる仕組みを中国人は求めた。それに答えたのが、他ならぬ儒教なのである!!

 

2〈死の説明理論としての儒教

 著者がこの本で一番言いたかったのは、

儒教は死と深く関わった宗教である」ということだろう。

 これは儒教に対してわれわれ日本人がもつイメージとはかなり懸け隔っているだろう。儒教はそのような実存的な側面(著者は宗教性と呼ぶ)よりも、むしろ四角四面な道徳的・規範的な面(著者は礼教制と呼ぶ)で捉えられているからだ。

 では現世的・即物的な中国人たちを「死」の恐怖から解き放った理論とは一体どのようなものなのか?儒教はどう「死」を説明し飼いならすのか?

 それは〈孝〉によってである!

「親孝行」という言葉があるように、普通〈孝〉は親と子の関係で考えられる。しかし、儒教はそれをもっと拡大解釈したのだ。つまり、〈孝〉は、親を越えて先祖に対しても、更に下って、自分が生むであろう子孫たちにも拡大されたのである。

先祖・・・・祖父\祖母・・・・親・・・・自己・・・・子・・・・孫

 先祖との関係(過去)、親と自分との関係(現在)、子孫との関係(未来)これら3つの関係を考える。今、自分が執行する招魂儀礼のような儀式は、祖霊を現在(の自分の身体)に再生することである。また将来、一族が継続すれば、子孫も同じように儀式をするであろう。そうすれば、自分は未来に子孫の身体に再生することができる。そうして自分の命は、永遠に(勿論一族が残っていればという条件付きで)つづくということになる、と説明したのである。

 この説明は、先祖崇拝を受け入れていた中国人にとって、もっともらしく思われた。

天国へ行くのでもなく、また六道を輪廻するでもなく、たのしかったこの世界に戻ってこられるという儒教の説明は説得力を持ったのだ。

 

3〈孝から礼へ  孔子の登場〉

〈儒〉は、孔子以前から存在していた。実際、孔子の母方の祖父は〈儒〉を生業にしていた。当時の儒は、招魂儀礼の際に儀式の進行をしたり、憑依したりする「巫祝・シャーマン」であった。それには狂気と猥雑性が伴った。また、シャーマンといっても全てが超能力を持つのではないから、自然と儀式の依頼主に阿諛追従するものもあった(これらは仁人といわれた)。

 孔子が登場し、そのような猥雑性を取り除くように努力した。孔子はシャーマンのような儒を「小人儒」とよび批判した。それに対して脱魔術化して、儀式の意味を考え説明できるような儒を「君子儒」とよびそれの確立をめざした。

 

 孔子は幼い頃に父を亡くし、母親も十代に見送っている。また後に教師となり弟子をたくさん持ったが、顔淵や子路などに先立たれている。孔子にとって死は、〈孝〉の自覚をもたらす最大の契機であった。この場合、死は身近の、親しいものの死である。

 親しい者の死を最も悲しみ、親しさの濃淡に従って、悲しみも増減する。見ず知らずの他人の死は悲しくない。墨家兼愛のように誰の死であっても悲しいというのは嘘だ、と儒家は考える。儒家は徹底して常識的である。

 ではもっとも親しい者とは誰か?「親」であると孔子は言う。つまり親の死がもっとも悲しいと。ふつう親は自分よりも先に死ぬ。この「親の死」の喪礼(葬礼ではない)があらゆる儀礼、冠婚(昏)葬(喪)祭の模範となるべきものである。つまり、

  死(の不安)⇒孝⇒親の死⇒喪礼⇒礼制

 となり孝の上に礼が成り立つと考えられるのだ。この礼は家族関係をもとにしているので小礼と言われている。

 先述したように、孔子の母方は「儒」であった。なので彼は、地方の中小共同体で行われるような儀礼のことは詳しかった。しかし、もっと大きな、国規模の大礼については疎かった。孔子は、それを学ぶために当時の首都・洛陽へ留学している。彼の地で、孔子は〈書〉や〈詩)や礼・楽などを学んだ(書経詩経でないことに注意!経になるのは経学ができてから)。それらは儒教の経典ではなく、当時の官僚の必須教養であった。孔子は礼の専門家になり官僚養成学校を開き、そこで教え始めた。知識(知育)だけでなく、それを現実にどう生かすかに重点を置いて彼は教えていたようだ(徳育)。

 現実の中で活かすということは、当然政治の中でも実践するといことを意味する。

孔子は当時の封建的な君臣の関係が不安定であること問題視した。そして君臣間にも礼を求めた。家族理論を政治理論に応用したのが孔子である(後に朱子はそれを宇宙論形而上学にまで拡大したが)。この孔子の政治理論は「徳治」といわれ、「法治」と対立するようになる。徳治は、周王朝の名残があった封建的な時代にふさわしい考えで、すでに秦王朝の帝国、中央集権時代では少し合わなくなっていた。しかし著者は、徳治と法治は対立するものでなく、道徳が一番上にあり、それに従わないものがいた時その場合は法で罰する、徳治にも法治は必要なのだと注意を促している。

 では中央集権体制の下で、儒教は滅んだのか?

いや、儒教は、その体制下で官僚たちの内面を方向付けるイデオロギーとして確固たる地位を築くに至ったのである!  

      

                     次回につづく 

初期議会  ~日清戦争への道➁~

◎第5回帝国議会 ( 1893年(明治26年)11月28日 - 1893年(明治26年)12月30日)

   星亨・衆議院議長 不信任決議案可決⇒しかし居座る

   与党化した自由党VS野党硬六派の対決 

  (硬六派:立憲改進党 自由党との民党連合がうまくいかなかったため対外硬派に転向

       東洋自由党 かつての自由党左派・大井憲太郎 

       国民協会  西郷従道品川弥二郎が下野して1892年6月結成

       大日本協会 元「内地雑居講究会」安部井磐根

       同盟倶楽部 元吏党

       政務調査会 

   条約励行建議案提出⇒進行中の条約改正の阻害になるため議会を停会⇒解散

   大日本協会解散命じる

    政府与党が抑制的で野党の方が好戦的

 

第3回衆議院議員総選挙 1894年(明治27年)3月1日  

  議席 自由党        120議席 

     立憲改進党       60議席

     国民協会        35議席

     同志倶楽部       24議席

     大日本協会       9議席 

     同盟倶楽部       18議席  

     無所属         34議席    

 

 国民協会に対する選挙干渉、議席数半減

 

◎第6回帝国議会  (1894年(明治27年)5月15日 - 1894年(明治27年)6月2日)   

    貴族院 近衛篤麿らを中心に伊藤内閣を批判 

    全国の新聞雑誌記者が連合して対外硬を支持⇐マスコミも好戦的

    1ヶ月にもならない6月2日に解散 

   陸奥・青木による条約改正が山場⇒7月16日、日英通商航海条約締結(領事裁判権の撤廃)⇒実質的に朝鮮半島の侵略をイギリスが認めたことを意味する(対露政策の一環)

 

  8月1日 日清戦争  

 

 

第4回衆議院議員総選挙 1894年(明治27年)9月1日

 議席自由党        107議席
    

    硬六派
     立憲改進党     49議席
     立憲革新党     39議席
     国民協会      32議席
     帝国財政革新会   5議席
     中国進歩党     4議席
     無所属       64議席

 

 9月15日に大本営帝国議会広島へ移る

 

◎第7回帝国議会 (1894年(明治27年)10月18日 - 1894年(明治27年)10月21日 )

     挙国一致体制

初期議会  ~日清戦争への道①~

第1回衆議院選挙 (1890年 (明治23年) 7月1日)

 

   山県有朋内閣(1889年(明治22年)12月24日 - 1891年(明治24年)5月6日)

    議席立憲自由党板垣退助)  130議席 民党

       大成会(増田繁幸)     79議席 吏党

       立憲改進党大隈重信)   41議席 民党

       国民自由党          5議席 吏党 (旧自由党後藤派系)

       無所属           45議席 

 

◎第1回帝国議会 (1890年(明治23年)11月29日 - 1891年(明治24年)3月7日)

 

 山県有朋「主権線・利益線演説」

 民党 「政費節減」「民力休養」   予算案で激突⇒解散の危機!

 自由党土佐派(28名)の裏切りで予算成立⇒中江兆民激怒、議員辞職する。

 議会終了後 山県辞職

 

第1次松方正義内閣 (黒幕内閣)

    (1891年(明治24年)5月6日 - 1892年(明治25年)8月8日)

 

◎第2回帝国議会 1891年(明治24年)11月26日 - 1891年(明治24年)12月25日 

 

 軍艦建造費削減⇒樺山海相「蛮勇演説」⇒衆議院解散

 

  伊藤博文 政党結成に動くも、明治天皇や他の元老たちに反対され諦める。

 

第2回衆議院選挙 (1892年(明治25年)2月15日)

 品川弥二郎内相による選挙大干渉(死者25名、重傷者400名)

  議席自由党     94議席 民

     立憲改進党   38議席 民

     中央交渉部   81議席 吏 (旧大成会

     独立倶楽部   31議席 吏

     近畿倶楽部   12議席 吏

     無所属     44議席

◎第3回帝国議会 (1892年(明治25年)5月6日 - 1892年(明治25年)6月14日)

   選挙干渉に対して内閣弾劾上奏案⇒否決⇒内閣問責決議案⇒可決

   品川内相責任を問われ辞職

   政府の選挙干渉を批判して陸奥宗光農商務大臣辞任 

   民党と政府が協力して「鉄道施設法」成立

   品川擁護派と批判派で閣内分裂⇒松方首相辞任

 

第2次伊藤博文内閣 (1892年(明治25年)8月8日 - 1896年(明治29年)9月18日)

 「元勲内閣」 超重量級内閣 首相経験者2人が入閣(黒田・山県)

 

◎第4回帝国議会 (1892年(明治25年)11月29日 - 1893年(明治26年)2月28日)

   軍艦建造費を巡って、内閣と衆議院が衝突⇒明治天皇の「和協の詔勅」⇒政府と民党が妥協⇒自由党の与党化(民力休養から民力養成へ)

 

明治25年11月 千島艦事件発生 ⇒ 対外硬論が台頭してくる

明治26年7月 条約改正交渉再開 外相・陸奥宗光

 

 

 

 

 

 

~核時代のトリックスター~

あさま山荘事件をご存知だろうか?

リアルタイムに知らなくても、よく戦後重大事件史とか、昭和10大事件簿みたいなタイトルでテレビの特番が組まれて、この事件は必ず採り上げられるのでテレビをよく見た世代の人なら知らない人はいないだろう。

 

連合赤軍との銃撃戦で警官が2人殉職されているこの事件なのだが、民間人が一人犠牲になっているのも知っているだろうか?

その民間人は新潟県からやって来た。人質を取っての立て籠もりが4日目を迎えた日、三千人いたという《やじ馬》達の中の一人が、あさま山荘の裏山を登って警備網をすり抜けて、建物の玄関前に躍り出たのである。

 

彼は、この事件を扱った映画やドキュメンタリーでは、軽く触れられてあとは無視されるか、警察の作戦を撹乱する邪魔者の如く扱われている。

しかし、彼(Tさんと言おう)は、もっと大きな存在者だった!

作家・大江健三郎は連作小説『河馬に噛まれる』の《「浅間山荘」のトリックスター》で次のように書いている、

ー籠城の四日目だと思う。あなたもテレヴィ中継や新聞報道で大きく扱われたのを見られたと思うけれども、弥次馬の中年男が撃たれました。建物のなかの「左派赤軍」と、包囲をしている機動隊というより、こちら側、テレヴィ画面を見つめている市民の側との、仲裁役、調停役を志願して、彼は撃たれた。いつの間にか建物の玄関口まで近づいて、内部に声をかけていたのでした。新潟のスナック経営者ということだったが。そうです、ご存知でしょう。数日後には死にました。うしろから頭を撃たれていた…僕の小説の構想には、端的にああした人物が欠けていたのです。「浅間山荘」の事件全体を理解するためには、あの仲裁役、調停役を志願して撃たれたスナック経営者のような人物が必要だった。あの無意味な死をとげた不幸な人物を媒介にすれば、自分の小説も、もひとつ高いレヴェルに押しあげて把えることができたのじゃないか、と思ったものです。革命運動というレヴェルを超えて、思想的な文脈のなかに…

 

左派赤軍と警察の間を、越えがたい深淵を架橋する者としてのトリックスター。それが新潟からやってきたTさんなのだ!

 

彼は、山荘の扉を開け(それは意外にもたやすく開いた!)、次のように左派赤軍の若者たちに語ったという。

赤軍さん、赤軍さん、中へ入れて下さい。私も左翼です。あなた方の気持ちはよく分かります。私も警察が憎い。昨日まで留置場に入ってたんです。私は医者です。新潟から来ました。」

しかし、Tさんの言葉は通じなかった。彼は頭部を撃たれ、その場に倒れた。よろよろと立ち上がって「大丈夫だ・・・」と言ったが、数日後亡くなってしまった。

 

この光景を単に、物見遊山で眺めることもできただろう。

実際、当時の日本人がそうであったように。

だが、作家として大江は、「左派赤軍」と「機動隊」の両者の銃器の前に立ち、大きな恐怖を抱いて頭を撃たれたTさんに向けて、その恐怖に釣り合う大きさの《希望の言葉》を我々は探すべきだった、と書いている。

 

「恐怖」につりあう「希望」のことば。

 

それを見出すことは、あさま山荘事件以降、今日においても、いや現在こそ必要とされているのではないだろうか?

世界・社会・共同体に兆している亀裂は、70年代よりもはるかに広く、深いものとなっている。宗教・民族・肌の色・国籍・貧富の差・思想信条によって人々は、互いに分裂対立し、個人は価値の島宇宙を孤独に漂うだけだ。

人間集団は、多数派と少数派に分かれ、多数派は少数を圧殺しようとする。

その時、多数派でもなく、少数派でもない、わけのわからない(帰属集団が不明な)トリックスターが、その対立・緊張を和らげ、かつ、憎悪と不信と恐怖に、充分対抗しうるだけの「希望の言葉」を見出し発することが、再び現実味を帯びてきてしまった現在という核時代に必要とされているのではないかと、私は思うのである。

 

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おちゅーんlive100回記念イベント『笑えない話グランプリ2017』観てきた。

             以前このブログでも書いた 

kurikakio2016.hatenablog.com

ネット配信番組の『おちゅーんLive』がこのたびめでたく100回目の配信となった。それを記念するイベントが、大阪アングラ・サブカルの聖地の一つと言って過言ではない、かの有名な「味園ビル」の2階にある紅鶴で開催された。題して笑えない話GP2017』

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「笑えない話」とは、笑ってしまった自分に対して、「なんで笑ってしまったんだ?バカ!バカ!、自分のバカ野郎~」と思わず自責の念を催させるような、不謹慎、恥知らずな話をいい歳をした大人たちが真剣に話すというおちゅーんの定番キラーコンテンツの一つである。

 

いつもはサイコロで話す担当を決めていたが、今回はトーナメント方式。

1回戦のみ配信、準決勝、決勝は会場に来た者だけが聴けるというやり口(笑)

 

1回戦はA、B、C、Dの4組に分かれて戦われた。

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A組では、絶対王者の田中さんが初戦敗退するという予想外の出来事。劇団主催者・伊藤えん魔さんが「マンゴープリンじゃない、ピカチューの肉だよ」で、準決勝進出。

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B組は、田中俊行さんとネットラジオ『血液型ZONE』を配信されてる、初登場横山創一さん(ラジオでは「諏訪山よしお」名義)が、アナーキーな無府主義者としての実力を遺憾なく発揮し勝利。準決勝に進出。私が優勝予想した放送作家吉村智樹さんは残念ながら惜敗・・・

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C組は、波乱を巻き起こした。優勝候補の原さん、竹内アニキを差し置いて、レギュラーMCの松原タニシさんが、「刑務所慰問ネタ」で予選突破。本人も予想していなかった勝利に戸惑いを隠せない様子だった。でも、勝ってもいいんじゃない?だってあなたはおちゅーんのメインMCなんですから!!

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D組は、偶然女子ばっかりが集まった組。噂の西野こうみさん(アイドルじゃなくタレント:本人談)が、前評判通りのぶっちゃけトークで予選突破。途中で話を中断するという荒業を披露したが、準決勝ではその続きをせずに全く違う話をしていました!これも花井さんの策謀か(笑)

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マイクに向かって前屈みになる、独特のファイティングポーズでご無体なトークをくりひろげる「こうみ氏」!

 

ここまでの話は、おちゅーんLive!のアーカイブで観れる。予選落ちした話も、120%笑えないので、実際に自分の眼でご覧になる方がおもしろいと思います。

 

youtu.be

 

 配信終了後、準決勝の対戦カードの抽選。

準決勝: 伊藤えん魔VS松原タニシ

     西野こうみVS横山創一

 

対戦の内容は、残念ながら書けません。結果だけ書いとくと、

伊藤えん魔さん、西野こうみさんが各々勝って決勝に進出!

準決の西野こうみさんのネタがこのイベントで一番の、ジャイアンインパクト!だった、ということだけ伝えておきましょう(笑)

 

 決勝は、伊藤えん魔 VS 西野こうみ

準決の勢いそのままにこうみさんが押し切って優勝!

レギュラーの花井さんが、こうみさんの参謀役を買って出ただけのことはあります。

時間が余ったからと付け足した「鹿」のネタはいらんかったと思う(これは書いてもいいでしょう、多分・・・)。

 

優勝おめでとう、西野こうみさん!!

でも、「こうみがおもしろいのは、下ネタじゃないから!」と花井さんが熱弁してたので、もっと他にも引き出しありそう。今後の更なる活躍にも期待しましょう!

 

最後におちゅーんLive! 配信100回おめでとう!

これからも、決してテレビ放送にはない、自由な配信を思いっきり垂れ流してくださいな、期待しております!!

     

 

 

 

 

医学ドラマ『済衆院』観た➁~「人」とは何か?~

前回は物語そのものの感想を書いてみたが、今回はその物語に触発されて(と言いつつ以前からうっすら頭にあったことだけど)考えたことを書いてみようと思う。

 

《白丁・ペクチョン》は「人」ではない、だから殺しても「殺人」にはならない。

 

見事なロジックである。

事実この時代もそれ以前も身分制度が厳格だった儒教原理主義の朝鮮社会で、白丁は人間として扱われていなかったようだ。

町はずれに、白丁だけが住む白丁村を作ってかたまって住まわされいて、町に出ると彼らは腰をかがめて、早足であるくという〈白丁歩き〉をしなければならなかった。通りの端っこを壁や塀に張り付く影のように、存在を消すように歩く。勿論話しかける人もなく、視線を送られることさえない。存在してはいるが、あたかも存在していないかのように扱われる。それが白丁だった。

『済衆院』の主人公はソグンゲと言う名前である。意味は「痩せた犬」。ソグンゲの父の名前はマダンゲで「広場の犬」という意味。ソグンゲの幼馴染みの相棒でインチキ占い師の名前はチャクテ。意味は「棒きれ」。およそ人の名とは思えないような名前をつけられている。この命名にも人間扱いされていなかったことが見て取れる。

 

「人でないものを人のように見做す」、擬人化する能力を人間が持つのと同時に、真逆の、

「人を人でないように見做す」ような能力、脱人化する能力と言うべき能力を人間は持っているのだ!

 

この「脱人化」は何も千年前、百年前の出来事として起こっただけでなく、今現在も此処日本でリアルタイムで起こっている。ある特定の国籍を持った人たちを「ゴキブリ」呼ばわりしている輩が大手を振って通りを闊歩している!!

 

「人はポリス的動物だ」と言ったのはアリストテレスだが、その「人」概念の中に奴隷は含まれていない。彼にとって奴隷は「物言う道具」であり「二本足の道具」に過ぎなかった。ソクラテスが「ただ生きる」のではなく「善く生きること」を説いたそのアテナイの繁栄を支えていたのは、ラウリオン鉱山から産出される銀であった。鉱山でこき使われていた奴隷たちのことをソクラテスプラトンは一瞬でも考えたことがあったのだろうか?「善く生きる」は言うまでもなく「ただ生きること」でさえも根源的に奪われた人々が存在するということをアテナイの哲学者たちは認識できていたのだろうか?

 

「白丁」が人間と見做されなかったように、鉱山で使役されている奴隷たちも「人」と見做されなかったのかもしれない。このことから分かるように、「人」という概念は自明ではないそれは発見されねばならなかったし、また絶えず再発見・確認されねばならない概念なのである。「人とは~である」とか「人間は全て~である」というような規定や定義が述べられていても、それらの語が本当にすべての人間を指示しているのかは疑って考える必要がある。初めから「人間」の範疇に入れられていない化外の人がいるかもしれないからだ。

 

医学ドラマ『済衆院』観た ー①ー

朝鮮初の西洋式病院かつ医学学校である『済衆院』(チェジュンウォン)とそこで研鑽する若い医師たちの物語。主人公は朝鮮の最下級の身分「白丁」出身のソグンゲ、ライバルに名門両班家のペク・ドヤン、ヒロインは中人階級で訳官の娘ユ・ソンナン。

 

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(左・黄丁、中・ソンナン、右・ドヤン 奥・アレン初代院長)

今回は物語そのものについていくつか気になったことを書いてみたい。

 

1.主人公 黄丁(ファン・ジョン)の流転

朝鮮時代の身分制度下で最下層である《白丁・ペクチョン》階級出身の主人公ソグンゲ(痩せ犬と言う意味)。彼は結核に侵された母親の医療費を捻出するため禁じられていた密屠畜に手を出してしまう。その罪で捕まった彼は、ある人物に人体解剖をするように命じられる。それが後に永遠のライバルとなるペク・ドヤンであった。人体解剖後殺されるはずだったソグンゲは何とか逃げ延びたが、遂に追手の銃弾に倒れてしまう。

 

ここで奇跡が起こる。瀕死のソグンゲ(身なりは両班に化けてる)は、訳官の娘ソンナンに発見されて彼女の家へと運ばれる。そしてそこに偶然居合わした医師アレンの外科手術によって一命を取留めるのである。

 

命を救われたことをきっかけにソグンゲ(名前も両班になりすまして〈黄丁・ファンジョン〉と名乗る)は、医師、つまりは西洋医を志すようになる。

 

甲申政変時に最初に斬られた閔泳翊を治療したのもアレンだった。その功績もあって高宗は朝鮮初の西洋式病院《済衆院》開設を許可する。病院には学校も併設され、黄丁、ドヤン、ソンナンも医学生として学ぶことになる。

 

学ぶ過程でいろんな出来事・事件が起こるのだが、主人公の黄丁は誠実に、ただ人の命が救いたいからという一途な思いでどんな困難も突破していく。途中「白丁」であることがばれて済衆院から追い出されたり、治療した両班の古風な考えの娘が医療行為を「結婚前に男に蹂躙された」と誤解して自殺し、その罪を背負わされて死刑執行の直前まで行ってしまう。日本への対抗策としてロシアと関係強化しようとしていた高宗の意向で、ロシア公使の眼の手術を成功させることを条件に死刑を免れ、更に白丁から免賎され平民となり「黄正」(発音は同じくファンジョン)という名前まで賜ってしまう!!

 

しかし、この頃から以前の庶民の命と健康をただひたすらに求めるという「黄丁」らしさが消えてしまう。済衆院での診療はそっちのけで王宮で高宗の相手をすることに時間の大半が費やされるようになってしまうのだ。いつも黄丁のよき理解者であったソンナンでさえも異議を申し立てるようになる・・・

 

物語全体の前半3分の2と後半3分の1では、ファンジョンのキャラが変化してる。丁度それは「黄丁」から「黄正」に変わる頃である。《一般庶民の味方・黄丁》から《王の側近・黄正》へと性質を一変させてしまうのだ!この事と対になるかのように、かつては傲慢不遜であったペクドヤンがその両班体質を捨てて人間味を醸し出すようになってくる。後半ではドヤンの方が《黄丁》性を帯びてくる。だからこのドラマは、ソグンゲの成長を描くと共に、ぺクドヤンの成長も同時に描くという構成になっている。

 

更に違和感が募るのは、黄正が抗日義勇軍の隊長に就任するというところである。別に自分が日本人だから日本を悪し様に描写してて違和感があると言っているわけではない。武器を取って殺人に手を染めるなどとは最もファン・ジョンの性質からかけ離れていると言うべきだろう(ドラマでも父親マダンゲをなぶり殺した兵曹判書を手術中に殺そうとして殺さなかったように)。義勇軍の件はファン・ジョンのモデルとなった「朴瑞陽」という実在の人物が抗日運動していたからドラマでもそうしたのであろうが、何かそれまでのファン・ジョンという人物造形からは導かれない行動であると感じられた。

 

2.日本人の描写について

それから気になったのがドラマに登場する日本人の演出だ。意図的なのか知らないがとても漫画的に描かれている。医師渡辺、看護婦鈴木の「そうです!クロッスムニダ!」なんて、ほとんどギャグみたいになってしまっている。また日本兵もあたかもロボット兵のごとく描かれていて、周りの朝鮮人たち、当時の朝鮮社会のきめ細やかな描写とマッチしてない感じがする。例えるなら、ハイパーリアリズムで描かれた絵の中に蛭子能収のイラストが混じってるような感じがするのだ。ペクドヤンの恋人ナオコだけが辛うじて陰影のある人物として描かれているといえよう。ほかの人物も内面に立ち入って描き込めばもっと深く広がりのある物語になったと思う。

 

3.好きなシーン

いろいろ批判してきたからこのドラマが嫌いかといえば、それは全く違う。

むしろかなり気に入っている。その中でも好きなシーンを紹介したい。

このドラマの一番の見どころは何と言ってもファンジョンが「白丁」であることをばらしてしまうシーンだと思う。足の治療に済衆院に来ていた父マダンゲが手術を拒否して帰ろうとして転倒した時、ファンジョンが杜子春よろしく「アボジ!」と言って駆け寄るシーン。この破戒のシーンが一番インパクトあると思うが、私的にはその前のシーンの方が好きである。

それは、ソンナンが腕に深い傷を負い、大量失血で意識を失った後、ファンジョンの血を輸血し、夜二人きりになった時に、意識の戻らないソンナンの手を握りながらファンジョンが語りかけるシーンである。

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「私の汚れた卑しい血が、お嬢様まで汚してしまったようで、心配で水も飲めません。息をすることもできません。どうか早く目を覚まして、いつものように生き生きと飛び回って下さい。以前貸していただいた本には教えていただきたいことが山ほどあるし、もう軟膏も無くなってしまいました。お嬢様がいなければ済衆院はたちいきません。白丁だったソグンゲが医学生になれたのも、お嬢様がいたからです。」

静かな、とても静かなシーンですが、一番感動させられました。

実はこの告白を、ソンナンは目覚めていて、聞いていたのだ!!

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本当のこと》を知ったソンナン。

しかし彼女はファンジョンを、以前と変わらず愛し続ける。

 

あと何故だか気に入っているシーンとしては、自転車でソンナンが意味なく(意味ありげに?)ファンジョンの周りをぐるぐる回るシーンも好きです。

なんか、いいです(笑)。

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               では、次回につづく。