~戯語感覚~

文学、思想、そしてあるいはその他諸々

二つの言葉  ~映画『金子文子と朴烈』観た~

 

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今から93年前の1926年の2月26日

一人の女性が、市ヶ谷刑務所の独房で次の文章を書き上げた(長いので最後の部分だけ引用する)。

 

「・・・私は朴を知って居る。朴を愛して居る。彼に於ける凡ての過失と凡ての欠点とを越えて、私は朴を愛する。私は今、朴が私の上に及ぼした過誤の凡てを無条件に認める。そして外の仲間に対しては云はふ。私は此の事件が莫迦げて見えるのなら、どうか二人を嗤ってくれ。其れは二人の事なのだ。そしてお役人に対しては云はう。どうか二人を一緒にギロチンに投り上げてくれ。朴と共に死ぬるなら、私は満足しやう。して朴には云はう。よしんばお役人の宣告が二人を引き分けても、私は決してあなたを一人死なせては置かないつもりです。──と。」

 

いわゆる「二十六日夜半」と題されたこの文章を書いたのは、金子文子である。

次の日の27日、大逆罪を問う大審院法廷で文子はこの手記を読み上げたと言われる。

彼女の傍らには、不逞社の同志であり、文子が「私の求めているものをあなたの中に見出した」という朴烈がいた。

 

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映画『金子文子と朴烈』より

この文子の言葉と、もう一つ対になる言葉がある。

映画『金子文子と朴烈』でも扱われているが、

1923年9月1日に発生した関東大震災で起こった惨劇朝鮮人虐殺事件」で使われた言葉「十五円五十銭」である。

この言葉は、語頭を濁音で発音しない朝鮮語の特徴を悪用した日本人と朝鮮人(当時、不逞鮮人といわれた)を区別する意図で使われたのであろう。

当時、朴烈や金子文子と同じアナーキストだった壷井繁治が「十五円五十銭」という詩を書いている(これも長いので一部を抜粋)、

 

一九二三年九月一日
正午二分前の一瞬
地球の一部分がはげしく身ぶるいした
関東一帯をゆすぶる大地震
この災厄を誰が予知したであろう

・・・・・

この火事がまだおさまらぬうちに
はやくも流言蜚語が市中を乱れとんだ
-横浜方面から鮮人が群をなして押しよせてくる!
-目黒競馬場附近に三、四百もの「不逞鮮人」があつまって
  何か不穏な気勢をあげている!
-鮮人が家々の井戸に毒物を投げこんでいるから、飲み水に気をつけろ!
社会主義者が暴動を起そうとしているから、警戒しろ!
これらの噂はまことしやかに
ひとからひとに伝えられていった
僕が友だちの安否を気づかって
牛込弁天町の下宿を訪ねたとき
そこでもその噂でもちきりだった
その友と連れだって
僕は壊れた街へ出た
ひとびとはただ街中を右往左往していた
それはまるで荒びたお祭りであった
しかもそのお祭り騒ぎを支配するものは戒厳令であった
銃剣をもって固められた戒厳令であった
僕らが矢来下から
音羽へ通ずる橋の手前に設けられた戒厳屯所を通りすぎると
-こらッ! 待て!
と呼びとめられた
驚ろいて振りかえると
剣付鉄砲を肩に担った兵隊が
-貴様! 鮮人だろう?
と詰めよってきた
僕はその時、長髪に水色ルパーシュカを身にまとっていた
それは誰が見てもひと目で注意をひく異様な風体であった
僕はその異様な自分の姿にはじめて気がついて愕然とした
僕は衛兵の威圧的な訊問にどぎまぎしながらも
-いいえ、日本人です、日本人です
と必死になって弁解した
かたわらの友人も僕のために弁じてくれた
そして僕らはようやく危い関所を通過した

・・・・

突然、僕の隣りにしゃがんでいる印袢天の男を指して怒鳴った
-十五円五十銭いってみろ!
指されたその男は
兵隊の訊問があまりに奇妙で、突飛なので
その意味がなかなかつかめず
しばらくの間、ぼんやりしていたが
やがて立派な日本語で答えた
-ジュウゴエンゴジッセン
-よし!
剣付鉄砲のたちさった後で
僕は隣りの男の顔を横目で見ながら
-ジュウゴエンゴジッセン
ジュウゴエンゴジッセン
と、何度もこころの中でくりかえしてみた
そしてその訊問の意味がようやくのみこめた
ああ、若しその印袢天が朝鮮人だったら
「チュウコエンコチッセン」と発音したならば
彼はその場からすぐ引きたてられていったであろう

国を奪われ
言葉を奪われ
最後に生命まで奪われた朝鮮の犠牲者よ
僕はその数をかぞえることはできぬ

あのときから早や二十四年たった
そしてそれらの骨は
もう土となってしまったであろうか
たとえ土となっても
なお消えぬ恨みに疼いているかも知れぬ
君たちを偲んで
ここに集まる僕らの胸の疼きと共に

君たちを殺したのは野次馬だというのか?
野次馬に竹槍を持たせ、鳶口を握らせ、日本刀をふるわせたのは誰であったか?
僕はそれを知っている
「ザブトン」という日本語を
「サフトン」としか発音できなかったがために
勅語を読まされて
それを読めなかったがために
ただそれだけのために
無惨に殺ろされた朝鮮の仲間たちよ
君たち自身の口で
君たち自身が生身にうけた残虐を語れぬならば
君たちに代って語る者に語らせよう
いまこそ
押しつけられた日本語の代りに
奪いかえした
親譲りの
純粋の朝鮮語

 

もう一度書く、ここに二つの言葉がある。

すなわち、「朴と共に死ぬるなら、私は満足しやう。」という言葉、

もう一つ、「十五円五十銭」という言葉。

前者は異質なものを欠点と誤謬を越えて受入れようとするが、

後者は自分と異なるものを少しの寛容さ無しに排除しようとするものである。

 

あれから、約百年の時間が流れた。

しかし現在、まさにこのいま、私たち日本人はこの二つの言葉のどちらを選ぼうとしているのだろうか?

また百年前に戻ってしまうのか?

昨今の日本の世論をみていると少し不安になる。

今の日本人は昔の日本人よりマシになっていると信じたいのだけれど・・・

このタイミングで『金子文子と朴烈』という映画が日本で公開されたというのは思いがけず大きな意味を持つのではないかと思う。

少なくても、金子文子という人間がいたということ、彼女が大事な言葉を残してくれたという事をぼくら日本人に思い起こさせてくれたという意味でも。

 

(平成最後の)来年の抱負など・・・

 

 

いよいよ年末である。

このブログ始めて3回目の年越しである。

ということは、過去2回「来年の抱負」などと称して、記事を書いてきたことになる。

だが、しかし!!!

これまで、その《抱負》なるものを実現させたことが一度もない!!!

これは誠に由々しき事態である。

よって、今年は抱負を語るのは止めようと思う(常識的な対応!)

大言壮語はご法度である。

言い訳が許されるのなら、右肩が痛くて、キーボード長時間敲けない、という事情もある・・・

 

で、とりあえず、右肩治して、勉強できる体勢整えなきゃいけませんね。

そのあと、やりたいことは、あります、あります、沢山あります!

ずっと気になってるのが、金子文子です。

彼女の生き方、考え方、スゴイです、衝撃的でした!

この衝撃力の強さは、フランスの思想家シモーヌ・ヴェイユ以来です。

金子文子を通して、朴烈などのアナーキストを観るということをしてみたいです。

アナーキストマルキストと違って、組織より個人の信念を重要視します。

その所が、自分の興味をひきつけます。

また、アナーキストの国際協力というのにも関心があります。

韓国映画『暗殺』には、朝鮮独立を手助けする日本人アナーキストが登場します。

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『暗殺』京城アネモネカフェの日本人バーテンダー「木村」はアナーキスト

朝鮮独立運動に日本人、中国人が参加していたという事実が現在のアジアの状況に別の光を与えるような気がします。

まあ、とにかく、金子文子『何が私をこうさせたか』を正月に読むつもりです。

 

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  では、では、来年もよろしくお願いします。

好きなお笑い② ~お笑い今昔物語~

中学に入ると、AM深夜放送にはまった。

夜10時くらいからヤンタンを聴き、深夜1時からはオールナイトニッポンを聴いた。

ぼくが聴いていた頃のレギュラー陣はMBSヤングタウン月曜日が明石家さんま長江健次、火曜日チャゲ&飛鳥、水曜原田伸郎&北野まこと、木曜日が笑福亭鶴光角淳一金曜谷村新司ばんばひろふみ、そして土曜日が笑福亭鶴瓶、途中から日曜日も放送しだして西川のりおが担当してました。一番聞いていたのが月曜日だった。何度かコーナーにはがき出したが採用されず。はがき職人にはなれませんでした(笑)

オールナイトニッポンでよく聴いてたのは月曜の中島みゆき途中からデーモン小暮&サージェントルーク篁、水曜のタモリ(ナイターコーナー)木曜のたけしと高田文夫、土曜の笑福亭鶴光。最も聴いてたのは何と言っても「たけしのオールナイトニッポン」!好きだったのは「中年エレジーコーナー」。これには3回くらいネタ投稿した。当時道上ゆきえ・小泉節子という2大はがき職人が君臨してましたね。フロッグマン(潜水夫の人形)欲しかったな~。〈だよ~んギャグ〉が流行ってた頃だ。かつて笑いものにしていた「中年」に自分が達してしまい、今考えると無慈悲なネタだったなと・・・(笑)

 

日曜日には、べかこ(桂べかこ・現桂南光)・鏡(ラジオ大阪アナ)の〈べかミラ大作戦〉この番組では「言い得て妙見山」というギャグが一世を風靡しました。そして鶴瓶新野新放送作家)の〈ぬかるみの世界〉さだまさし〈気まぐれ夜汽車〉をはしごして聴いてた。ぬかるみの世界は新野先生《くっくっく》が耳について離れません。また「おじん」「おばん」「びめこ」「ぶめこ」などぬかるみ用語が生みだされてましたね。たまにゲストと喧嘩になったりなかなかドキュメンタリー的要素もありました。「ぬー大」のバッジ欲しかったなぁ(笑)あと早稲田大学の英文科卒のはずの新野先生筆記体のエルを知らなくて「がんちゃん、これエル?エルなん??」と訊いていたのが今でも記憶に残っています。

youtu.be

 

 

平日の平均睡眠時間は3~4時間だった。

あんまり寝なかったから身長伸びなかったのかしら・・・

 でもこの時期ラジオ聴きまくったおかげで、言語脳が刺激されて、文学・哲学に興味持つようになったのかもしれな。

 

好きなお笑い ①  ~お笑い今昔物語~

 

子供の頃、《漫才ブーム》なるものが起こった。

毎日どこかのテレビチャンネルで漫才をメインとするお笑い番組を放送していた。

今でも有名なのはTHE MANZAIだろう。

横山やすし西川きよしを筆頭に東はB&B,ツービート、西はザ・ぼんち紳助・竜介西川のりお上方よしお等が出演していた。一番人気があったのはB&Bか、ザ・ぼんちのどちらかであって、けっしてツービート(北野たけし)や紳助・竜介ではなかった。ザ・ぼんちに至ってはレコードを出しそれが結構売れザ・ベストテンにランクインしたり、挙句の果ては武道館でライブしたりとアイドルスターのようだった。

この中で私が好きだったのはのりお・よしお。言葉尻を捕らえて漫才を展開していくネタは、私が目指している《言葉によるドタバタ》の一つの実現例となっており好きだったですね、西川のりおの計り知れない爆発力(高血圧にもめげず!)もよかった。

  

 

あと花王名人劇場というのも印象に残ってる。

この番組で観たコント赤信号の暴走族コントは衝撃的だった。

このコントみて「都会的やな~」と思ったのを思い出す(笑)

丸井なんて大阪になかったし・・・

   

  

 

あとマニアックな笑いとしては、知ってる人ほとんどいないかもしれませんが、

「橋達也と笑いの園」が好きでしたね。

伝説となっている「人力車!

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根岸雅英 公式ブログ/橋達也さんお別れの会 - GREE からの引用

この「人力車」の最終進化形「バッティングマシーン」というのを解散する最後のステージで見せてくれたことを私は忘れてはいない!!

 

         つづく

都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』読んだ。

この本では、弥生時代古墳時代律令国家という推移を追いながら、どの段階で初期国家が成立したのかを見定めようとしている。

 

弥生時代

この時代は、かつて私の学生時代の教科書に書かれていた内容よりも更に500年ほど遡ってBC1000年から弥生時代が始まったという説を採用している。またその弥生時代は次の5つの段階に分けられる。弥生時代は戦国時代と並ぶ戦乱の時代だったことが分かっている。各段階における戦争の性格も記しておく。

早期 BC1000年~BC800年 地理的に近い小さなまとまりのできる過程で起こる戦↓

・前期 BC800年~BC400年 ↑闘・水や土地の分配をめぐる戦い

・中期 BC400年~BC50年 漢書のいう「国」が形成される過程、その国が大きなブロックに統合される過程

・後期 BC50年~AD180年 西日本全体を含む戦闘⇒卑弥呼の共立

・終末期 AD180年~AD240年 壱与の時代、東日本にまで戦闘が波及

 

このような戦闘に備えて弥生前期に「環濠集落」が作られるようになる。弥生中期になると唐古・鍵や吉野ケ里遺跡のような巨大な環濠集落が出現するが、これらは周辺の小さな環濠集落のセンター的機能を持つ集落と考えられ「国邑」と言えるものである。

弥生終末期から古墳時代初期には首長の居館が環濠集落から独立して築かれるようになり、また墓も共同墓地から独立するようになる。また生口などの隷属的な人々もあらわれ集落内の身分分化がかなり進む。

 

弥生時代中期の戦闘はブロック内での闘いであった。その事実は各々の地域で使用される武器や祭器が決まっており、決して混じって出土しないことからも明らかである。また埋葬の仕方もブロックごとに違っている。

北部九州・・・(武器)石の短剣・石鏃・青銅短剣・鉄戈 (祭器)鉄鏃銅矛・銅戈(埋葬法)方形の低い墳丘墓・甕棺

瀬戸内海・・・(祭器)平形銅剣

畿内/東海・・・(祭器)銅鐸 (埋葬法)方形の低い墳丘墓・木棺や直葬

出雲・・・(祭器)中細形銅剣

関東・・・(祭器)有角石器

 

しかし2世紀末になると、畿内の埋葬法が北九州でも見られるようになる。すなわち「ヤマト政権」が「ツクシ政権」を制圧し影響下に置いたと推察される。それは大陸における勢力分布と関係していると著者はいう、後漢の支配力の低下が楽浪郡から鉄の供給を受けていたツクシに替わって鉄の供給ルートを手に入れたヤマトが勢力を拡大させたと。

 

前方後円墳体制

前方後円墳の誕生

弥生時代前期にはどの地域もリーダーも一般民も共同墓に埋葬されていたが、中期末になると多くの地域でリーダーの墓が独立するようになる。その際葬られる墓の形が地域によって違っている。北部九州では低い方丘墓。畿内でも方丘墓だが弥生終末期になると円丘墓も出てくる。日本海沿岸では四隅突出墓というユニークな形の墓に埋葬されている。瀬戸内海沿岸では円丘墓が発達し、円丘に突起部を持つものが現れる。この突起部では死者を祀る祭壇として使われた。円丘+突起部でかなり前方後円墳に近いものとなるが、突起部は方丘墓でも作られこちらは前方後方墳のルーツとなる。ここで重要なのは、同じ形の墓を作る者は同じ祖先をもつということであり、連帯のシンボルとなるということである。

 

卑弥呼の墓に比定される箸墓古墳弥生時代の原前方後円墳の百倍の体積を持つ巨大な墳墓である。この地に前方後円墳を作るグループがいて強固な政権を作っていた様子が推察される。この時期前方後方墳を作るグループも存在したがその古墳の規格が前方後円墳のものが流用されており、後円墳グループが後方墳グループを支配下に置いていたこと、それにもかかわらず前者が後方墳を作ることを許していたことが分かる。この事実は、中央の邪馬台国が地方の首長と連合して統治をしていたことを示唆している。著者はこの統治体制を前方後円墳体制》と名付けている。

 

古墳時代

著者は3世紀後半から6世紀の前半までを古墳時代とする。この時期、古墳の作られ方に大きな変動が3回発生しているという。

第一の変動は4世紀末から5世紀前半で、巨大古墳が大和盆地から河内平野に移っていく時期である。これには倭国の東アジアとの関係が影響している。第二の変動は5世紀後半にみられ、それは雄略天皇の中央集権化と関係がある。第三の変動は6世紀前半で、前の変化で無くなった系統の古墳が復活するという反動が起こる。これは継体天皇の即位と関係している。

 

律令国家の時代

律令国家を完成させる途中で仏教などの渡来によって、前方後円墳は築かれなくなる。中国の北魏に倣って方墳に寺がセットになって作られるようになる。

 

・いつ古代国家が成立したか?

8世紀冒頭に律令国家が成立するが、そのような国家は勿論、一夜のうちにできあがるものではなく弥生・古墳時代を経て徐々に完成されてきたとみるべきで、その過程に著者がいう「初期国家」段階が存在する。「初期国家」がいつ成立するかは専門家の間でも諸説あり、主に3世紀・5世紀・7世紀という説があるそうで「七五三論争」と言われているのだとか。著者はその中でも3世紀説を採っている。つまり邪馬台国は初期国家だという事である。その理由は、身分制がある・法が存在する・租税がある・地方官もいる・魏に使者を送っている(外交)これらの点で既に初期国家の条件を満たしていると見做している。

 

・最後に感想など

2世紀末のツクシ政権からヤマト政権への権力の移行、4世紀末から5世紀初めの大和盆地から河内平野への古墳の移動これには東アジアの勢力分布が関係しているらしいのでここらへんをもっと詳しく知りたいと思った。

 

弥生時代中期にはリーダーの墓が共同墓地から独立し、弥生時代終末期から古墳時代の初期には首長の住まいが環濠集落から離れて別なところに居館が営まれるようになったという話だが、現在の金持ちが高級住宅地や都心のタワーマンションに住む原型がこの時代まで遡れるんだと、二千年の時間の長さに一種感慨を覚えた。

また弥生時代の一般人の共同墓への葬られ方だが、掘られた穴へ棺には入れられず直葬されたそうだが、その際、底の面は平らにされており、又ささやかながら土器が副葬されていたらしい。しかし古墳時代になると、底の面はでこぼこのままで副葬品も全く無いのだそうだ。こういう事実を耳にすると、やはり文明は人間から何か大切なものを失わせてしまうのだなぁと思ってしまわざるをえない。

若林幹夫『都市への/からの視線』読んだ。

 

プレモダンからモダンへ 

 

《近代化》と《都市化》は別の概念であるが、都市という場所は近代化を考えるのに最上の舞台を提供してくれる。もちろん、都市は近代だけのものではない。古代にも中世にも都市は存在した。しかしそれら近代以前の都市と、近代以降の都市では違いがある。テンニースがゲマインシャフトゲゼルシャフトという概念で区別したように、近代以前の都市が、「商業」「ギルド」「宗教」等、何らかの共通性を持って都市を形成していたのに対して、近代の都市はそのような共通性が解体されたところに現れてくる。近代都市は、伝統的な関係性の替わりに、技術や制度によって人々を関係づける。

 

合理性・技術によって設計され建設された都市。それを建築家・原広司は「均質空間」と呼ぶ。その典型は、ガラスのカーテンウォールに囲われた直方体のビルである。ミース・ファン・デル・ローエル・コルビュジェの設計した建築物に体現された思想「ユニバーサル・スペース(普遍空間)」。いったい何が、普遍なのか?その建物の内部では何処にいてもほとんど同一の環境条件が保たれている。また、内部に固定された壁を持たないので、室内を適当に区切ることによって自由に編成できる。つまり特定の用途に縛られずどのようにも使用できる。それにこれらの建物は寸法が規格化されていて、同一様式の建物が世界中どこでも大量生産可能である。このような特性は、ゴシックやバロック様式などの建築物のように、固有な場所性や方向性を持たない。風土や文化からは解き放たれて自由である。近代以前の都市が持っていた中心ー周縁というような空間概念は成立しない。これは、空間がもはや社会関係の準拠枠にならないという事を意味しているのである。それを別の言い方で表現するならば超越的な意味の剥奪ということで「世俗化(Säkularisierung)」とも言える。

 

モダンからポストモダン

 

では、モダン都市からポストモダン都市への推移はどのようにして起こったのか?著者は「見えない都市」(磯崎新)と「ヴァナキュラー建築」を挙げて説明する。パリやニューヨークなどの都市は、グリッド状や放射状の幾何学的な街並みを持っており、そこを移動する人々にとって、自分の居場所があたかも鳥瞰しているように見通せ、確認できる。そのような都市を「見える都市」という。逆に、東京やロスアンゼルスのような不定形に巨大化した都市は、そのような視点を持つことができない。ゆえに「見えない都市と」呼ばれる。「見える都市」は合理的に設計された均質空間をめざして作られたことはすぐわかる。一方「見えない都市」が均質空間でないというわけではない。その見えなさは、むしろ近代が含んでいる多様性・過剰性に由来し、多様性を可能にしたのが「地」としての均質空間であったという。場所的な特異性がないからこそ、いろいろなものが共存できるのだ。(ちなみに著者は近代以前の都市がもっていた紐帯としての「共同性」に替わるものとして、紐帯が解けてしまった近代都市がもつその代補概念を「共異体=共移体」と呼んでいる。)

一方「ヴァナキュラー建築」とは、元の意味は土着的な住まいという意味なのだがここでいうそれは、ラスベガスの大通りに見られるような「建築の形態を商業的な目的のためのコミュニケーションである広告に従属させ、機能とも構造とも関係のない装飾的な意匠でその表層を覆いつくした」建築の事を指している。簡単に言えば、俗臭芬々たる悪趣味・キッチュな建築とでも言えようか。それらの建築は、モダン建築が備えている構造や機能より過剰な部分を持っている。それこそ、ポストモダン 的な要素である、記号的・イメージ的な表層なのだ。

 

著者は、ポストモダン都市を2つの層が重なったものと見ている。一つ目は、モダン都市を形作った合理的な構造・及び物質的な層である。その下部構造の上に上部構造である記号論的・イメージ的な層が重なっていると。別な言い方をすれば、都市をテキストとして読むということ、都市の見えなさではなく、都市の見え方に注目することである。

記号論的な都市のあらわれは、例えば東京における1980年代のおしゃれなまち「渋谷=パルコ」や、最近の「ふるさと創生」「まちおこし」的文脈に顕著にみられる。そこでは地方の町がさまざまな物語的意匠で塗りたくられ(ゆるキャラもその意匠のひとつ)過剰な表層を掲げさせられてしまっている。

このような地方の町おこし的な少々滑稽な感のする例だけではない。近代以降先進国で進行した「郊外化」もその例の一つなのである。すなわち、「郊外化」とは交通手段の発達による通勤範囲の拡大という物理的・物質的な「近郊化」とは異なり、記号論的・イメージ的な価値が必ず付与されている。「裕福さ」や「幸福な家族」といった物語がそこには織り込まれているのだ。

 

ーと、ここまで来て何か気づくだろうか。そうモダン都市/建築を支配していたあの合理主義・物質主義も、じつは、ある種の記号論的・イメージ的な上部構造だったのではないかと。「合理性」という物語が、流通していただけではないかと。 

 

この本の第8章は「住居」なのだが、これについては「箱男」と関連付けて考えたいのでまた後日書きたいと思う。

 

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《さまざまな箱男》   

小説『箱男』の発想は、作者の安部公房が実際に目撃した一人の実在の浮浪者に由来している。東京上野で行われた浮浪者取り締まりを見物に行った際、上半身がすっぽり入るくらいの段ボール箱を被っている浮浪者を見かけた。取り締まっている警察官たちは、その「箱入り浮浪者」の扱いに困惑して、余計なものを摘発してしまったと持て余し気味だったが、一方の保護され事情聴取されている箱男の方は、箱を脱ぐように指示されても頑として聞き入れず、泰然自若の態度で悠々と箱の中でパンをかじっていたのだという。その光景に衝撃を受けた安部がこの小説を構想したのである。だからこの小説より前に既に箱男は存在したのである!!

                                           f:id:kurikakio2016:20180204192755p:plain super boxman

 

《箱の製法》

材料

ダンボール空箱  一個

ビニール生地(半透明) 五十センチ角

ガムテープ(耐水性)約八メートル

針金 約二メートル

切り出し小刀(工具として)

(なお、街頭に出るための本格的身ごしらえには、他に使い古しのドンゴロス三枚、作業用ゴム長靴一足を用意すること)

            f:id:kurikakio2016:20180204151546j:plainドンゴロス

この詳細な箱製作レシピ。安部は自身で実際に箱を作ったそうだ。しかしとても外へ出て行く勇気が無くて、家の庭で箱をかぶって小一時間外を観察していたと言っている。

しかし!!しかしである!

箱を被って外に飛び出た猛者たちの記録がネット上にいくつか残っている!!

その勇気あるパートタイム箱男の例を見て、箱男への第一歩をイメージしてほしい!

 

① 《湯ざまし氏の場合》

記事は2011年だが、実行は2009年にされたようである。

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安部公房が目撃した上野の箱男も座っていたというのでこんな感じだったんだろう。

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     地下街をさまよう箱男。帰宅する会社員たちとの対比が秀逸!

         f:id:kurikakio2016:20180204153253p:plain ついに話しかけられる箱男

         f:id:kurikakio2016:20180204153428p:plain 箱男は電話ボックスに入れない(貴重な実験)

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    これが本来?の箱男の居場所か・・・なじむ、なじむ

 

元記事  『箱をかぶれば箱男

特集|箱をかぶれば箱男 ―湯ざまし  より引用させて頂きました。

 

② 《℃ Taro Tezuka 氏の場合》

これは2002年だから、もう16年も前になる。

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     京都の町になじむ?箱男

 

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     やっぱり職質される箱男

 

元記事 【体験報告】箱男 から引用させて頂きました。

http://yattemiyou.sakura.ne.jp/archive/hakootoko.html


         

 

③ 《なんでもやってみようの会の場合》

これは2007年、慶応義塾大学と早稲田大学の学生が共同創始したサークル『なんでもやってみようの会』の活動の一環。

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       電車に乗ろうとする箱男

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       実際に乗車してしまった箱男!シュールや!!

 

元記事  なんでもやってみたブログ より引用させて頂きました。

なんでもやってみたブログ:箱男 - livedoor Blog(ブログ) 

 

 

  さまざな箱男

箱男の被る箱のサイズも安部公房は記していて、横幅と奥行きは1メートルで高さが1.5メートルとなっている。おそらく上記①の湯ざまし氏の箱男がそれに一番近いと思われる。だから横から見ると割とごつく見える。

三氏の体験記を読んでいると、箱男の視界が異常に狭いということが記されている。この視野狭窄的状況は、「中の人」にとって物理的には不利に、しかし心理的に有利に働くようだ。不利なのは真下は箱の下から見えるが、チョットだけ前が見えにくくエスカレーターなど乗るときは転ばないよう注意が必要なのだ。心理的有利さは、周りの人の反応がほとんど見えないということで(加えて音も聞こえにくい)、羞恥心が和らげられるということだ。それは見られていないという事ではなく、見られていることが見えないということで、箱およびそこに穿たれた長方形の窓の効用だといえる。周りの人の反応は、安部公房が書いているように、《見て見ぬフリ》が最も多いそうだが、中には話しかける人もいる。業務上話しかけざるを得ない人(店員、駅員、警察官など)を除くと、話しかけるのはいっちょ噛みのやじ馬的おじさんと、世間の常識に冒されていない子供たちだ。かける言葉が意外で面白い。「なんかの宣伝?」「なんだカメラの人か…」なんのことやらわからないことを呟く人もいる(笑)

 

しかし、予想よりも容易にウロウロ徘徊できているのは意外だった。中には電車にまで乗ってる人もいる。ちょっと前の実験なので、コンプライアンスにうるさく、不審者に敏感な現在ならどうだろうか?箱男にとっても現在は生きにくくなっていることは間違いないだろう。社会のニッチがどんどん狭くなってきている。安全安心を優先する事と、ゆるく生きることがトレードオフの関係になっていて、前者に重きを置くとどんどん息苦しい世の中になっていく。監視社会は何も、国家だけの専売だけではない。自分も含めた、一般庶民の中にもその根を持っていることを忘れてはいけない。

 

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この箱男は薄っぺらい「ぬりかべ」タイプ。ちなみに中は岸部シロー

 

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       「頭部だけ」タイプ。しかも顔つき。

        こういうのは個人的にはあんまり好きではない。

 

 

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