~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

好きなお笑い② ~お笑い今昔物語~

中学に入ると、AM深夜放送にはまった。

夜10時くらいからヤンタンを聴き、深夜1時からはオールナイトニッポンを聴いた。

ぼくが聴いていた頃のレギュラー陣はMBSヤングタウン月曜日が明石家さんま長江健次、火曜日チャゲ&飛鳥、水曜原田伸郎&北野まこと、木曜日が笑福亭鶴光角淳一金曜谷村新司ばんばひろふみ、そして土曜日が笑福亭鶴瓶、途中から日曜日も放送しだして西川のりおが担当してました。一番聞いていたのが月曜日だった。何度かコーナーにはがき出したが採用されず。はがき職人にはなれませんでした(笑)

オールナイトニッポンでよく聴いてたのは月曜の中島みゆき途中からデーモン小暮&サージェントルーク篁、水曜のタモリ(ナイターコーナー)木曜のたけしと高田文夫、土曜の笑福亭鶴光。最も聴いてたのは何と言っても「たけしのオールナイトニッポン」!好きだったのは「中年エレジーコーナー」。これには3回くらいネタ投稿した。当時道上ゆきえ・小泉節子という2大はがき職人が君臨してましたね。フロッグマン(潜水夫の人形)欲しかったな~。〈だよ~んギャグ〉が流行ってた頃だ。かつて笑いものにしていた「中年」に自分が達してしまい、今考えると無慈悲なネタだったなと・・・(笑)

 

日曜日には、べかこ(桂べかこ・現桂南光)・鏡(ラジオ大阪アナ)の〈べかミラ大作戦〉この番組では「言い得て妙見山」というギャグが一世を風靡しました。そして鶴瓶新野新放送作家)の〈ぬかるみの世界〉さだまさし〈気まぐれ夜汽車〉をはしごして聴いてた。ぬかるみの世界は新野先生《くっくっく》が耳について離れません。また「おじん」「おばん」「びめこ」「ぶめこ」などぬかるみ用語が生みだされてましたね。たまにゲストと喧嘩になったりなかなかドキュメンタリー的要素もありました。「ぬー大」のバッジ欲しかったなぁ(笑)あと早稲田大学の英文科卒のはずの新野先生筆記体のエルを知らなくて「がんちゃん、これエル?エルなん??」と訊いていたのが今でも記憶に残っています。

youtu.be

 

 

平日の平均睡眠時間は3~4時間だった。

あんまり寝なかったから身長伸びなかったのかしら・・・

 でもこの時期ラジオ聴きまくったおかげで、言語脳が刺激されて、文学・哲学に興味持つようになったのかもしれな。

 

好きなお笑い ①  ~お笑い今昔物語~

 

子供の頃、《漫才ブーム》なるものが起こった。

毎日どこかのテレビチャンネルで漫才をメインとするお笑い番組を放送していた。

今でも有名なのはTHE MANZAIだろう。

横山やすし西川きよしを筆頭に東はB&B,ツービート、西はザ・ぼんち紳助・竜介西川のりお上方よしお等が出演していた。一番人気があったのはB&Bか、ザ・ぼんちのどちらかであって、けっしてツービート(北野たけし)や紳助・竜介ではなかった。ザ・ぼんちに至ってはレコードを出しそれが結構売れザ・ベストテンにランクインしたり、挙句の果ては武道館でライブしたりとアイドルスターのようだった。

この中で私が好きだったのはのりお・よしお。言葉尻を捕らえて漫才を展開していくネタは、私が目指している《言葉によるドタバタ》の一つの実現例となっており好きだったですね、西川のりおの計り知れない爆発力(高血圧にもめげず!)もよかった。

  

 

あと花王名人劇場というのも印象に残ってる。

この番組で観たコント赤信号の暴走族コントは衝撃的だった。

このコントみて「都会的やな~」と思ったのを思い出す(笑)

丸井なんて大阪になかったし・・・

   

  

 

あとマニアックな笑いとしては、知ってる人ほとんどいないかもしれませんが、

「橋達也と笑いの園」が好きでしたね。

伝説となっている「人力車!

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根岸雅英 公式ブログ/橋達也さんお別れの会 - GREE からの引用

この「人力車」の最終進化形「バッティングマシーン」というのを解散する最後のステージで見せてくれたことを私は忘れてはいない!!

 

         つづく

都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』読んだ。

この本では、弥生時代古墳時代律令国家という推移を追いながら、どの段階で初期国家が成立したのかを見定めようとしている。

 

弥生時代

この時代は、かつて私の学生時代の教科書に書かれていた内容よりも更に500年ほど遡ってBC1000年から弥生時代が始まったという説を採用している。またその弥生時代は次の5つの段階に分けられる。弥生時代は戦国時代と並ぶ戦乱の時代だったことが分かっている。各段階における戦争の性格も記しておく。

早期 BC1000年~BC800年 地理的に近い小さなまとまりのできる過程で起こる戦↓

・前期 BC800年~BC400年 ↑闘・水や土地の分配をめぐる戦い

・中期 BC400年~BC50年 漢書のいう「国」が形成される過程、その国が大きなブロックに統合される過程

・後期 BC50年~AD180年 西日本全体を含む戦闘⇒卑弥呼の共立

・終末期 AD180年~AD240年 壱与の時代、東日本にまで戦闘が波及

 

このような戦闘に備えて弥生前期に「環濠集落」が作られるようになる。弥生中期になると唐古・鍵や吉野ケ里遺跡のような巨大な環濠集落が出現するが、これらは周辺の小さな環濠集落のセンター的機能を持つ集落と考えられ「国邑」と言えるものである。

弥生終末期から古墳時代初期には首長の居館が環濠集落から独立して築かれるようになり、また墓も共同墓地から独立するようになる。また生口などの隷属的な人々もあらわれ集落内の身分分化がかなり進む。

 

弥生時代中期の戦闘はブロック内での闘いであった。その事実は各々の地域で使用される武器や祭器が決まっており、決して混じって出土しないことからも明らかである。また埋葬の仕方もブロックごとに違っている。

北部九州・・・(武器)石の短剣・石鏃・青銅短剣・鉄戈 (祭器)鉄鏃銅矛・銅戈(埋葬法)方形の低い墳丘墓・甕棺

瀬戸内海・・・(祭器)平形銅剣

畿内/東海・・・(祭器)銅鐸 (埋葬法)方形の低い墳丘墓・木棺や直葬

出雲・・・(祭器)中細形銅剣

関東・・・(祭器)有角石器

 

しかし2世紀末になると、畿内の埋葬法が北九州でも見られるようになる。すなわち「ヤマト政権」が「ツクシ政権」を制圧し影響下に置いたと推察される。それは大陸における勢力分布と関係していると著者はいう、後漢の支配力の低下が楽浪郡から鉄の供給を受けていたツクシに替わって鉄の供給ルートを手に入れたヤマトが勢力を拡大させたと。

 

前方後円墳体制

前方後円墳の誕生

弥生時代前期にはどの地域もリーダーも一般民も共同墓に埋葬されていたが、中期末になると多くの地域でリーダーの墓が独立するようになる。その際葬られる墓の形が地域によって違っている。北部九州では低い方丘墓。畿内でも方丘墓だが弥生終末期になると円丘墓も出てくる。日本海沿岸では四隅突出墓というユニークな形の墓に埋葬されている。瀬戸内海沿岸では円丘墓が発達し、円丘に突起部を持つものが現れる。この突起部では死者を祀る祭壇として使われた。円丘+突起部でかなり前方後円墳に近いものとなるが、突起部は方丘墓でも作られこちらは前方後方墳のルーツとなる。ここで重要なのは、同じ形の墓を作る者は同じ祖先をもつということであり、連帯のシンボルとなるということである。

 

卑弥呼の墓に比定される箸墓古墳弥生時代の原前方後円墳の百倍の体積を持つ巨大な墳墓である。この地に前方後円墳を作るグループがいて強固な政権を作っていた様子が推察される。この時期前方後方墳を作るグループも存在したがその古墳の規格が前方後円墳のものが流用されており、後円墳グループが後方墳グループを支配下に置いていたこと、それにもかかわらず前者が後方墳を作ることを許していたことが分かる。この事実は、中央の邪馬台国が地方の首長と連合して統治をしていたことを示唆している。著者はこの統治体制を前方後円墳体制》と名付けている。

 

古墳時代

著者は3世紀後半から6世紀の前半までを古墳時代とする。この時期、古墳の作られ方に大きな変動が3回発生しているという。

第一の変動は4世紀末から5世紀前半で、巨大古墳が大和盆地から河内平野に移っていく時期である。これには倭国の東アジアとの関係が影響している。第二の変動は5世紀後半にみられ、それは雄略天皇の中央集権化と関係がある。第三の変動は6世紀前半で、前の変化で無くなった系統の古墳が復活するという反動が起こる。これは継体天皇の即位と関係している。

 

律令国家の時代

律令国家を完成させる途中で仏教などの渡来によって、前方後円墳は築かれなくなる。中国の北魏に倣って方墳に寺がセットになって作られるようになる。

 

・いつ古代国家が成立したか?

8世紀冒頭に律令国家が成立するが、そのような国家は勿論、一夜のうちにできあがるものではなく弥生・古墳時代を経て徐々に完成されてきたとみるべきで、その過程に著者がいう「初期国家」段階が存在する。「初期国家」がいつ成立するかは専門家の間でも諸説あり、主に3世紀・5世紀・7世紀という説があるそうで「七五三論争」と言われているのだとか。著者はその中でも3世紀説を採っている。つまり邪馬台国は初期国家だという事である。その理由は、身分制がある・法が存在する・租税がある・地方官もいる・魏に使者を送っている(外交)これらの点で既に初期国家の条件を満たしていると見做している。

 

・最後に感想など

2世紀末のツクシ政権からヤマト政権への権力の移行、4世紀末から5世紀初めの大和盆地から河内平野への古墳の移動これには東アジアの勢力分布が関係しているらしいのでここらへんをもっと詳しく知りたいと思った。

 

弥生時代中期にはリーダーの墓が共同墓地から独立し、弥生時代終末期から古墳時代の初期には首長の住まいが環濠集落から離れて別なところに居館が営まれるようになったという話だが、現在の金持ちが高級住宅地や都心のタワーマンションに住む原型がこの時代まで遡れるんだと、二千年の時間の長さに一種感慨を覚えた。

また弥生時代の一般人の共同墓への葬られ方だが、掘られた穴へ棺には入れられず直葬されたそうだが、その際、底の面は平らにされており、又ささやかながら土器が副葬されていたらしい。しかし古墳時代になると、底の面はでこぼこのままで副葬品も全く無いのだそうだ。こういう事実を耳にすると、やはり文明は人間から何か大切なものを失わせてしまうのだなぁと思ってしまわざるをえない。

若林幹夫『都市への/からの視線』読んだ。

 

プレモダンからモダンへ 

 

《近代化》と《都市化》は別の概念であるが、都市という場所は近代化を考えるのに最上の舞台を提供してくれる。もちろん、都市は近代だけのものではない。古代にも中世にも都市は存在した。しかしそれら近代以前の都市と、近代以降の都市では違いがある。テンニースがゲマインシャフトゲゼルシャフトという概念で区別したように、近代以前の都市が、「商業」「ギルド」「宗教」等、何らかの共通性を持って都市を形成していたのに対して、近代の都市はそのような共通性が解体されたところに現れてくる。近代都市は、伝統的な関係性の替わりに、技術や制度によって人々を関係づける。

 

合理性・技術によって設計され建設された都市。それを建築家・原広司は「均質空間」と呼ぶ。その典型は、ガラスのカーテンウォールに囲われた直方体のビルである。ミース・ファン・デル・ローエル・コルビュジェの設計した建築物に体現された思想「ユニバーサル・スペース(普遍空間)」。いったい何が、普遍なのか?その建物の内部では何処にいてもほとんど同一の環境条件が保たれている。また、内部に固定された壁を持たないので、室内を適当に区切ることによって自由に編成できる。つまり特定の用途に縛られずどのようにも使用できる。それにこれらの建物は寸法が規格化されていて、同一様式の建物が世界中どこでも大量生産可能である。このような特性は、ゴシックやバロック様式などの建築物のように、固有な場所性や方向性を持たない。風土や文化からは解き放たれて自由である。近代以前の都市が持っていた中心ー周縁というような空間概念は成立しない。これは、空間がもはや社会関係の準拠枠にならないという事を意味しているのである。それを別の言い方で表現するならば超越的な意味の剥奪ということで「世俗化(Säkularisierung)」とも言える。

 

モダンからポストモダン

 

では、モダン都市からポストモダン都市への推移はどのようにして起こったのか?著者は「見えない都市」(磯崎新)と「ヴァナキュラー建築」を挙げて説明する。パリやニューヨークなどの都市は、グリッド状や放射状の幾何学的な街並みを持っており、そこを移動する人々にとって、自分の居場所があたかも鳥瞰しているように見通せ、確認できる。そのような都市を「見える都市」という。逆に、東京やロスアンゼルスのような不定形に巨大化した都市は、そのような視点を持つことができない。ゆえに「見えない都市と」呼ばれる。「見える都市」は合理的に設計された均質空間をめざして作られたことはすぐわかる。一方「見えない都市」が均質空間でないというわけではない。その見えなさは、むしろ近代が含んでいる多様性・過剰性に由来し、多様性を可能にしたのが「地」としての均質空間であったという。場所的な特異性がないからこそ、いろいろなものが共存できるのだ。(ちなみに著者は近代以前の都市がもっていた紐帯としての「共同性」に替わるものとして、紐帯が解けてしまった近代都市がもつその代補概念を「共異体=共移体」と呼んでいる。)

一方「ヴァナキュラー建築」とは、元の意味は土着的な住まいという意味なのだがここでいうそれは、ラスベガスの大通りに見られるような「建築の形態を商業的な目的のためのコミュニケーションである広告に従属させ、機能とも構造とも関係のない装飾的な意匠でその表層を覆いつくした」建築の事を指している。簡単に言えば、俗臭芬々たる悪趣味・キッチュな建築とでも言えようか。それらの建築は、モダン建築が備えている構造や機能より過剰な部分を持っている。それこそ、ポストモダン 的な要素である、記号的・イメージ的な表層なのだ。

 

著者は、ポストモダン都市を2つの層が重なったものと見ている。一つ目は、モダン都市を形作った合理的な構造・及び物質的な層である。その下部構造の上に上部構造である記号論的・イメージ的な層が重なっていると。別な言い方をすれば、都市をテキストとして読むということ、都市の見えなさではなく、都市の見え方に注目することである。

記号論的な都市のあらわれは、例えば東京における1980年代のおしゃれなまち「渋谷=パルコ」や、最近の「ふるさと創生」「まちおこし」的文脈に顕著にみられる。そこでは地方の町がさまざまな物語的意匠で塗りたくられ(ゆるキャラもその意匠のひとつ)過剰な表層を掲げさせられてしまっている。

このような地方の町おこし的な少々滑稽な感のする例だけではない。近代以降先進国で進行した「郊外化」もその例の一つなのである。すなわち、「郊外化」とは交通手段の発達による通勤範囲の拡大という物理的・物質的な「近郊化」とは異なり、記号論的・イメージ的な価値が必ず付与されている。「裕福さ」や「幸福な家族」といった物語がそこには織り込まれているのだ。

 

ーと、ここまで来て何か気づくだろうか。そうモダン都市/建築を支配していたあの合理主義・物質主義も、じつは、ある種の記号論的・イメージ的な上部構造だったのではないかと。「合理性」という物語が、流通していただけではないかと。 

 

この本の第8章は「住居」なのだが、これについては「箱男」と関連付けて考えたいのでまた後日書きたいと思う。

 

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《さまざまな箱男》   

小説『箱男』の発想は、作者の安部公房が実際に目撃した一人の実在の浮浪者に由来している。東京上野で行われた浮浪者取り締まりを見物に行った際、上半身がすっぽり入るくらいの段ボール箱を被っている浮浪者を見かけた。取り締まっている警察官たちは、その「箱入り浮浪者」の扱いに困惑して、余計なものを摘発してしまったと持て余し気味だったが、一方の保護され事情聴取されている箱男の方は、箱を脱ぐように指示されても頑として聞き入れず、泰然自若の態度で悠々と箱の中でパンをかじっていたのだという。その光景に衝撃を受けた安部がこの小説を構想したのである。だからこの小説より前に既に箱男は存在したのである!!

                                           f:id:kurikakio2016:20180204192755p:plain super boxman

 

《箱の製法》

材料

ダンボール空箱  一個

ビニール生地(半透明) 五十センチ角

ガムテープ(耐水性)約八メートル

針金 約二メートル

切り出し小刀(工具として)

(なお、街頭に出るための本格的身ごしらえには、他に使い古しのドンゴロス三枚、作業用ゴム長靴一足を用意すること)

            f:id:kurikakio2016:20180204151546j:plainドンゴロス

この詳細な箱製作レシピ。安部は自身で実際に箱を作ったそうだ。しかしとても外へ出て行く勇気が無くて、家の庭で箱をかぶって小一時間外を観察していたと言っている。

しかし!!しかしである!

箱を被って外に飛び出た猛者たちの記録がネット上にいくつか残っている!!

その勇気あるパートタイム箱男の例を見て、箱男への第一歩をイメージしてほしい!

 

① 《湯ざまし氏の場合》

記事は2011年だが、実行は2009年にされたようである。

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安部公房が目撃した上野の箱男も座っていたというのでこんな感じだったんだろう。

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     地下街をさまよう箱男。帰宅する会社員たちとの対比が秀逸!

         f:id:kurikakio2016:20180204153253p:plain ついに話しかけられる箱男

         f:id:kurikakio2016:20180204153428p:plain 箱男は電話ボックスに入れない(貴重な実験)

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    これが本来?の箱男の居場所か・・・なじむ、なじむ

 

元記事  『箱をかぶれば箱男

特集|箱をかぶれば箱男 ―湯ざまし  より引用させて頂きました。

 

② 《℃ Taro Tezuka 氏の場合》

これは2002年だから、もう16年も前になる。

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     京都の町になじむ?箱男

 

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     やっぱり職質される箱男

 

元記事 【体験報告】箱男 から引用させて頂きました。

http://yattemiyou.sakura.ne.jp/archive/hakootoko.html


         

 

③ 《なんでもやってみようの会の場合》

これは2007年、慶応義塾大学と早稲田大学の学生が共同創始したサークル『なんでもやってみようの会』の活動の一環。

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       電車に乗ろうとする箱男

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       実際に乗車してしまった箱男!シュールや!!

 

元記事  なんでもやってみたブログ より引用させて頂きました。

なんでもやってみたブログ:箱男 - livedoor Blog(ブログ) 

 

 

  さまざな箱男

箱男の被る箱のサイズも安部公房は記していて、横幅と奥行きは1メートルで高さが1.5メートルとなっている。おそらく上記①の湯ざまし氏の箱男がそれに一番近いと思われる。だから横から見ると割とごつく見える。

三氏の体験記を読んでいると、箱男の視界が異常に狭いということが記されている。この視野狭窄的状況は、「中の人」にとって物理的には不利に、しかし心理的に有利に働くようだ。不利なのは真下は箱の下から見えるが、チョットだけ前が見えにくくエスカレーターなど乗るときは転ばないよう注意が必要なのだ。心理的有利さは、周りの人の反応がほとんど見えないということで(加えて音も聞こえにくい)、羞恥心が和らげられるということだ。それは見られていないという事ではなく、見られていることが見えないということで、箱およびそこに穿たれた長方形の窓の効用だといえる。周りの人の反応は、安部公房が書いているように、《見て見ぬフリ》が最も多いそうだが、中には話しかける人もいる。業務上話しかけざるを得ない人(店員、駅員、警察官など)を除くと、話しかけるのはいっちょ噛みのやじ馬的おじさんと、世間の常識に冒されていない子供たちだ。かける言葉が意外で面白い。「なんかの宣伝?」「なんだカメラの人か…」なんのことやらわからないことを呟く人もいる(笑)

 

しかし、予想よりも容易にウロウロ徘徊できているのは意外だった。中には電車にまで乗ってる人もいる。ちょっと前の実験なので、コンプライアンスにうるさく、不審者に敏感な現在ならどうだろうか?箱男にとっても現在は生きにくくなっていることは間違いないだろう。社会のニッチがどんどん狭くなってきている。安全安心を優先する事と、ゆるく生きることがトレードオフの関係になっていて、前者に重きを置くとどんどん息苦しい世の中になっていく。監視社会は何も、国家だけの専売だけではない。自分も含めた、一般庶民の中にもその根を持っていることを忘れてはいけない。

 

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この箱男は薄っぺらい「ぬりかべ」タイプ。ちなみに中は岸部シロー

 

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       「頭部だけ」タイプ。しかも顔つき。

        こういうのは個人的にはあんまり好きではない。

 

 

youtu.be

 

 

《箱男》のいるところ。 ~箱男を救済せよ!~

箱男は学生時代から何回も読んできた。

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安部公房の小説の中では、『砂の女』、『他人の顔』、『燃えつきた地図』と並ぶ傑作だろう(『終りし道の標べに』『けものたちは故郷をめざす』などの実存シリーズを除けば。)

 

箱男にはいろいろ書きたいことがあるが、ここではやや斜め目線で、

小説の舞台の中で箱男がどこに現れるのか》に注目したい。

 

箱男』の主な登場人物は、

ぼく(元カメラマン)、「A」、若い看護婦(戸山葉子)、贋医者(贋箱男)、元軍医殿、「少年D」。ただし少年Dは挿入話として登場。

 

箱男」の構成がややこしいのは、登場人物が本物と贋物に分かれていることと、加えてその真贋各々の箱男が書いた「日記」が、間に挿入されていることである。《ぼく》は、果たして本物の箱男なのか?それとも贋箱男なのか?さらに「日記」の筆者は贋箱男か?本物なのか・・・? 日記とは本来、過去に起こったことを現在地点で振り返って遡行的に書くものであるが、「箱男」のそれは、未来のことを既に起こったことのように書くという時間軸上のからくりも潜ませてあるのでより厄介だ。  

まあ、これは今回脇に置いておこうと思う。今の私にはもっと重要なことがあるのだ!

 

《Aの場合》

「たとえば、君にしたところで、まだ箱男の噂を耳にしたことはないはずだ。べつにぼくのうわさである必要はない。箱男はぼく一人というわけではないからだ。統計があるわけではないが、全国各地にはかなりの数の箱男が身をひそめているらしい痕跡がある。そのくせどこかで箱男が話題にされたという話は、まだ聞いたこともない。どうやら世間は、箱男について、固く口をつぐんだままにしておくつもりらしいのだ。…」

 

箱男が目立ちにくいのは、たしかである。歩道橋の下だとか、公衆便所とガードレールの間などに押し込まれて、ゴミとそっくりだ。だが目立たないのと、見えないのとは違う。とくに珍しい存在というわけではないのだから、目にする機会はいくらでもあったはずなのだ。…」

 

「ある日、Aのアパートの窓のすぐ下に、一人の箱男が住みついた。…」

 

「-Aは箱をかぶったまま、そっと通りにしのび出た。そしてそのまま、戻ってこなかった。」

 

《ぼくの場合》

「ちょうどいま、運河をまたぐ県道三号線の橋の下で、雨宿りしながらこのノートを書きすすめているところだ。…」

 

箱男にはやはり駅の周辺だとか、混み入った商店街なんかの方が向いている。たかだか三、四本しかない道を、迷路のように見せかけている風景の正直さも好きだし、それに第一居心地がいい。この調子だから地方の町は苦手なのだ。…」

 

「東京の盛り場ならいざ知らず、このT市の繁華街では、とても二人の箱男を受入れる余地はない。」

 

「いまここは湾をへだててT港と向かい合った市営の海水浴場。ヤドカリが音を立てて這いまわっている、無人の砂浜。」

 

公衆便所と、何かの板塀(露店駐車場かもしれない)のあいだの狭い隙間に、つぶれかかったダンボールの空箱がひとつ乱暴に押し込まれているのを見掛けたことがある。住人がいなくなった箱は廃屋と同じで、老朽化も早いらしく、しなびた葡萄色に風化してしまっていた。」

 

《贋箱男の場合》

坂の上の病院、医者の書斎、兼居間。

「話しかけられているのは、箱男だった。ぼくとそっくりな箱をかぶって、ベッドの端に掛けていた。」

 

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《Aの場合》と《ぼくの場合》で分かるように、箱男の生息場所は浮浪者のそれと酷似している。というか区別できない。場所が区別されないばかりでなく、箱男と浮浪者は同じ類の存在者と見做されがちだ。しかし、安部公房は両者を峻別する。『箱男は浮浪者とは違う」とでも書くつもりだったのだろう。もっとも世間の方では、箱男が思っているほど、はっきり区別をつけてくれてはいないようだ。たしかに共通点も少なくはない。たとえば身分証明書を持たないこと、職業に就かないこと、一定の住居を持たず、名前や年齢を明示せず、食事や睡眠のための決まった時間や場所を持たないこと。それから・・・そう、散髪に行かず、歯をみがかず、めったに風呂に入らず、生活のためにほとんど現金を必要としないこと、等々・・・』ここまでは共通点。これ以後が相違点。

 『しかし乞食や浮浪者の側では、けっこう違いを意識しているらしいのだ。何度も嫌な思いをさせられた。・・・とくに「ワッペン乞食」には目の敵にされたものである。連中の縄張りに入ったとたん、黙殺どころか、過敏すぎるくらいの反応をあびせられるのだ。登録された番地に住み、ちゃんと現金払いで暮らしている連中から受ける以上の、露骨な敵意とさげすみの色を突きつけられる。そう言えば、乞食から箱男になったという話はまだ聞いたことがないようだ。こっちだって、乞食の仲間入りしたつもりは無いのだから、まあお互いさまだろう。だからと言って、彼等を見下したりするつもりはない。あんがい乞食までは、まだ市民に属する周辺の一部で、箱男になるともう乞食以下なのかもしれないのである。

乞食は市民であるが、箱男は市民でない。そのように理解できる最後の文章は重要である。しかし近代民主主義国家における市民・個人とは何なのか?それは安部公房自身が述べているように「デモクラシー原理というのは、ある市民の匿名性という事で成り立っている。つまり無名の完全に価値が等しい等価の人間、身分とか財産とかうんぬんで区別されないところの各個というものが平等に、投票の権利、政治的な発言権を持つ。それは誰でもない、と同時に誰ででもありうるありうるということで主体性を取り戻す。極限のデモクラシーの原理というものは、人間が誰でもないのと同時に、誰ででもありうる。要するに、箱男のありのままの姿というものは、それを直視すれば、ある意味で人間が民主主義の原理として憧れているというか、どこか心の中で夢として、絶対不可能だけれど夢として抱いているものである。・・・」(「小説を生む発想」)というものならば、箱男こそはデモクラシーの規範的モデルではないだろうか?分かりやすく言えば、近代民主主義国家では、投票に行くとき、誰でも箱男(箱女!)と同じ状態になっているのである。(見かけ上、選挙人名簿に登録されているという非箱男的部分が存在するが、原理的・理想的にはそうなのである。)

youtu.be

 

小説『箱男』が面白くなくなるのは、箱男箱男的な属性を放棄し、箱が持つあらゆる可能性を単なる金銭に交換してしまう瞬間からだ。作中の箱男は、たった5万円で箱を譲渡してしまう。もちろんそれは、5万円という金額ではなく、話を持ち掛けた若い看護婦の魅力に負けた側面が強いが…。(ユーチューブ動画では緒川たまきが看護婦を演じていて、彼女だったらしょうがないかと思う自分がいる(笑)。)箱の譲渡、および箱を媒介とした見る主体・見られる客体の相克という近代認識論のウロボロス的無限ループに足を突っ込んだ時に、箱男というモチーフは一挙に陳腐化してしまう。もっと、箱男を生かすべき方法があるはずだ、その可能性を私はこれから探し求めてみたいと思う。

わずか5万で、箱男が売られるなんて、

安すぎはしないか?

 

この動画は原作に割と忠実に作られてる。youtu.be

 

 

吉田孝『日本の誕生』を読んだ。ー国制と国号とー

岩波新書の『日本の誕生』吉田孝著を読んだ。

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 この本のタイトル『日本の誕生』に、著者は二つの意味を持たせている。

一つは、国制としての日本の誕生

そしてもう一つは「日本」という呼称・国名の誕生である。

 

 著者はこの国の基本的な国制・文化、すなわち近代明治維新以前までのそれらが、平安時代に形成されたとする。その古典的国制とは、

(イ) 天皇を核とし、摂政・関白、院(上皇)、征夷大将軍等がその権力を代行する。

(ロ) 五畿七道諸国(大八洲)を領域とする。

(ハ) イエ(家)の制度。

(ニ) ヤマト言葉(母音は五つ)。かな文字と漢字の併用。

(ホ)  宗教意識の基層としての神仏習合。『古今集』に代表される自然観・美意識。

の五点である。明治新政府はこれらの基本的国制を覆すためにわざわざ平安時代以前の神武創業までさかのぼって、復古的な国制をモデルとしたのだ。

 ではもう少し詳しく見ていこう。

 

 平安時代に確立されたという上記の国制より以前はどうだったのか?

たとえば、聖徳太子の「冠位十二階」や「十七条の憲法」はどのような経緯で導入されたのか?それには中国というよりも、先ず朝鮮の国制が我が国に影響を与えたのだと著者は指摘する。倭国の「冠位十二階」は高句麗の制度を取り入れたものだという。このような影響関係は倭国と朝鮮諸国の間だけに起こったことではなく、中国を中心にしてちょうど反対の位置にあった「吐蕃」と「吐谷渾(とよくこん)」の関係にそっくりだという。まず中国の制度を、地理的により近い「吐谷渾」が採り入れ、その後吐蕃が採用するという風に。実際倭国は、隋王朝が中国を統一するまで一世紀以上も国交を持たなかったが、朝鮮三国とは密な関係にあった。

 

 隋による中国統一、乙巳の変以後の大化の改新百済高句麗の滅亡、白村江での敗北、そして壬申の乱などを経て「倭」は「日本」へと国号をかえ、中央集権体制を築き上げ、律令国家を樹立する。中国の制度を移植した「律令制」は当時の日本にとっては現状と乖離したオーバースペックなものだったという。また中国は春秋・戦国時代に血縁共同体が解体されていたのに対して、日本にはそれがまだ色濃く残っており、導入された律令制と伝統的な氏族制の二階建てのような統治構造にならざるを得なかった。

 律令制は大量の行政書類を生み出すこととなり、それによって文字の使用が拡大されていく契機になった。また「大宝律令」の蔭位制では父子関係が重視され、子には「嫡子」も「養子」も共に含まれていた。養子は血縁関係のない子供でもよく、日本独自の「イエ制度」を生み出すことになった。(中国や朝鮮では、結婚しても母親の姓は変わらないし、同姓は結婚できない。また養子は同姓から取る。)

 

 平安京への遷都は新しい王朝の始まりにも等しい出来事だった。事実、天智系であった桓武天皇は、天武系の天皇が作った奈良の平城京を捨てた。そしてこれは珍しいことなのだが、「天神」を祭る郊祀を行った。中国では郊祀において「昊天上帝」と王朝の始祖(漢王朝ならば劉邦)を共に配祀するのだが、桓武は始祖として父の「光仁天皇」を配祀したのである。

 桓武天皇は、帝国の皇帝たるべく、蝦夷阿弖流為を征伐するために征夷大将軍を任命する。ちなみに、初代の征夷大将軍坂上田村麻呂ではなく、大伴弟麻呂である。

 桓武の子である嵯峨天皇淳和天皇に譲位したとき、嵯峨天皇は「太上天皇」の号をおくられた。また曾孫の清和天皇がわずか九歳で即位した時、自律的な天皇制が完成したと著者は言う。奈良時代ならば、女帝がワンポイントリリーフのように登場する所だが、皇位継承が安定してきたためその必要が無くなったからだ。幼帝の誕生は、それを補佐する摂政・関白という令外官を出現させる。平安前期に、院、摂政・関白、征夷大将軍などが出揃って、古典的国制が一応完成するのである。

 律令国家とは、他国との関係で言い直すならば、蕃夷を従える帝国である。朝鮮の三国(高句麗百済新羅)はそれぞれ中国に冊封されていたので律令は作れなかった。しかし日本は、隋・唐と使節や留学生を派遣しても冊封は受けなかった。したがって独自の律令も可能だったし、天皇が「姓」を持たないこともできたのである。

 そして九世紀中頃になると、かつては受け入れていた新羅の漂着者を追い返すようになった。古代あれほど活発だった朝鮮半島との交流も途絶えることになり、日本は狭い「大八洲」に閉ざされ、その外部はケガレた土地であると見做すようになってしまった。

 

 では、「国号・日本」はどのように生まれたのか?

  壬申の乱の際、大海人皇子は吉野から伊勢国に辿り着き、そこで天照大神に勝利を祈る。それに天照が応える。当時、この乱の勝敗は誰にも予想がつかないほどシビアなものだったらしい。兵に守られずに戦いに突入し、勝利を収めた大海人皇子は「神」と喩えられたそうだ。伊勢神宮から神風が吹いたと和歌に詠われもしている。天武は即位後、長らく廃止されていた斎宮を復活させた。壬申の乱における大海人皇子の勝利を機に、日本に沢山あった太陽神信仰の対象が、天照大神に集中することになる。伊勢神宮の地位が上昇し、皇位は「天つ日嗣」と観念されるようになる。もし、壬申の乱の勝者が大友だったら、国号は「日本」になっていなかったのではないかと著者は推察している(近江朝の人々には「日」よりもむしろ中国的な「天」の観念が強かったから)。

 「日本」とは王朝名である、と著者は言う。中国で言えば「秦」とか「漢」とか「唐」である。だから王朝が、皇帝の姓が替われば当然、王朝名も替わる。しかし日本ではそれが起こらなかった。壬申の乱桓武平安京遷都などは新しい王朝を開くという意気込みが当事者にはあったのあろうが、それが王朝名「日本」の変更にはつながらなかった。天皇に姓は無く易姓革命は起こらず、ときどきの権力者たちも旧来の国制を利用した。たまたま古典的国制が継続されたので、日本という王朝名がそのまま国号へと、なしくずしに移行していった。

 

 以上で二つの主要な論点をまとめた。ここからはそれ以外に気になった事をざっとメモしていく。

 

日本は、東アジアでも非常に早い段階で、奴隷(生口)を貨幣の様に使用していた。中国への朝貢品として、或は朝鮮半島で出る鉄への対価として生口が使われていた(他にパッとするものがなかったとも言えるが)。弥生時代が戦国時代と並ぶ戦乱の時代だったのは、生口を捕虜として得るためでなかったかと著者は述べている。

 

・「飛鳥は日本文化のふるさと」などと言われているが、雄略天皇の頃は住人のほとんどが渡来人だった。高松塚古墳の壁画も渡来人が描いた。

 

・日本語の助詞や助動詞を初めて表記したのは柿本人麻呂である。

 

伊勢神宮壬申の乱の時、そして桓武天皇が病気平癒を祈願し参拝した時、宇佐八幡宮大伴旅人が隼人征伐に成功した時、地位を上げた。

 

藤原仲麻呂儒教を、道鏡は仏教をそれぞれ自分の王権の基盤正当化に使った。

 

           長くなったのでここらへんで、《完》